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○○


 父さんとシュートが、キメラと対峙していたころ。ハルトは、ボウルスタジアムの近くまで来ていた。今日は試合の予定などがないのか、閑散としている。というより、むしろにぎやかな場所だったら、ナインはこんな場所を指定してこないだろう。

 ボウルスタジアムは野球場やテニスコートなどが合わさった広大な土地で、石畳の地面もかなり広く、サイクリングの過程でここを通ったり、ランニングで何週も回る人もいる。外壁はコンクリートの壁や高い金属ネットで囲まれていて、出入り口は北側と南側に一つずつある。

 ハルトは北側の入り口、身長の三倍はあるかと思われる鉄の門の前に立って、手を当てて開こうとしてみた。だが、案の定施錠されていて、開かない。

 ハザード態に変身した状態でやってきたので、このくらいの壁ならこじ開けられそうだが、無理に破壊する必要もない。

 ハルトは少し横に逸れて、コンクリートの壁を駆け上がった。クモの能力で、壁に足を張り付けて走るのだ。そのまま飛び上がって、向こう側へ着地した。

 降りた先は広場。スタジアムの巨大な壁までは石畳が広がっており、ところどころに何らかの木が植えられている。冬が近いからか、その葉はだいぶ落ちてしまっている。

「エリザー! どこだ! ナイン! 出てこいオラァ!」

 ハルトは叫びながら、あたりを見渡した。そのとき、点々と立っている鉄柱の上に着けられたメガホンから、女声のアナウンスが流れた。

「侵入者です。侵入者です。セコム姉弟は出動してください」

「なに?」

 ハルトは驚いた。セコム姉弟だと? とにかく、侵入者とはおそらくハルトのことであり、セコムとかいうやつらが、もうすぐ迎え討ちに来るのだろう。

 正面から、男と女が走り寄ってきて、ハルトの目前で止まった。視界に入って、感覚でわかる。こいつらも、ハザードだ。

 男は茶髪の短い髪で、細身の青年風だ。女は中肉中背、男と同じ茶髪だ。大きな目も、男と似ている。

 男の方が、女に話しかけた。

「姉さん! ハザードの侵入者だ。変身しよう変身」

「面倒だけど仕事だからね」

「セイド、変身!」

「バネッサ、変身!」

 セイド、男の方は、セイドだ! あの、エリザを連れ去った憎きハザードだ。変身後の姿を見て、それはなおさら確信に変わった。セイドは植物の茎を纏ったような緑色の体へ変身し、頭はバラの花びらを乗せたような形状に変化した。

 セイドの姉と思われるバネッサという女の体も、変形していく。肩幅が広くなり、足腰もかなりがっちりした体形へ、服は体表の皮膚と同化し、薄茶色の肌として表面化していく。腕や足、胸などが、頑丈そうな分厚い皮膚に覆われた。レンガの壁のような模様が細かくあり、アルマジロの背中を連想させる。こいつはたぶん、アルマジロの特質をもつハザードだ。

 ハルトは声を荒げながら、セイドに話しかけた。

「セイド! エリザをどこへやった!」

 セイドは、ハルトのことを今やっと思い出したらしい。

「あ、お前夕方に会ったハザードか。エリザなら、スタジアムの中にいるよ」

 隠すそぶりも見せず、スタジアムの方へ首を振りながら、サラリと答えた。セイドからは、それほどの闘争心は感じない。エリザを攫った相手だが、話している感触的に、ナインに命令されてやっているだけのように思える。

 ハルトとしては、無駄な戦闘は避けて、なるべく早くエリザに会いたい。

「俺の名はハルト。ハルト・バナグラス」

「セイド・セコム」とセイド。

「バネッサ・セコム」とバネッサ。

「なあ、通してくれないか。俺の目的は、戦うことじゃない。エリザを助けに来たんだ」

 セイドは、ちらりとバネッサの方を見た。

「え、姉さん、どうする?」

「いや、ダメに決まってるでしょ。私らの給料減っちゃうよ?」

「そうか、ダメだ。すまんなハルト」

 どうやら、簡単に通れそうもない。ハルトは足の筋肉に力を入れ、踏み出そうとした。まずは、離れ技をもっているセイドから潰しておくべきだ。

 セイドも、戦闘の構えをとって、左腕を前に出した。

「姉さんは下がってて! 俺の『ローズサイクロン』で黙らせる」

 バネッサは頷いて一歩下がった。

 だが、ハルトだってローズサイクロンは警戒済みだ。素早く髪の毛を抜き、それをスラッシュナイフへ変形させる。

「二回も同じ技を食らうわけねえだろ!」

 ハルトはナイフを素早く投げ、セイドの左腕に命中させた。技を繰り出させる前に、止めることに成功したのだった。セイドはナイフを刺された左手を下に下げる。緑の血が滴った。

「な、武器を生成する能力! 上級ハザードか!」

 驚くセイドにどんどん近づき、ハルトは飛び上がって蹴りを放った。その蹴りはセイドの顔面に命中し、体ごと吹っ飛ばした。

「ぐああ!」

 セイドは地面を背中に打ち付けた。

「今度は私が相手だよ」

 そう言って、バネッサがハルトの前へ立ちはだかる。

「うるせえ引っ込んでろ!」

 ハルトは右拳を繰り出してパンチを打った。だが、バネッサはそれを左手で受け止めた。

「あれ!」

 ハルトは困惑しながら、右手をキャッチされたまま、左拳を放った。だが、左拳も握って受け止められた。手のひらまでも、頑丈だ。

「なに!」

「腕力には自信があるんでね。あなたも強いけどさ」

 バネッサはハルトの両手を受け止めたままそう言った。ハルトは今まで、パワーで負けたことなどなかった。相手はすべて、下級ハザードだったからだ。だが、バネッサはハルトとほぼ互角の腕力をもっている。

