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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 橘める


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第1話 なんかヤバい部屋で目覚めた件

 

 その部屋の空気は、例えるなら煮詰まりすぎたジャムだった。


 夜通し『遊んだ』後であることを明示する肌の匂いと、アロマディフューザーから立ち上がるローズとサンダルウッド。

 それらが混ざり合い、甘く、重い。肺が溶けそうなほど。


 薄暗い室内を見渡せば、そこはもう立派な『(たちばな)める聖域サンクチュアリ』だ。


 壁一面を埋め尽くす橘めるの写真。

 過去に彼女が紛失したはずのヘアゴム。

 着用済みの衣類。

 すべて、美術館の展示品のように飾られている。


 窓は遮光カーテンで厳重に封印され、外界を拒絶している。

 その中心で、黒瀬(くろせ)じぇには獲物を狙う獣のような鋭い目つきで橘を睨んでいた。橘が玄関でサンダルを引っ掛けた、その瞬間。


 背後から湿り気を帯びた声が突き刺さる。


「……める。どこに行こうとしてるの? 黙って靴を履くなんて、らしくない。まさか、僕以外の誰かに会いに行くわけじゃないよね?」


 さっきまで爆睡していたはずの男が驚異の索敵能力で橘の移動を察知し、いつの間にか背後に立っている。

 睡眠時間は3時間未満だったにも関わらず、だ。


「外は危ないよ」


 黒瀬は詰め寄ると、橘の腕をがしっと掴んだ。指先が震えているくせに妙に力が強く、皮膚に食い込む痛みに橘は眉を寄せる。


「君の純粋さを汚そうとする不届き者が溢れてる。君を守れるのは僕だけだし、君のすべてを理解しているのも僕だけなんだ。ねぇ……『約束』、したよね?」


 彼がドヤ顔で提示する約束とは、平たく言えば自由権の完全剥奪である。


 ・スマホの通知は全検閲

 ・訪問時間は1秒の遅延も許さない

 ・視界には常に『黒瀬じぇに』を映し出すこと

 ・異性との会話は最小限、かつ笑顔を見せるのは厳禁


 橘としては「へー、左様で」と聞き流した程度の世間話だったが、彼の中では血で書かれた契約書レベルの確定事項らしい。


「ねぇ、どうして黙ってるの? 嫌だなんて言わせないよ。だって、君が僕なしでは呼吸すらできないようにしてあげたんだから」


 黒瀬は顔を極限まで近づけ、震える唇で甘ったるい呪いを囁く。


「大丈夫、怖がらなくていいよ。僕の言うことさえ聞いていれば、君は世界で一番幸せな女の子になれるんだから。ずっと、ずっと離さない。君が僕を嫌いになっても、僕は君を愛し続ける。死ぬまで、ね」


 橘の体が微かに震えた。それは恐怖ではなく、あまりにも重すぎる愛のポエムと、彼の首に巻かれた鎖デザインのペアルック(予定)チョーカーの痛々しさに、腹筋が限界を迎えていたからだ。


 黒瀬は橘の震えを可憐な怯えと解釈し、悦に浸りながら彼女の頬を撫でる。


「君の今日の予定、僕はちゃんと把握してるよ。13時、カフェ。15時、講義。18時、帰宅。完璧だ。──だから、その例外行動の説明、してくれるよね?」


 橘は「あー」とダルそうに声を漏らした。

 既にお腹が空いているし、昼は鮭にするか唐揚げにするかまだ決めきれていない。


 橘は少しだけため息をつき、口を開いた。


「無理っすね。今からセフレと合流するんで。じゃ」


「………………は?」


 黒瀬の顔から一瞬で血の気が引いた。

 虚ろな瞳は大きく見開かれ、唇は小刻みに震え始める。


「……今、なんて言った? 『セフレ』?  ……あぁ、冗談でしょ。僕を試して、困った顔を見て楽しんでるんだよね? ねぇ、そいつの名前は? 連絡先は? 住所は? 今すぐここで全部吐けよ。二度と君に触れることなんてできないように消しとくからさぁ!」


