第4話 観測対象の内部化について
無響大学の通信障害は、何事もなかったかのように復旧した。
学内SNSでは「マジでレポート飛んだ」「ギガ返せ」「教授の個別指導おもろすぎ」といった無責任な投稿だけが、薄っぺらな花火のように打ち上がっては消えていく。世界は、厚顔無恥な顔をして元の形に戻っていた。
──黒瀬じぇにの自室だけを除いて。
薄暗いモニターの光に照らされた部屋で、黒瀬は椅子に深く腰掛けたまま、無言でログ画面を見つめていた。
橘めるの位置情報、移動履歴、監視カメラの死角。
それらが整然と並ぶ画面は、有能な情報分析官の端末のようにも見えるが、その実態は「める観測用ストーカーOS」である。
だが、彼の目の前にある結論は、あまりにも惨めだった。
「……おかしい。計算では、完璧だったはずなのに」
かなり大規模に世界を遮断した。橘めるの視界から『自分以外の全て』を奪い去った。
それなのに、通信が死んでも彼女は彼女のままだった。友人と笑い、復旧した瞬間に別の男との約束を思い出し、自分を置いて去っていった。
世界が沈黙しても、環境を削っても、彼女の中心は揺るがなかった。その事実が黒瀬の胸の奥を静かに抉る。
「足りなかったんだ」
規模も出力も充分だった。
ならば、問題は解像度だ。もちろん物理的な意味ではない。
「……そうか。世界が邪魔なんじゃない。世界に触れる前の生活が、まだ雑音だらけなんだ」
通知。温度。空腹。疲労。忘れ物。
そんな微細なノイズが彼女の思考を自分以外の方向へ散らしている。ならば大きく壊す必要なんてない。
彼女の日常に紛れ込む乱れを、一つずつ取り除いていけばいいだけだ。
「めるは自由なんじゃない。未調整なんだ」
黒瀬は新しいノートを開くと、あまりにも丁寧な文字で見出しを書いた。
【生活導線・最適化計画】
・食事環境の安定化(醤油の適正量配置。表面張力の限界に挑む)
・筆記具喪失時の即時補完(予備ペンの研磨。摩擦係数ゼロへの挑戦)
・移動経路の摩擦軽減(群衆の流動性制御。前から順にどいてもらう)
そこまで書いて、彼は一度だけ手を止めた。
そして、迷いなく一行を追加する。
・感情変動の抑制(外部刺激の最小化。もはや無酸素状態への誘い)
書き進める彼の横顔は奇妙なほど穏やかだった。つい数時間前、大学全体を「風俗案内所」に書き換えた男とは思えないほどに。
「大丈夫だよ、める。今度は壊さない。ちゃんと、君が気持ちよく呼吸できる形で整えるから」
彼は机の隅にある醤油差しをじっと見つめた。
橘はかけすぎることもあれば足りないこともある。ならば、最初から最適な量を注いだ小皿を配置しておけば、彼女の脳から「迷い」というコストを削減できる。
コンビニのレシートも分析の対象だ。購入時間、気温、放置時間。
冷えていた方がいいタイミングと、そうでないタイミングは既に傾向が取れている。
「……うん。もう、君が小さな不便に煩わされることはない」
彼は立ち上がると、鏡の前に立った。
無駄のない動作で髪を整え、己の造形を冷徹に検分する。
「顔面偏差値は……おそらく70程度。初期接触の成功率は平均より高いはずだ」
それは客観的な事実の確認だった。彼は自分の顔が整っていることを、CPUのスペックを確認するように把握している。
口角を、ミリ単位で引き上げる。
「威圧感は抑えめに。自然に、環境に溶け込む感じで」
鏡の中には非の打ち所のない爽やかで完璧な青年が映っていた。
ただ、その瞳の奥に情緒という名の部品が欠落していることを除けば。
ふと思い立って、彼はストップウォッチを手に取った。静止した状態で、どれだけ自然な呼吸を維持できるかを測る。生活に介入する以上、違和感は最小限にせねばならない。
計測開始。
沈黙。
3秒後。
「……意味あるのかな、これ」
一度、やめた。
だが10秒後、彼は再びストップウォッチを握りしめた。
「……いや、意味は後でついてくる。やり直そう」