 ハルトは手を解放させようとして左右へ腕を広げようとしたが、バネッサはその手を握りしめたまま放そうとしない。二人のパワーは拮抗し、向かい合ったまま、掴みあった両手をブルブルと震わせた。

 ハルトは唸りながらなおも腕を引こうとするが、バネッサの握力がそれを許さない。

「へ、確かに、通常ハザードでここまでパワーがあるのはすごい。けど、このまま両手を掴んでちゃ、俺もそうだがあんたも攻撃できないぜ。どうすんだ?」

 ハルトは負け惜しみでそう言ったが、バネッサは思わぬ攻撃を浴びせてきた。

「ええ、頭を使うのさ!」

 いきなり、バネッサの頭が近づいてきた! 頭突きだ。ハルトは両手を掴まれていたので、ガードすることも避けることもできず、まともにくらってしまった。バネッサの頭は腕や足と同じようにレンガ状の硬い皮膚で守られているため、とてつもない衝撃がハルトの顔に走った。

 ハルトの視界がぐらぐらと揺れ、その体は後ろへひっくり返った。

 頭がぐらぐらするが、まだ戦える。ハルトは素早く起き上がりながら、髪の毛を抜き、ナイフを生成した。それを右手に持ったまま立ち上がり、バネッサに襲い掛かる。

「おらあ! くらえ!」

 ナイフの切っ先をバネッサに突き立てようとしたが、バネッサは腕を前に出してガードしてきた。無駄だ、腕に突き刺さる。だが、バネッサの頑丈な腕はナイフを弾き返し、ハルトは反動でナイフを地面に落としてしまった。

「クソ! ナイフが刺さらねえ」

 バネッサが唸りながら反撃してきた。顔面を横から殴られ、ハルトの頭はぐらついた。だが、体勢を立て直し、ハルトも殴り返す。

 バネッサはそれを頭にくらい、「うっ」と唸った。しかしすぐに仕返しのパンチを繰り出してくる。ハルトはそれを避け、後ろに小刻みにステップを踏みながら、距離をとった。

 数メートル離れて、バネッサと向かい合う。ハルトは右肩を前にして低い姿勢をとり、突進するような姿勢をとった。

 バネッサはその様子を見て、声を出した。

「へえ、タックルかますつもりかい。今までの戦いで、私の頑丈さは十分分かったろうに。まあ良い。若い子は、なりふり構わず突っ込んでくるくらいの方が様になる」

「さあ、行くぞ」

「来な、坊や」

 バネッサも構えた。ハルトはすぐさま駆け出し、姿勢を低くして突っ込んでいく。バネッサも肩を前に出して唸りながら前進し、タックルをかまそうとしてきた。

 今にも二人がぶつかり合いそうになったとき、ハルトは五メートルほどジャンプし、バネッサの頭上を通り過ぎて着地した。最初から、バネッサと衝突しあうつもりなどなかったのだ。

 ハルトは素早く駆け出し、スタジアムの方へ向かっていった。そして、アスファルトの壁に飛びかかり、両手両足を壁にくっつけて、クモのようによじ登っていった。

「じゃあな! さようなら」

「あ、意外とずるいぞ!」

 急ブレーキで踏みとどまったバネッサが、ハルトへ向かって叫んだ。だが、ハルトはそんなことは気にせず、どんどんスタジアムの壁を登っていく。この壁の向こうに、エリザがいるはずだ。エリザさえ助けることができれば、あらゆる戦いに意味はない。


 よじ登っていくハルトから少し離れたところで、セコム姉弟が会話していた。バネッサは倒れていたセイドに近づき、手を差しだした。

「おい、弟。いつまで寝てんだ。もはや屍か」

「勝手に弟を殺すな」

 セイドはそう言って、ナイフが刺さっていない方の手でバネッサの手を取り、立ち上がった。

「姉さん、ありがとう。いやあ、やつに頭を蹴られたときは、首が吹っ飛ぶかと思ったよ」

「確かに、あの子はただのガキじゃないね。ところで、左手は?」

 バネッサはそう言って、セイドの左手を見た。セイドは言われた通り、左手を軽く上げて、バネッサに見せた。まず手の甲を見せ、そのあとひっくり返して反対側も見せた。ハルトに投げられたナイフが、手の甲から手のひらまで貫通してしまっている。

 バネッサはその指先を触った。

「あちゃー、ぶっさりやられたね。まあ、私たちハザードなら、このくらいの傷は一日や二日でふさがるもんさ」

「もうこの手が回復するまでローズサイクロンは打てないよ。結構痛いし指も動かないんだけど」

「あとで手当てしてやるから、とりあえず唾でもつけときな」

「指示が適当すぎんだろ」

 セイドはそう言ったあと、ハルトの方を見た。スタジアムの壁を這いながら、もうだいぶ上の方まで上がっている。向こう側へ到達するのも、時間の問題だろう。

「姉さん、あのクモガキどうする? 追いかける?」

 バネッサがため息をつく。

「まあ、仕事だから」


 一方ハルトはスタジアムの壁をよじ登り、向こう側へジャンプした。膝をついて着地し、立ち上がる。そこは、普通の球場。巨大な観客席が何段にも連なってドーム状に広がり、中心部は土と芝生のグラウンドになっている。ハルトは、観客席の一番奥の方に着地したのだ。

