その一言が欲しい
何なの!何なのよ、あれは!
信じられない!!!
アデリシアは内心絶叫した。
本当に大声を出さなかったのは夜中である事と、続きである隣室に声が筒抜けになると十分に理解しているからだ。
声を出さずに、拳を固めてぷるぷると震わせる。
行き場のないこの感情は何処にぶつけたらいいのか。
ここで声を上げてライアンが飛び込んで来たりでもしたら、それこそ目も当てられない事態になる。
男だから待ってられないって、どういう意味なのだ。
思い起こしてアデリシアは頬を両手で覆う。
兎にも角にも、あの堅物団長があんな凄絶な色気を振り撒くとか何事だ。見たことも聞いたこともない。普段との冷静な様子と違い過ぎて固まってしまったではないか。まるで自分を誘うかのように手の甲へと口づけてくるなんて思いもしなかった。
アデリシアは手の甲にもう一方の指でそっと触れた。ライアンによって唇を落とされた場所だ。
嬉しかったけれど、嬉しくない。
一体、団長は何処までを把握しているのだろうか。
寝台に入る気にもなれず、手を握り締めながらアデリシアはその場をうろうろと歩き回る。気分がささくれて落ち着かない。
そのままバルコニーに通じている窓へと歩み寄る。
きちんと窓が閉まっているかを確認して、アデリシアはとりあえず施錠をしてみた。月光が入らないようにカーテンを引き直したところ、なんとなく安全確保をしたような気分で少し落ち着く。
ついでに、気になっていた隣室との間の扉に向かった。
この向こうにライアンがいるのだ。
恐る恐る鍵穴を伺う。ノブには触らずに、とりあえず鍵穴をこっそり覗き込んで見た。しかし、鍵自体が見当たらず、施錠されているかどうかがわからない。だが、施錠はかなり疑わしかった。というより、絶賛開いている気がする。
もし何かの弾みでノブに触れて扉が開いてしまったりしたら、と考えるだけで不安を覚える。
簡単に扉が開かないように、何か障害物を前に置いて置くべきだろうか。
適当なものがないか辺りを見回す。寝台の傍に置かれた椅子と、あの棚の引き出しが目に入った。
紫……。
瞬時にライアンとのあれこれが甦ってきて、アデリシアは両手で顔を覆った。頬が熱いのがわかる。首を横に振って、引き出しを睨みつける。
ああもう!だから使わないんだってば!
隣にも絶対行ったりしないし!
再び自分へと突っ込みを入れて、椅子へと歩み寄る。
椅子の背に手を掛けて移動しようとしてふとアデリシアは留まった。
そもそも団長相手に、椅子のような代物を扉の前に置くだけで、行動を制止できるだろうか。
あの、団長を止める?
余裕の笑みを浮かべていたライアンの様子を思い出す。
ーー気休めにもならない気がする。
いざとなれば、彼には炎の魔術も剣もある。本気でここを開けるとなれば、たとえ締め切った状態であっても、ライアンならば躊躇なく破るだろう。
もしそうなった時、家人の様子からしても止めてくれるとは思えない。むしろ推奨して共に協力しそうな勢いだ。
アデリシアは結局椅子の移動は諦めることにした。所詮、無駄な努力だと悟ったからだ。
はあああと今日一番の深い溜息を吐いて、アデリシアはその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
無理だ。
鍵が掛かっていようといまいと、すぐ隣にライアンがいるというだけで緊張する。
半ば諦めの境地でアデリシアは隣室の方を見遣った。
この扉の向こうにライアンがいると思うだけで心がざわつく。
そもそも寝付けるはずもない。
良い夢なんて絶対に見る暇はなさそうだった。
****
アデリシアは鋭く何度も発せられる声に気づいた。
ようやく眠りにつけたのは空が白んだ頃だった。自分が埒もない思考の迷路に囚われていたせいだ。何にせよ、短時間でも眠れることが出来たのは幸運だった。