記録:3秒。
狂気は、合理性という鎧を纏って加速する。
彼はノートの最下段に、新しい一文を書き足した。
・外側の遮断ではなく、内側の安定化。
「僕がいるのが『前提』の状態にしたいんだ」
独り言は、ひどく静かで冷たくて、奇妙に優しかった。
「空気みたいに。──なくなってから気づくんじゃ、遅いだろ?」
夜風が、わずかにカーテンを揺らす。
黒瀬はその音に耳を澄ませ、ゆっくりとノートを閉じた。
机の上には、整然と並べられた観測記録。失敗したジャミング装置。新品のボールペン。絆創膏。栄養バランス表。そして、橘の名前が狂気的な密度で書かれたページの束。
派手な制圧は失敗した。
なら、次はもっと静かに。もっと日常の形をしたやり方で。
黒瀬は窓に映る自分へ向かって、己の顔面を最大限に利用した至福の微笑を浮かべた。
「待ってて、める。今度はちゃんと、君が困る前に全部済ませておくから。──君が、気づく前に、ね」
その声はひどく穏やかで。
だからこそ救いようがないほどに完成されていて、手遅れだった。
◇◇
その日のキャンパスは、嵐の後のような静けさで包まれていた。
数日前に大学のWi-Fiを「風俗案内所」に変貌させた黒瀬じぇにの暴挙は、皮肉にも彼の知名度を「触れてはいけない神域(地雷)」へと押し上げていた。
ひとまずの平和の戻った空間で橘めるは、学食の隅でひとり、鮭定食の皮を剥いでいた。
いつもなら「める、その皮、僕が代わりに食べようか? 君の体の一部になる光栄を僕に……」と、どこからともなく湧いてくるはずの男の気配がない。
(……あいつ、死んだ?)
流石に退学にでもなったか。あるいは、前回の感電で後遺症でも残ったのか。
橘はふと、醤油の小皿を見つめた。
──そこに、少しだけ違和感。
橘は醤油を垂らした覚えがない。だが、小皿には完璧な分量の醤油がまるで測ったかのように注がれている。
「……ま、いっか」
深く考えず鮭を口に運ぶ。
ふと視線を上げると、学食の入り口付近に、黒瀬が立っていた。
叫ぶわけでも、駆け寄るわけでもない。ただ彫刻のような無表情で、じっとこちらを見ている。
目が合うと、彼はほんの一拍だけ遅れて微笑んだ。それから何かを確かめるように胸に手を当てて、静かに一礼すると音もなく去っていった。
「方向性変えてきたな」
それから奇妙なことが相次いだ。
午後の講義中。
橘が「あ、ペン忘れた」と筆箱を探った瞬間、机の端に、昨日無くしたはずの愛用のボールペンが置かれていた。
それも指紋ひとつないほど丁寧に磨き上げられ、インクの出を確かめたような小さな点がノートの隅に一箇所だけ打たれた状態で。
「サンキュー、じぇに。見てんだろ、どっかで」
橘が天井の隅や換気口に向かって声をかけるが、返事はない。
ただ、窓の外を横切る人影が、一瞬だけ優雅に手を振った気がした。
放課後。
橘がコンビニで購入し、一口だけ飲んで放置していたカフェラテ。
友人と話し終えて戻ってくると、ぬるくなっていたはずのカップが消え、同じ銘柄のキンキンに冷えた新品が、全く同じ位置にミリ単位の狂いもなく置かれていた。ストローの向きまで、一切のズレがなかった。
◇◇
「めるちゃん。最近あなたの周り、なんか『整って』ない?」
大学終わりに二人で居酒屋で飲んでいたとき、橘めるの友人、吉田つきのが神妙な面持ちで言った。
「整ってる? そうか?」
橘は枝豆をかじりながら興味無さそうに返す。 言われてみればそうかもしれないが、それで困ってるかと言われれば、別に。
周囲では学生客の笑い声が飛び交い、ジョッキのぶつかる音が絶えない。
「そうだよ。さっきの自動ドアも、めるちゃんが足を踏み出す瞬間に開いたし。混んでるはずの通路も、なぜかめるちゃんが通る時だけモーセの海割りみたいにスペースが空く。……これ、じぇに君でしょ」
「便利なお世話ロボットみたいでいいっしょ」
「いやキモいって!」