 周りを見渡しながら、ハルトは叫んだ。

「エリザー!」

 すると、数十メートル向こうの席の方から、男が返事をした。

「お前の探している人はここだ」

 ハルトはその声がした方を向いた。短髪で黒髪、小柄な男が仁王立ちしている。そのすぐそばの席に、エリザが寝かされていた。

「エリザ!」

「大丈夫、寝てもらっているだけだ」

「お前がナインだな。エリザから離れろ! 目当ては俺なんだろ」

「ああそうだ。お前は約束通りにここへ来た。この子は返してやる。そして、お前と俺は戦うんだ」

 ナインはそう言いながら、エリザから離れ、歩いて近づいてきた。だが、すぐに何者かの存在に気付き、立ち止まった。

「ん? まだ前座は終わっていないようだぞ」

「なんのことだ」

 ハルトがそう言った瞬間、風を切る音とともに、何かがハルトの右腕に巻きついてきた。そして、強く引っ張ってきた。

「なに!」

 驚いて腕を見ると、緑色のツタが巻き付いている。そのツタの先にいるのは、腕を伸ばしたセイドだ。まだくたばっていなかった。セイドはスタジアムの中へ入り、ハルトへ攻撃してきたのだ。セイドの隣には、バネッサもいる。

セイドは数段下の席から、ツタで攻撃してきたのだ。

「ハルト、こっちへ来い!」

 セイドはそう言って、巻き付けたツタを引っ張ってくる。

「はあ? お前が来い!」

 ハルトはそう言って空いている方の手でツタを持ち、腕を引っ張った。ハルトの方がパワーで勝り、セイドの足は宙に浮き、ハルトへ向かって弧を描いて飛んできた。

「うわー!」

 叫び声をあげながら突っ込んでくるセイドに、ハルトは素早くパンチを浴びせた。一瞬で五発ものパンチを顔や胸に浴びせ、セイドを吹っ飛ばした! セイドが腕に巻きつけていたツタは千切れ、変身を解除しながら彼は落ちていった。ハザードは多大なダメージを受けると、変身した状態を維持できないのだ。

 吹っ飛ばされたセイドは、バネッサにキャッチされた。バネッサにお姫様抱っこされたまま、セイドは口を開いた。

「姉さん……。ま、まま、負けちゃったよ」

「見りゃ分かる」

「俺もうこの仕事ダメかも」

「その辺で転職サイトでも見てな」

 バネッサはそう言って、観客席の椅子にセイドをそっと寝かせた。そして、ハルトの方をゆっくりと見、二、三歩走って助走をつけ、ハルトと同じ段まで飛び上がってきた。そして、ハルトの方を向く。

「ケリをつけよう、ボーイ」

「望むところだ」

 ハルトは一気にバネッサに近づいて、パンチを繰り出した。だが、バネッサは腕の頑丈な皮膚で防いだ。ハルトの拳がそれに当たり、鈍い音を立てる。ハルトは手を引いて、痛みのために手をぶんぶんと降った。

「いってえ!」

「大丈夫か大丈夫か~?」

 バネッサがそう言ったが、もちろん心配ではなく煽り文句だ。

「へえ、心配してくれるとは優しいね」

 うんざり感たっぷりに返すハルトに向かって、バネッサが堂々と歩み寄ってきた。そして、横腹を殴る。

 唸りながら姿勢を崩すハルトに、バネッサが肘うちやパンチを食らわせる。その連撃を浴びて、ハルトは手を床についた。

 ハルトは諦めず、バネッサを見上げた。バネッサは両こぶしを合わせ、ハルトの頭にウイつけようと構えている。

「とどめだ!」

 バネッサが拳を振り下ろす瞬間、ハルトは叫びながら、相手の懐へ突っ込んだ。そのまま力任せに相手の体に掴みかかり、両腕で持ち上げた。

「おりゃあ!」

 ハルトは持ち上げたバネッサを、鉄製の手すりへ突き落した。手すりは音を立てて折れ、バネッサの体は床へ叩きつけられた。コンクリートの床にヒビが入る。

 相手は今、仰向けに倒れており、腹や胸がさらけ出されている。倒せるスキは、今だ! ハルトは一瞬で髪の毛を抜いてナイフに変形させ、バネッサの腹へ突き刺した!