「すげぇキレてて草。まぁ、また気が向いたら来てやるからそこで待ってな」


 絶望に震える黒瀬の隙を突き、橘は玄関のドアノブに手をかけた。


「1回寝た程度で彼氏面すんじゃねぇーよ。童貞捨てただけの童貞が」


 彼から伸ばされた執着の手を闘牛士のごとく回避し、彼女は外の光の中へと踊り出る。


「待ってな、だって? 僕を置いて、他の男に抱かれに行くのを、ここで指をくわえて待ってろって言うの?  ……ふざけるなよ! そんなに外に行きたいなら、足首に鎖でも繋いでおけばよかったかな。ねぇ、行かないで。行ったら、僕……その男も、君も、壊しちゃうかもしれないよ!」


 玄関先から響く、近所迷惑も甚だしいヒステリックな叫び。橘は歩みを止めず、振り返りもせずにひらひらと手を振った。


「朝から元気だねぇ。賢者タイムもねーのかよ。とりま、散歩でもして頭冷やしなー。おつ!」


 ケラケラと響く軽快な笑い声と共に、彼女の背中は遠ざかっていく。

 ドアの閉まる音がやけに軽かった。その軽薄な響きだけが残る部屋で、黒瀬の世界は静かに、かつ致命的に粉砕された。


 セフレ。

 たった三文字の毒が脳内で反響し、鋭利なガラス片となって心臓を細切れにする。黒瀬は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。


 そのまま、動かない。

 遮光カーテンの隙間からわずかな光だけが差し込む。


「……はは」


 乾いた笑いが零れた。

 彼女のあまりにも残酷な、人間としての完全なる拒絶。


(……いや。違う)


 指先が、ゆっくりと動く。


(まだだ。ここで終わったら……僕は、ただの『捨てられた男』になる。そんなの……そんな無様な現実を認めるくらいなら)


 彼はゆっくりと顔を上げた。

 頭の奥で何かがパチンと弾け、割れたはずの場所を、鉛のように重い執着が無理やり埋めていく。


「……そんなわけないだろ。あは、ははははっ! 違うよ。君、分かってないな」


 不意に肩が震え出し、狂ったように笑いがこぼれた。絶望を燃料にして、黒瀬の歪んだ防衛本能が凄まじい勢いで火を吹いた。


「あれは単なる肉体の交わりなんかじゃない。魂を溶かし、僕たちが一つの個体になるための不可逆的な『儀式』だったんだ!」


 その瞬間、事実は事実であることをやめた。彼にとって都合のいい神話へと静かに書き換えられていった。


 すると黒瀬は取り乱していたのが嘘のように落ち着き払い、静かに立ち上がった。代わりに宿ったのは、狂気によってのみ成立する鋼鉄の安定だった。


 無駄な感情が削ぎ落とされたような、無機質で合理的な足取りで机に向かい、ノートPCを開く。


「……いいよ。そういう追いかけっこ、嫌いじゃない。逃げるならちゃんと捕まえやすいように、もっと派手な足跡を残しておいてよ。僕がそれを見逃すはずないだろ?」


 独り言はもはや祈りではなく、完成された呪いとして部屋の空気に溶けていく。

 黒瀬は迷いのない手つきでキーボードを打ち始めた。


 彼女の行動範囲を再定義し、新たな『聖域』を広げるためのコードを組み上げなければ。


 ふいに指が止まる。彼はゆっくりと、壁一面の写真へ視線を向けた。


「……最初から、やることは変わってない」


 黒瀬はただ、彼女を所有したいだけだ。

 静かに、確信するように宣言した。


「作戦名──『聖域構築サンクチュアリ』」


【目的:橘めるの完全保存】

【進捗:100%(黒瀬理論)】




 その頃、当の橘は学生たちが賑わう大学の学食で腕を組んでいた。


「鮭定食か、唐揚げ定食か。んー」


 黒瀬じぇにの人生を賭けた狂気よりも遥かに重要な問題である。

 先程まで寝ていた男のことなど、定食を前にした時点で頭から消えていた。


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