つきのは笑いながら酒を豪快に煽り、「ぷはぁ、うめー!」と喉を鳴らした。慣れた手つきで日本酒の獺祭を傾け、初っ端からハイペースで酒を煽っていく。
酒ヤクザと名高い彼女は、橘めるが本音で話せる数少ない女友達だ。酒が強くて美人で聞き上手で、男女問わずモテる姉御系。
「でもさ、めるちゃんもめるちゃんだよね」
「と言うと?」
「普通の女の子ならとっくに逃げ出してるよ。もしくは警察行くか、引っ越すかするでしょ」
「へー、私は細かいことは気にしないんでね」
ふーん、とつきのは意味深に相槌をし、それから何かを思いついたようにニヤニヤし始めた。
「でもさ、あれを『放置できてる』時点で案外お似合いなんじゃない?」
「は?」
「だって他の男だったらめるちゃんのこと扱えないでしょ。じぇに君くらい頭おかしくないと無理。──逆もね」
「私まともだけどな」
「本気で言ってんの?」
間髪入れずに返され、橘は無言で唐揚げを口に放り込んだ。
つきのがズバズバと歯に衣着せぬ言い方をするのは今に始まったことではない。しかし、それにしたってあまりにも話が飛躍している、と橘は思った。
「てかさ」
つきのは一旦グラスを置くと、肘をついて前のめりになった。
「めるちゃんって、恋愛に興味ないの?」
「ない」
即答だった。
つきのは思わずクスッと笑いをこぼすも、橘をじっと見る。
「好きとかわかんねーし、だるいだけ」
「めるちゃん可愛いのにもったいない。男なんて選りどりみどりでしょうに。だいぶ贅沢なこと言ってるよ」
「周り変な奴しかいないけどな」
「じゃあ聞くけどさ」
つきのは人差し指を一本立てて、橘に詰め寄った。
「じぇに君は『無し』なの?」
「論外。1番ダメだろ、普通に考えて。面白い奴ではあるけど」
「えー、そうかなぁ。私はそこまで悪くないんじゃないかなって思うよ。性格はちょい尖ってるけどイケメンだし」
橘はふぅ、と一息ついてグラスを手にした。
「恋愛感情なんて勢いだけだろ。愛だの恋だの、そんなんで腹が膨れるなら誰も苦労しねーっつの」
そこまで言い切ると、橘はミルクハイを一気に飲み干した。
つきのは日本酒や焼酎などをよく好むのに対し、橘はカシスやリキュールの甘い酒しか飲まない。
「ぷは、うんめぇ。やっぱアルコールはサイコーだな」
「腹は満たされても人生は満たされないんだよなぁ」
「うまいね、つきの」
橘は思わず鼻で笑った。
酔いが回ってきたせいか、最初より頭がやや重い。店内の賑やかな喧騒がだんだん遠くの音のように聞こえてきた。
「つーかさ、恋愛どうこうで騒いでる奴ら、よく飽きねーよな。たかがホルモンバランスの乱れで好きだの嫌いだの、浮気だの別れただの、テンプレすぎだろ。頭お花畑かって」
「それはそうだけど、セフレや遊びじゃ心は満たされないもんよ。めるちゃんが特殊だから満足しにくいだけで、一途に愛されたら嬉しいんじゃない?」
「はいはい、特殊特殊。あは、ははは」
橘はグラスを机に置き、だらっと背もたれに体を預けた。つきのは少し顔が上気しているものの、まだ余裕そうに酒を飲み続ける。
間の抜けた顔でケタケタと笑う橘を見て、つきのは意味深に目を細めて笑った。
「多分、あなたの場合はさ、相手のこと好きになる前に全部見えて飽きてるんだよ」
「男なんて皆同じだろーよ」
「そりゃ、普通の男ならね。でも、『普通じゃない男』がもう身近にいる」
一瞬、橘の手が止まった。酔いで混濁していた表情が真面目になり、つきのの意図を推し量るようにじっと目を見る。
「さっきから随分あいつを推してくるね。そんなに気になるなら交尾してみたら? まあまあデカイから満足できるんじゃね」
「言い方よ。私はそういうのは遠慮しとくかな。それに、めるちゃん以外が誘っても絶対に来ないと思う」
橘が肩をすくめると、つきのはくつくつと面白そうに笑った。
つきのはひとしきり笑ったあと、一旦グラスを置いて席を立つ。