「ウッ!」

 バネッサが唸り声をあげた。ハルトの突き刺したナイフが深々と腹に刺さり、緑色の血がゆっくりと垂れていく。バネッサは体表や背中のほとんどを硬い皮膚で覆われているが、腹は例外で、比較的薄いようだった。

 嫌な感覚だ。ハルトは思った。ナイフを突き刺したとき、相手の肉体へ刃が深々と食い込んでいく感覚が手に伝わった。一瞬、吐きそうになったほどだ。

 深いダメージを受けたバネッサは、変身を解かれ、茶髪の女の姿へと戻った。バネッサはゴホゴホと咳をしたあとにツツとよだれを垂らし、ハルトの顔を見上げた。

「なぜ……? 今のスキに、ナイフで私の胸を刺さなかった?」

「え?」

「ハザードの弱点、『コア』は胸の中心にある。そこを少しでも傷付ければ、相手の命を奪うことができる。今のナイフの一撃で、私にとどめをさせたはずだ」

 確かに、バネッサの言うとおりだ。ハザードは、胸の中心にコアという球形の臓器を持っていて、それがハザードのエネルギーの源となっている。人間でいう心臓みたいなものだろうか。どんなハザードでも、コアに損傷を受ければ死んでしまう。ハザード同士の戦いでは、それは常識だ。

 だが、ハルトはわざと、その急所を外した。

「俺の目的は、大切な人を助けることだ。命を奪うことじゃない」

 バネッサはハルトの言葉を聞いて、驚くように目を見開いた。

「……、あなたが大人じゃなくて残念だわ」

「は?」

 ハルトはバネッサの相手をせず、ナインの方を見た。もはや、バネッサもセイドも変身を解かせ、無力化した。あとは、ナインを倒してエリザを奪い返すだけだ。

「ナイン!」

「ハルト、セコム姉弟を一人で倒すとは、さすがだな。今までカンパニーの部下たちを倒してきただけのことはある。ただのガキじゃない。

 だがな、とどめをさせるはずの相手を見逃すのは、甘いんじゃないか?」

「違う! 本当に強い者は、相手の命を奪わない。例えそれが敵であっても」

「ふん、『本当に強い者』だと? 自称できるとは凄い自信だな。だがな、このナイン・ナッシュは、他のハザードとは一味違うぜ。今までのように、簡単にいくかな?」

「そういうセリフはかませ犬の言うことだぞ」

 ハルトはそう言ったあと、ジャンプして地上に近い段まで降りた。

「エリザの近くで戦いたくない、降りて来い」

「あいよ」

 ナインは答え、ジャンプしてハルトと同じ段まで降りてきた。人間態でも、かなり身軽だ。

 こうして、ハルトとナインは十メートルほど離れて対峙した。ハルトは、小柄な敵に向かって話した。

「変身しろ、ナイン……!」

「ナイン、変身!」

 ナインの姿が変わっていく。多少背が伸び、全身は茶色い毛に覆われ、顔は赤く、丸々とした目が特徴的だ。シュートが言っていた通り、モンキータイプのハザードだ。

 ナインが腕の毛を抜いた。その毛は硬質化、巨大化し、ロッド状の武器になった。そのロッドを慣らすように回転させ、ロッドを持つ右手を後ろへ、空いている左手を前へ出し、腰を低くする。まるで、武術家のような構えだ。

「年下相手に悪いが、先手は貰う。手加減はせんぞ」

 ナインは素早くジャンプし、一瞬でハルトへ接近してきた。ハルトは髪の毛を抜いてナイフを生成する。ナインはハルトの正面から飛びかかり、ロッドを振りかざしてきた。ハルトはナイフでそれをガードする。

 だが、ナインもガードされることは予想済みだったようで、ロッドを回転させすぐに二発目を放ってきた。次は胸をついてくるような攻撃だ。

「ぐっ!」

 素早い二発目に驚きながら、ハルトはギリギリのところをナイフでガードした。

 だが、ナインは棒術の達人であった。ハルトがガードしてもすぐに次の攻撃を仕掛けてくる。わずか八秒ほどの間に、ナインはロッドの連撃を繰り出した。頭や胸、腹など様々な箇所へ攻撃してくる。

ハルトはガードが間に合わなくなり、さらに髪の毛を抜いて二本目のナイフを生成、両腕を駆使してガードしていく。

 防戦一方だ。なんとかしてナイフでの攻撃を繰り出していきたいが、ナインのロッド攻撃が素早すぎて、防御に精一杯である。反撃できるスキがない。

 やがて、ロッドの一撃がハルトの右足へヒットした。細い棒から繰り出されたとは思えないほど重く、痛い一撃。ハルトは右足を挫いた。

 ナインはそのスキを見逃さず、ロッドをしなやかに振り回し、文字通り一瞬でハルトの両手を攻撃した。ハルトは手を打たれ、ナイフを二丁とも落としてしまった。

「クソ!」

 ハルトはなんとか体制を立て直し、拳を握りしめて右腕を繰り出した。だが、ナインはするりと回避した。

「あー惜しいねえ!」

 ナインは言いながら、ロッドを足元に突いて柱の代わりのようにし、そのままロッドを中心に回転してキックを放ってきた。キックはハルトの腹へ命中し、ハルトは吹っ飛ばされた。

 ハルトの体は観客席の段を飛び越え、芝生の生えたグラウンドへ落ちた。ゴロゴロと転がっていく。

 やがて体の回転が止まり、ハルトは手を地について、体を起こした。

「うう……」

 体の節々が痛む。何とか立ち上がり、観客席を見上げると、ナインが見下ろしてきた。ナインは手すりに飛び乗り、膝を曲げた。ジャンプして、こちらに降りてくるつもりだ!

