0.プロローグ
8:00 ターミナル駅前
『モンテ・クリスト伯』においてエドモン・ダンテスが
独房で隣室の神父ファリアと最初に意思疎通した方法を答えよ
駅の真向かいに設置された大型ビジョンが切り替わる。
最新のミュージックビデオでも、天気予報でもなかった。
モナ・リザの絵が囲い込む、二行の問題文。
多くは、気にも留めなかった。
地階のバス乗り場や、張り巡らされたペデストリアンデッキの上を移動する老若男女。一言も発せず、一定の速度を保ちながら駅方向に歩みを進める。
本来なら、流れに逆らうことはできない。当然とばかりに、全員の足が駅内へと引っ張られていく。
誰も立ち止まらない。立ち止まる理由がない。
なによりも優先すべき行動に、貴重な時間を失いたくないのだ。
それでも。
「なに、アレ?」
誰かが足を止める。
駅ビルに接続する空中広場の流れが、少しだけ滞る。
後ろから来た男に肩をぶつけられ、鋭く睨まれた。舌打ちをして追い越していくスーツ姿の男も。
足を止めた人間を縫うように、流れが迂回する。不穏な空気が、言葉にならないまま漂っていた。
刺すような視線に隅へと追いやられながら。普段の変化に興味を引いた何人かは、モナ・リザを見上げる。
「テレビかな」
学生は隠しカメラがないか、少し浮ついた視線で周囲を見回した。
スクリーン全面を使った過度の演出に、メディアの影を感じ取ったのか。
「なんか……ヘンじゃない?」
別の女性が違和感に首を傾げる。
誰もが知っている有名な絵画。右目が黒く切り欠けたのはすぐに気付いた。だが、それだけなら背筋が冷たくなる気分にはならない。
「笑ってない?」
別の誰かが答えて、ハッとした。
確かに。あの柔和な微笑みが口元にない。
不機嫌そうに、あるいは虚ろに、問題文をふち取っている。
「クイズ、かな?」
と言った人間は、スマホで写真だけ撮ってそのままその場を去った。
モンテ・クリスト伯という言葉は聞いたことがある。
でも、それだけだ。知っている、というのはその程度のことだった。
「アレ、分かるぅ?」
「え〜っ、知らなぁいっ」
ふたりの女子高生がモナ・リザを指さして笑いながら通り過ぎる。その後ろで、メガネの男子学生がスマホの検索欄に指を走らせた。
『モンテ・クリスト伯 独房』と打って、指が止まる。
『意思疎通 方法』を足しても、結果が多すぎて読む時間がない。
「壁を叩いた、じゃないか?」
別の男が呟き、すぐに首を横に振った。
顔を上げると、問題文の右下の数字が目に入る。
減っていた。
気になったが、意味が分からない。何の説明もないのだから、当然だ。
顔をしかめると、広場の一角に設置された公衆電話が不意に鳴り出した。
突然の呼び出しに、すぐ横にいた女性の肩が跳ねる。
耳心地の良いメロディではない。もっと原始的な、薄い金属を叩き続ける甲高い電子音。
それが一台だけではない。となりも、その次も。
広場を一角を占拠した灰色の箱の群れから、不自然に同期したノイズが空間を震わせる。
誰も公衆電話に近づく人間はいない。
大多数は無関心さから。好奇心で足を止めた人たちも、不気味さから距離を置く。
大型ビジョンと公衆電話を交互に見る目があった。
視線が絡み合い、やがてひとつの結論に達する。
公衆電話に立ったのは、女性だった。一番近くに居たのが災いした。
だが、出る必要はあるのか?
恐る恐る受話器に手を伸ばしながら、彼女は自問する。
周囲から集まる視線の重さに耐え切れなかったのかもしれない。ただ鳴り続ける音への単純な苦痛だったのかもしれない。
「もしもし?」
「答えは?」
受話器を耳元に当てると、冷たく機械的な自動音声が返ってきた。
「え?」
女性は一瞬、声を失う。次いでモナ・リザを見上げ、もう一度、問題文を読んだ。
「モンテ・クリスト伯……独房……」
自分の唇から発した言葉が、とても遠くから聞こえる。
さっき、誰かが呟いた言葉を思い出そうとする。
壁を叩いた、とか言っていたような気がする。だけど、自信がない。目を動かして呟いた人物を探すが、そもそも誰が言ったのかも分からない。
「わ、わからないです」
女性は、正直に気持ちを吐露した。
受話器の向こうからは、何も返ってこない。
そのまま五秒、十秒。
女性は固まったまま、つばを飲んだ。
ラッシュアワーの喧騒は続いている。圧倒的大多数の無関心が改札へ流れていく。
足を止めていた数人だけが、互いに視線を交差させた。
と——
大型ビジョンのスピーカーからブザー音が鳴った。
同時に、上空で閃光。
天気を気にしていた人間だけが、駅ビルの上層部が一瞬ふくらむ瞬間を見た。
間を置かず、激しい振動と轟音が追いつく。
耳をふさいでも意味のない衝撃。吹き下ろす業風と共に、何かが降ってくる。
瓦礫だと認識するまでに、何人かが押し潰された。
悲鳴が上がる。
ヒステリックに喚いた女性の姿が、粉塵の中にかき消える。
その上から細かな破片と大きな断片。逃げ場のない群衆の頭上へ次々と降り注ぐ。
空中広場で起こった惨劇に、一瞬にして動揺が広がる。
絶叫は駅内のコンコースにも伝播した。
規則的だった動きが、一瞬にして制動を失う。
あてもなく走り回った。転ぶ。立てない。誰かに踏まれる。悲鳴と怒号。至るところで湧き上がる、助けを求める奇声。
誰もが正気を失った。
砂塵が降り注ぐ中、我先にホームへ向かう階段に殺到する。
理由はない。恐怖で回らなくなった頭が、安全そうだと感じた結果だ。
苦しそうに呻く声が奥から上がり、すぐに聞こえなくなった。
それも、長くは続かない。
爆発に耐えきれなかった天井が、大きく音を立てて崩れた。
悲鳴を上げる時間もない。巨大な質量がコンコースを貫く。
耐え切れず、床が抜けた。支えを失った階段が折れ曲がり、激しい音をたてて崩れ落ちる。
駅に侵入していた電車は不運だった。落下した瓦礫に接触し、レール上からはじき出される。
そのまま、勢い良くホームに乗り上げた。逃げ込んだ人々が次々と巻き込まれる。
悲鳴が折り重なった。
何を言っているかも分からない。もはや、人間が発する声ではなかった。
駅前が混乱と粉塵に満たされる中、向かい側のビルは奇跡的に被害を逃れた。
大型ビジョンに映るモナ・リザも同じ。笑わない名画は微動だにせず、片目だけで惨状を見下ろす。
唯一開かれた、左目で。