「ちょい、トイレ」
「ほい」
──数分後。
戻ってきたつきのは妙にニヤついていてどこか楽しそうだった。
「会ってきた」
「誰に?」
「じぇに君」
橘は咄嗟に辺りを見回したが、人混みに紛れて姿は見当たらない。
こちらから見えないものに見守られる落ち着かなさを少しだけ感じた。
「トイレの裏口のとこにいたよ。ちょっとだけ話してきた」
「キモすぎてウケんだけど。で、何言ってた?」
「あなたにとってめるちゃんは何なの?って聞いたらさ……」
つきのはグラスの酒を飲み干して、言う。
「『世界だよ』って言ってた」
「なんだそりゃ」
橘は意味が分からず鼻白んだ。だが、つきのはどこか楽しそうでありながら、目つきは真剣だった。
「でもね、あれは嘘は言ってなかったよ」
言葉の意味は分からないのに、なぜかしっくりくるのがどこか引っかかる。
「……世界、ね」
喉の奥に残ったアルコールが妙に熱く感じた。
◇◇
その夜。
橘がアパートの自室に戻ると、部屋の空気がわずかに違っていた。
鍵は閉まっていた。窓も施錠されている。
だが、脱ぎ捨てていた靴下が、まるでブティックの展示品のように左右揃えて畳まれ、ベッドの上に鎮座していた。
そして、テーブルの上には一枚のメモ。
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【本日の観測レポート】
・摂取カロリー:1,420kcal(鮭の皮を残したため、マイナス12kcal。栄養バランスを考慮し、冷蔵庫に特製スムージーを保管済み)
・歩数:8,421歩(右足の靴擦れを検知。玄関に低刺激の絆創膏を配置)
・会話回数:異性0回(大変素晴らしい。世界は今日も清らかです)
君の呼吸が、部屋の湿度を1%上げました。
おやすみなさい、僕の酸素。
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橘は無言で冷蔵庫を開けた。
そこには、毒々しいほど鮮やかな紫色の液体が入ったボトルが一本。ラベルには手書きで『める専用・魂の潤い液』と書かれている。
「…………」
橘はスムージーを手に取り、迷いなく一気に飲み干した。味は、驚くほど普通のブルーベリー味だった。
空になったボトルを適当に流しへ置いたとき、ふと手が止まる。
ほんのわずかに空気が違う。甘いような、落ち着くような、でもどこか鼻に残る匂い。
──ローズとサンダルウッド。
「……あー」
考えるより先に身体が理解する。
橘は特に驚くでもなく、軽く鼻を鳴らした。
「で、どこにいんのよ」
橘はなんとなく、クローゼットの扉を開けた。
中にあるのは、いつもの服。特に変わった様子はない。
バタン、と扉を閉めてみるが、匂いは消えていない。
橘はもう一度クローゼットを開けた。
「……」
今度は膝を抱えて丸まっている黒瀬と目が合った。真っ暗闇の中で瞳が煌々と輝いており、見つかったことを喜んでいるようだった。
「……バレたか。流石だね、める。僕の存在を本能で察知するなんて。僕たちはもう、実質的に同じ個体になったんだ」
「鍵、閉めてたよな。どうやって入った?」
黒瀬は少しだけ首を傾げて、考えるような間を置いた。
「1度、鍵を借りたよ。気づかなかったと思うけど」
彼は興味無さそうに言ってクローゼットから這い出てくると、服に付いた埃を払うこともせず、うっとりと室内の空気を吸い込んだ。
「静かだろう? GPSも、ジャミングも、もう古い。今の僕は、もっと単純なところにいる。僕は君の生活の一部だ。つまり、もう概念になったんだ」
「なにそれ、死んだってこと?」
「違うよ。上位存在になったってこと」
黒瀬は橘の方を向き、一歩近づいた。
「君が『不便』を感じる前にそれを消す。──君はただ、呼吸をしていればいい」
黒瀬の顔は、月の光に照らされて異様に整っていた。その静かな表情には情けなさも焦りも感じられない。