 だが、空中では身動きがとれない。チャンスだ。

「とう!」

 予想通り、ナインは声を上げてジャンプしてきた。正面から、ハルトの方へ降下してくる。

 ハルトは髪の毛を二本抜き、ナイフを生成した。そして、空中を下がってくるナインへ、ナイフを二本とも投げた。避けられないはずだ。

 だが、ナインはロッドを扇風機の羽のように回転させ、ナイフを二本とも弾いた。着地したと身軽な動きでハルトに近づき、ロッドでハルトの胸を攻撃して突き飛ばした!

「ぐああ!」

 ハルトは吹っ飛ばされ、背中を地に打ち付けた。

「うう……」

 唸りながら、ハルトは地に手を着いた。一応ナインから目を離さないようにしているが、ダメージが大きくすぐには立ち上がることはできない。

 ナインはすぐに攻撃してくるつもりはないらしく、吹っ飛ばされたハルトに近付かず、ふらふらと左右に行ったり来たり、ゆっくり歩き始めた。

「立ち上がれるまで待ってやる。呼吸を整えるか、お経でも唱えるんだな」

 悔しいが、ナインは相当に強い。今までの敵の中でも、最も強いだろう。セコム姉弟を同時に相手にしたときより、もっと辛い状況だ。余裕をこいて歩いている様子に、ハルトはイライラしてきた。

「じゃあもう一生立ち上がらないもんねー!」

「このガキがあ!」

 ナインは自分がわざわざ生成したロッドを、両手に持ったまま右膝に打ち付けて真っ二つに折った。そして、二つに折れたロッドをその辺に放り投げた。

「ふん、お前のようなガキを懲らしめるのに、こんな武器はいらん。だがなハルト、その頑丈さと根性だけは、誉めてやろう。これだけの攻撃を受けて変身が解けなかったのは、お前が初めてだ。

 ところでだ、なぜ俺に負けたと思う?」

 ナインは意味もなく、右手をグーやパーにして見つめながら、そう聞いた。ハルトは倒れたまま答えた。

「まだ負けてねえ!」

「ハッハッハ! いやあ、敵にしておくには惜しい存在だな。

 あのなハルト、お前は今まで、我らがカンパニーの者たちと戦い勝ち抜いてきた。だが、やつらはしょせん通常のハザード。俺たち上級ハザードにとっては、子供みてえなもんだ。お前はしょせん、格下相手に勝ち星を稼いできただけの、二流三流のハザードよ」

「……」

「お前は確かに、若いエネルギーに溢れていて、スタミナもあるしパワーもスピードもある。だがな、上級ハザードなんて、パワーやスピードがあるのは当たり前だし、お互いに武器も生成できる。いわば、互角なのだ。

 しかし、お前と俺との戦いは互角ではない。何が差を生んだのか。それは、『技』だ」

「ワザ……?」

「そうとも。技の鍛錬、修練が足りていない。お前の攻撃は、一撃一撃で完結してしまっているのだ。一撃打って、ガードされたら失敗。当たれば成功。力任せに攻撃するだけだし、無駄な動きも多い。

だが、武術の世界はそう単純ではない。

 外れる前提、ガードされる前提の攻撃もあるし、わざとスキを生んで付け込ませることもあるし、一撃から二発目三発目の攻撃を連結させることもある。様々な肉体の動きが連続し、ひとつの技として昇華するのだ。そして、最終的には相手を制圧する」

 ナインはそう言って、両手を翼のようにたおやかに広げたかと思うと、敵ながら勇ましいと思わせるしなやかさで、両腕を前に構え、拳を空に突き出した。ナインの拳が、風を切る音がする。

「カンフーの極意だ。死をもって見届けるが良い」

 ここで殺される……。ハルトは予感した。ハルトにとってもはやナインは、ただの口数の多い悪者ではなくなっていた。尊敬の念すら覚えるほどの、戦いの達人だ。例え体が二つあろうとも、勝てる気がしない。

 だが、エリザは……、あの子だけは、助け出さなければ。

「うおお!」

 ハルトは手を地について立ち上がり、見よう見まねでナインと似たような構えをとった。

「ふん」

 ナインはどこか満足そうに息を漏らし、右の手のひらを上にしてくいくいと指を動かして合図をした。

「かかって来い、ハルト!」

 ハルトは猛りながら走り、左右の腕でパンチをした。だが、ナインは腕をからめるようにしてその攻撃を捉え、ハルトの身動きを封じた。そのままナインは頭突きを食らわせてきた。

 ハルトは頭にその攻撃を受け、後ろに少し下がってしまった。だが、すぐに体制を立て直し、左腕を繰り出す。ナインはするりと回避し、ハルトの腕を左手で掴んだ。そして、空いている右腕で横腹を殴る。

 ナインの拳がめりめりとハルトの横腹にめり込んだ! すごい威力だ。普通なら体ごと吹っ飛ばされそうだが、ナインに腕を掴まれているため、体が動かない。ナインは素早い動きで拳を何度もハルトの横腹に浴びせた。

「ぐああ!」

 ハルトは横腹から緑色の血を垂れ流した。やがてナインはハルトの腕を放したが、ハルトは直立するのが難しいほどダメージを受け、ふらふらと立っていた。ナインはすかさず、ハルトの顔の高さまで飛び上がり、その顔を蹴り飛ばした!