額に手を当てながら、寝台の上に起き上がる。泣いたせいで、少し目が重たい気がする。
カーテンの隙間から射し込む光は、外が既に明るくなっていることを示していた。
いつもは鳥の囀る声が聞こえるのに、今日は違う。小さく発せられる声と剣戟が聞こえてくるせいだ。
掛布を払い、寝台から足を下ろす。室内履きを足に突っかける。アデリシアは立ち上がって窓に近寄った。
締め切ったカーテンを手でそっと開く。
ここからではよく見えないようだ。
昨日の事を思い出しながらもバルコニーに歩み出れば、右下方にライアンとシルヴァールが剣で撃ち合っている姿が見えた。
朝稽古だ。
昨夜遅くまで決裁をしていたはずたが全く関係ないらしい。騎士団の日課は欠かさないのだ。
側では見守るように帯剣した家令が控えていた。確かライアンの剣の師匠であると言っていたか。
「はあっ!」
気合を入れる声と共にシルヴァールが打ち込む。難なくそれを交わして、ライアンは剣を構えてシルヴァールの懐へと飛び込む。柄の近くで剣同士がぶつかり、ぎりと音を立てる。二度三度組み合って、再び互いに距離を取り合う。
「ライアン団長……シルヴァール副団長……」
アデリシアは手摺に手をついて二人を見つめた。
ライアンの剣はシルヴァールの剣より少々太い。そして魔法剣だ。振り下ろす重厚さと共に炎を乗せれば、硬い物も粉砕し、対象物を焦げ付かせる剛の剣となる。
対するシルヴァールの剣は細身の剣だ。剣先が動く度にキラキラと光るのは氷片の飛散する輝きだ。駿足をもって振るえば、柔に見えつつも氷の怜悧さでもって空気をも斬り裂く。
練習とはいえ、無駄のない動きだ。流れるような捌きで剣を交わす二人はとても絵になる。
手摺に置いた手に顎を乗せて、アデリシアは小さく息を吐いた。
シルヴァールからは求婚をされた。
ライアンからはそれを受けるなと頼まれた。
昨夜、悶々としていた時に気づいた事がある。
気が付かなかったらこんなに重い気持ちではなかったかもしれない。しかし気づいてしまったのだ。
ライアンは自分をあれだけ翻弄しておきながら、肝心な事を言っていないのだ。
大事な存在だと言われた。だが、自分を好きだとはライアンは一言も言わなかった。
好きだとは言ってくれなかった。
一番、重要な言葉であるのに。
ライアンは否定していたが、やはり妹のようなものなのだろうか。心を許した仲間に対しては厳しくも優しい。温かく大事にしてくれる人だと知っている。今までのつれない態度からしても、もしかしたら仲間に対する延長の範囲を脱却していないのではないか。
鉄壁の自制心を持つ人だ。酒乱というわけでもないし、仮に女に飢えたとしても、女、ましてや自分の部下に簡単に手を出すような人でもない。
アデリシアは、剣を打ち合う二人を見遣った。
二人が良きライバルであり、互いを支え合う仲間なのは知っている。
シルヴァールはさておき、ただ相手に負けたくないという一念のみでライアンが自分を大事だというあの発言をしていたとしたら。
そこに何も甘い感情がないのだとしたら非常に虚しい。
「ライアン、団長……」
アデリシアは親指をがり、と噛んだ。
一言でいい。
好きだと言って欲しい。
それさえあれば安心出来るのに。
じっと二人の様子を見ていたら、ふと家令が振り返って視線を投げて寄越してきた。
ーー気づかれた。
何気なくゆっくりとこちらへと流された視線だ。咎めるようなものではない。だが、緊張が走った。
視線が重なったのをアデリシアは理解した。
同時に着替えてもいない寝着のままであったことを思い出して、アデリシアは慌てて部屋の中へ引っ込んだ。
朝の練習を見る事自体は隠れる事もないが、やはりこの格好では外に出るのは憚られる。
着替えるべく、呼び鈴の紐を引いてそっと息を吐く。
少し緊張した自分が、いた。