あるのは、完成された狂気だけだ。
「……ちょっと待って」
橘はゆっくりと後ろを向き、眉間を指で押さえた。さすがに、ラインを越えている気がする。
「普通に怖いこと言ってる自覚ある?」
普段なら「きっしょ」と一蹴するところだが、この場合はどこからツッコめばいいのだろう。
ふいに、横から声がかかる。
「おかえり、める。……無事で良かった」
黒瀬の声はやけに普通で、『不自然なくらい自然』だった。それから彼は少し視線を落とし、安堵したように微笑む。
「今日、だいぶ酔ってたでしょ。転ばなくて良かった」
「そりゃどうも」
「……ねぇ、スムージー、美味しかった?」
「……別に、普通」
「そっか」
小さく、普通の声で言う黒瀬。ひとまず害はなさそうだな、と橘が警戒を解いたのもつかの間、黒瀬は突然、顔を覆って震え出した。
「君の唾液の成分を分析して、最も吸収効率の良い配合にしたんだ。……あはっ、あはははははっ!」
「急にどうしました?」
「これで、君の細胞の3%は僕が設計した物質で入れ替わったことになる。つまり、今の君の右腕あたりは、実質的に僕と言っても過言ではないんだ……っ! ああ、なんて幸せ! めるの右腕と、結婚したい……!」
「ごめん、今回ばかりはマジでキモいな。流石に引いてる。何言ってるか1個もわかんねぇんだわ」
「罵倒が、僕を経由して君に届いてる……つまり今、君は僕で僕を罵倒してる状態なんだよ。これもう会話として成立してないのに成立してる。最高だね!」
黒瀬の発言に理解が追いつかなくなった橘は、深くため息をついてベッドに寝転がった。
黒瀬はじっとその様子を見つめ、メモ帳に「22:14:対象、就寝態勢。枕の角度を15度に調整(済)」と書き込んだ。
「……じぇに」
「なんだい」
「明日、1限からだから。8時に起こせよ」
普通に頼んでいい相手でないことは理解している。が、橘の思考は眠気と酔いに沈み、それ以上深くは考えない。
黒瀬の動きが、止まった。
彼は目を見開き、わなわなと唇を震わせる。
「い、今、なんて? 『起こせ』……? つまり、僕に『朝の最初の1秒』を捧げるってこと? それは、事実上の婚姻届の受理ということで……」
「ただの目覚まし代わりだよ。電池切れなんだわ、スマホ」
「任せてよ。君が一番嫌がらない声の高さ、もう覚えてるから……あ、でも、あまりに寝顔が可愛かったら、そのまま永遠に眠らせて標本にするかもしれないけど、いいかな?」
「勝手にしろ。あ、あとコンビニで鮭おにぎり買っといて。皮なしで」
「了解、ちゃんとやっとくよ」
黒瀬は一度だけ静かに頷くと、近くの椅子を引いてベッドの横に座る。
距離は、手を伸ばせば触れる位置。
だが、触れない。
そのまま、彼は一歩も動かずに橘の寝顔を見守る態勢に入る。
「ふぁー、ねみぃ。あんたもそこら辺でテキトーに寝とけよ……」
橘は眠たげに言い残すと、数分後には健やかな寝息を立て始めた。彼女にとって、黒瀬じぇにの狂気は『ちょっと便利な最新家電』程度の認識でしかない。
でも、それでいい。
暗闇の中、黒瀬は橘の寝息に耳を澄ませる。
規則正しい呼吸。
無防備な体温。
何も知らずに眠る、この状態。
それを見つめたまま、黒瀬は静かに宣言する。
「作戦名──『生活支配』」
【目的:橘めるの生存基盤の独占】
【進捗:3.14%(黒瀬理論)】
翌朝。
なぜか7時に「める、愛してるよ。朝だよ。愛してるよ」という不気味な囁き声で起こされた橘は、枕元に置かれた「皮を丁寧に剥がされた鮭おにぎり(具のみ)」を見て、少しだけ「やりすぎだろ」と思った。
ふと、昨夜つきのと交わした会話が頭をよぎる。
『案外お似合いなんじゃない?』
「……どこがだよ」
不満を吐き捨てるようにぼそっと呟いた。
なお剥がされた鮭の皮は、黒瀬が神棚のような場所に飾って拝んでいたが、橘はそれを敢えて見ないことにした。