 ハルトは一瞬「うっ」という声をあげて吹っ飛ばされ、地面を転がった。視界がぐらぐらと揺れる。

 やがて視界の揺れは収まり、夜空が見えた。仰向けに、転がったのだ。そのときには、ハルトは変身を解かれ、人間態へ戻っていた。体から、力が抜けていくのが分かる。

 ハルトは唸りながら両腕で地面を這い、なんとか壁際に寄った。そして上半身を起こし、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。

 座り込むハルトに、ナインが歩み寄ってくる。

 もはや目の前に立ちはだかったナインを、ハルトは見上げた。赤いサルのような顔で、ハルトを見下げている。

「ケリはついたな、ハルト。お前のナイフで、ひと思いにあの世へ行かせてやろう」

 ナインの右手を見ると、歩み寄る途中で拾ったのか、ハルトのスラッシュナイフを持っている。

 ハルトにはもう、抵抗したり逃げたり、再度変身するようなエネルギーは残されていなかった。くたびれ、虚ろな目でナインの顔を見上げ、ハルトは人生最後の言葉かもしれないという覚悟で話しかけた。

「ナイン……。俺を殺せば、お前の目標は達成されるだろう。一生のお願いだ、エリザだけは、無事に返してあげてくれ。日常の生活に返してあげるんだ。俺が死ねば、あの子はもう関係なくなる。ただの人間だ」

 ナインはハルトの言葉を聞き、哀れむような目を向けた。ハザード態の、サルの仮面を着けたかのような表情のうかがい辛い顔でありながら、ナインの目は哀愁を漂わせていた。

「いいだろう。宿敵の最期のお願いだ。約束しよう」

 敵でありながら、ナインの言葉には重みがあり、信用できた。エリザは助かる。ハルトは安心し、目をつむった。殺される恐怖は、ほぼなかった。

 ハルトの視界はまぶたに防がれ、暗くなった。今にも、脳天か胸の真ん中にナイフを突き刺され、自分はあの世へ行くだろう。

「ちょ、ちょっと待って……!」

 そのとき、何者かがそう言った。女の声だ。ナインではないし、もちろんハルト自身でもない。ハルトが目を空けて確認をすると、少し高いところで、バネッサが観客席を歩きながら近づいていた。ナイフの刺さった腹をかばいながら、歩み寄ってくる。

 やがて観客席からグラウンドに飛び降り、ナインの十メートル付近まで近づいた。

「どうした?」

 ナインは振り向き、バネッサの方を向いた。バネッサは息も切れ切れながら、ナインに語り掛けた。

「あの、下っ端の身でこんなことを聞くのもなんですが、このハルトという少年、なんで命まで奪う必要があるんです? グリーンコア・カンパニーはハザードたちを守りながら社会に溶け込む、複合金融機関では? 殺しを行うなんて……その、驚きなんです」

 ハルトは話を聞いて、何となく察した。バネッサは、本人の言う通り、ほとんど何も知らないのだ。おそらく、ジェイニーが針を刺し人間たちをハザードに変えていることも、ボスがこの町を乗っ取ろうとしている巨大な野望も。

 彼女はただ、雇われているだけなんだ。

「バネッサ、君はただの警備員。いわば派遣社員だ。与えられた仕事さえこなしてくれれば良い」

「いや、それはそうかもしれませんが、ハルトの命まで奪うことはないのでは? ハルトは、私を殺せたはずなのに見逃してくれました」

「バネッサの命を見逃したのはハルト自身の判断だ。俺がハルトの命を見逃すかどうかには、全く関係ない。しかも、君は警備の任を全うできず、ハルトの侵入を許した」

「論点をずらさないで下さい。それに、任務のことを言うなら、ナイン、あなたの任務はボスの側近としていること。ボスの護衛や、あくまで身の回りの危険を排除することですよね? 今回のハルトとの決闘や彼の恋人の誘拐は、ボスの意思で?」

 バネッサは、手負いとは思えない剣幕でナインに質問をぶつけている。ナインも、困ったように首を振ったあと答えた。

「だから、ボスの危険を排除しようとしているんだ。このハルトという存在をな」

「なんか質問への回答になってない気がするんですが。それはボスの意思ではなくナインの意思では?」

「その通ーり!」

 低く聞き取りやすい、ニュースのナレーターかと思われるほど綺麗な声が、スタジアムに轟いた。

 ハルトは体力の消耗から頭が異常に重く感じたが、それでも声のした方を向いた。ナインやバネッサもそちらを向く。

 観客席の方から、一人の男が歩いてくる。金髪の、スーツを着た男だ。ぐったりとしてしまったセイドを、お姫様抱っこしている。

「こんばんは!」

 金髪の男は、大きい声でそう言った。

「こんばんは、ボス!」とナイン。

「ボス! こんばんは!」とバネッサ。

 夜に顔を合わせたときに挨拶をするのは大事なことだが、こんな状況で真面目に挨拶をしているのは、なんだかシュールだ。

 ボスはセイドを抱っこしたまま観客席から飛び降り、歩いてこちらに近づいてきた。ハルトに近付いてくるというよりは、ナインの方を見ながら近付いている感じがする。

 そのゆっくりと歩いてくる様は、ただの歩行でありながら、ただならぬオーラを感じさせた。強者だけが放つことができる圧倒的な余裕、そして自信を感じさせる挨拶は、彼にしかできないものだろう。

「こんばんは。ボス・ボルカニックです」

 ナインの近くで歩みを止めたボスは、ハルトを眺めてそう言った。

「こ、こんばんは……。ハルト・バナグラスです」

 ハルトは一応、挨拶を返した。

 ボスはにっこりと頷くと、首を動かしてナインの方を見た。

「セコム姉弟とナインの脳波、それに知らないハザードの脳波を感じたものだから来てみれば、これはどういう状況だね? セコム姉弟はボロボロ、おまけにそこにいる知らない少年もボロボロ(ちらりとハルトの方を見られた)、なんか人間の女が気絶しているし、わけを説明したまえ、ナインよ」

「はい」

 ナインはそう言って、まずは変身を解き、小柄な男の姿へと戻った。ハザード同士の向かい合いでは、変身するという行為は肉体の本領を発揮させること、すなわち敵意の表れということにもなる。

 ナインは変身を解除することで、ボスに反抗する気持ちはありませんという意図を示したのだろう。そのあと、説明を始めた。

「俺は最近、カンパニーの部下たちが何者かにコテンパンにされているという情報を仕入れていました。それは俺だけでなく、カンパニーの間でも囁かれていたことだと思います」

「ふむ」ボスは頷いた。「その件は確かに、俺の耳にも入っていた。てっきりシュートの仕業かと思っていたが、この少年は明らかにシュートではないな」

 ボスはそう言って、ちらとハルトの方を見た。そうか、ボスはシュートと面識がある。だが、ハルトとシュートが絡んでいることは知らないはずだ。その辺をつつかれたら面倒だ。ハルトはできるだけ自然な感じで、目を逸らした。

 ナインが、話を続けた。

「俺は、部下である『グリーンコア・アーミー』のアントタイプの者から、ハルト・バナグラスを名乗る少年にシメられたという話を聞きました。それを手掛かりに正体を探っていった結果、この少年こそがハルトだということが分かりました」

 ハルトは気になった。「グリーンコア・アーミー」だと? アーミー、兵隊、こいつらは、ハザードの兵隊をもってるのか? 突き詰めたいが、それができる状況ではない。

一方、ハルトの方を指さすナインに、ボスは話した。

「ふむ、続けて」

「はい。そこで俺は、ハルトを始末するため、まず彼と仲が良いらしい人間の女を誘拐し、このボウルスタジアムへ誘い出しました」

「なるほどな。あとは説明しなくても良いぞ。まさか、君がセコム姉弟と戦うわけがないからな。ここへやってきたハルトとセコム姉弟は交戦し、姉弟は敗北、やがて君自身がハルトと戦い、この状況になったということだな」

「はい」

 ナインが頷いた。そのとき、ボスに抱えられていたセイドが、ボスの肩を叩いた。

「あの、社長、もう自分で立てます。ありがとうございます」

「おお、セイド、本当か。足の方から降ろすぞ」

 ボスはそう言って、セイドをゆっくりと地面に下ろした。セイドはゆっくりと足をつき、力なく立ち上がった。見ると、ハルトがナイフを刺した左手には、布がまかれている。おそらく、ボスが手当てをしたのだろう。

 意外であった。なんとなく、ボスには巨悪のイメージがあった。会ったこともなかったが、これまでの戦いやシュートの話から、漠然と悪の存在であると思っていた。だが、仲間を手当てしてやるくらいの優しさは持ち合わせているらしい。

 ボスは後ろで手を組んだまま、上司らしい足取りで左右に行ったり来たりしながら、口を開いた。

「ところでナイン、ハルトと戦うという報告はもらっていないが? なぜこの俺に相談や連絡をしなかった?」

「それは……」

 ハルトに立ち向かってきたときの威厳が嘘のように、ナインは小さくなっている。そんなナインを見て、ボスは小さく笑った。家族に笑いかけるような、穏やかな笑いだ。

「ふん、すまんな、今の質問は少し意地悪だった」

「いいえ」

「理由は簡単だ。この俺、ボス・ボルカニックは、卑怯な手を嫌うからだ。『ハルトの大切な友人を捕らえ、それを餌におびき寄せて殺します』なんて作戦を俺に提案してみろ。即却下だ。

 おそらくこういうだろうな。『とりあえず話し合いだ、無事に連れてこい』とか。

 ナイン、君にはその未来が簡単に想像できた。だから、俺に無断でハルトを始末しようとした」

 そばで聞いていて、ハルトにも事情が分かってきた。どうやら、今回の決闘はナインの独断で、ボスの意思ではないみたいだ。

「ハルトの存在をいち早く特定した点については称賛しよう。だがな、人質をとり相手をおびき寄せるなど、外道な手は使わんことだ。俺の騎士道に反する。

それにな、ナイン、これは君自身の問題でもあるんだ。君のような強者が、わざわざ人質などとる必要はないだろう。それで勝ったとしても、自身の顔に泥を塗るだけだ。

君だって、カンフーを極めた男。カンフーは精神と肉体の修練によって完成される。精神の修練を重ねた結果、このような作戦を思いついたのか? 君自身の精神のレベルが落ちてしまうぞ。ひいては、武術への冒涜ともなる」

「それは分かっています。しかし、ハルトは上級ハザードで、俺の部下であるアーミーの手には負えません。

ボスにとっても危険な存在です。手早く処理しておくべきだと判断し、今回のような行動を選択しました」

「なるほどな。だが、こういう見方もできんかね。もしハルトが俺のところまでやってきて、俺と戦うことになったとしよう。その場合、俺がこの少年に負ける可能性があると?」

「いえ、すみません、そんな風には考えていないです。ボスこそは、最強のハザード、例え誰が相手であろうと、あなたにはかないません」

「おっしゃるストリート」

「ぶっ」

 ボスが急なジョークを言うので、セイドが噴き出した。

 ボスがまた、話し始めた。

「ハルトが我々や、俺自身に牙をむくというなら、いいだろう。一騎打ちすらも望むところだ。俺が倒せば良いだけの話だ」

「ボス、隠し事をしていたことに対しては謝ります。すみません」

「いいよ」

「ですが、ハルトは今ここで始末すべきです。もう息も絶え絶え、簡単に倒せます」

「まだ言うか! 俺の美学に反する!」

 二人が言い争っているところへ、バネッサが歩いてやってきた。ボスはバネッサの腹を見て、驚いた。

「バネッサ、ナイフが」

「いえ、この程度」

 バネッサはそう言って、ハルトに刺されたナイフを抜き取って、乱雑に投げ捨てた。緑の血が少し服に滲んだが、「ふん!」というとバネッサの傷口は塞がり、血は止まった。

「腹筋に力を入れていればなんとかなります。完全に塞がってはいませんが」

「そうか、あとで手当てをしよう」

「ところでボス。ハルトは、私やセイドの命を見逃してくれました。本当なら、とどめを刺すチャンスはあったはずなのに」

「なるほど。それに、ハルトの情報が我々に入ったのも、アントタイプの二人を見逃してくれたことが原因だな」

 ボスはそう言って、ハルトに近づいた。ハルトは少し体力が回復してきたので、唸りながらも、ゆっくり立ち上がった。初めて、ボスと向かい合う。

 ハルトの身長は一七四センチあるが、それでも、ボスの目を見るためには見上げる必要があった。彼はかなりの長身だ。

「ハルトよ。なぜ俺の部下たちを見逃してくれたんだ」

「俺は悪を止めたいだけだ。相手の命を奪いたいわけじゃない」

「ふっふっふ、若者らしい意見だ。嫌いじゃない」

 ボスはほほ笑むと、ナインとバネッサの方を向いた。

「ナイン、諦めろ、今回はハルトを見逃す」

 ナインは目を丸くして、そんな、と言わんばかりに無言で口を動かしたが、ボスは意見を曲げなかった。

「安心しろ、次に何かあれば、俺が自ら相手をする。次にバネッサ。体力は残っているか? 人質の女の子を連れてきてやれ」

「お安い御用で」

 バネッサは頷いてグラウンドを歩き、奥の階段から観客席の方へ上がっていった。

 ボスはそれを見届けたあと、ハルトの方を向かい合った。

「ハルト、今回は見逃そう。ナインの独断であったし、君は俺の仲間の命を何度か見逃してくれた。今回はその慈悲に対する感謝を表すとしよう」

 さっきから、意外の連続だ。しかし、冷静に思い出せば、シュートの話でも、ボスはシュートを見逃した。一度は話し合い、慎重に考えるタイプの男なのかもしれない。少なくとも、ロデスやザイラスみたいに、血の気の多いやつじゃない。

 ボスはしかし、優しい目から決意の目に変わり、釘を刺すように言った。

「ただし、今回だけだ。今日ここを出たら、全てのことを忘れるんだ。今日の戦いも、グリーンコア・カンパニーがハザードの巣であるという事実もな。すべてを忘れ、関わらずに暮らすのだ。

 それが、君にとっても幸せなはずだ」

「あんたたちにとっても、悪事を邪魔されずに済むってわけだ」

 ハルトは皮肉交じりに言った。

「邪魔? 俺の野望を邪魔できる者などいない。俺の剣術を上回る者もな。

 ともかく、次はないぞ、ハルト。次にカンパニーの者に手を出したとき、俺が自ら君を倒しに行く。文字通り決闘だ。そうなれば、君は地獄へ行く」

 ボスがそう言ったあと、バネッサがエリザを抱えて歩いてきた。

「ボス、連れてきました」

「ありがとう。出口まで案内してやれ」

「はい」

 こうしてハルトは、エリザを抱えたバネッサとともに、グラウンドを歩いた。しばらくはボスの変な視線を感じて気持ち悪かったが、離れるにつれそれもなくなった。


 スタジアムの出口へ差し掛かり、暗い廊下を、バネッサと一緒に歩いた。さっきまでの敵に大切な人を預け、一緒に歩いている。変な感覚だ。

 歩きながら、ハルトは話しかけた。バネッサは、ハルトが殺されないように、ナインやボスを説得してくれた。

「バネッサ、ありがとう」

「え?」

「ボスやナインを説得してくれた」

「やめてよお礼なんて、気持ち悪いなあ。ていうか、お礼を言うのは私の方。セイドと私の命を見逃してくれたでしょ」

「それはそうだけど。優しいんだね」

「はあ? 違うよ、貸し借りが嫌いなだけ。こっちは見逃してもらったのに、相手を殺したら、不平等でしょ。私さあ、なんかそういうのスッキリしなくて嫌なんだよね。そんだけ」


 やがて、スタジアムの外へ出た。ハルトはエリザを預かり、肩に担いだまま帰った。エリザの家は、前に誕生日パーティーに行ったことがあるから分かる。ハルトはエリザの家のベランダに飛び上がり、風邪をひかないように上着を重ね、置いてきたのであった。

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