表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/4

第1話:十四歳、ダンジョンに死して、妊婦の剣姫に目覚める


じっとりと肌にまとわりつく、鉄錆と硝煙の匂い。五感のすべてが、ここが死地であると告げていた。

「嘘、だろ……。なんで、こんな階層に……」

松本和彦、十四歳。探索者ランクC。それが、俺のすべてだった。

小遣い稼ぎと、ほんの少しの英雄願望を胸に潜った現代日本のダンジョン。その中層で俺たちが遭遇したのは、本来なら最下層の深淵にしか存在しないはずの、漆黒の体躯を持つ特級魔獣だった。

パーティの仲間は一瞬で肉塊に変えられ、俺の安物の片手剣は、魔獣の爪の一撃であっけなく粉砕された。

逃げる足など、とうに動かない。圧倒的な暴力の気配を前に、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。

「がはっ……!」

視界が、ぐにゃりと反転した。

遅れてやってきたのは、腹部を横一文字に引き裂かれたという事実と、焼けるような激痛。どくどくと溢れ出る自身の血が、冷たいダンジョンの床を汚していく。

まだ、十四年しか生きていない。

美味いものだって、もっと食べたかった。女の子と付き合ってみたかった。親孝行らしいことなんて、何一つできていない。

急速に体温が奪われ、世界が暗転していく。あぁ、俺、ここで死ぬんだな――。

薄れゆく意識の最果てで、俺の現代での短い人生は、唐突に幕を閉じた。

「……っ!?」

跳ね起きようとした。しかし、全身を襲う激しい頭痛と、これまで経験したことのない奇妙な身体の重さに遮られ、俺はシーツの上へともつれるように倒れ込んだ。

「う、く……あたまが、割れそうだ……」

自分の口から漏れた声に、凄まじい違和感を覚える。

低く掠れた少年の声ではない。鈴を転がすような、どこか艶を含んだ、ひどく美しい大人の女性の声だった。

「待て、どこだ、ここ……?」

必死に焦り狂う脳をなだめ、視線を巡らせる。

ダンジョンの薄暗い岩肌ではない。天井には見たこともないほど精緻な彫刻が施され、窓からは柔らかな光が差し込んでいる。俺が横たわっているのは、王族の寝室かと思うほどに豪華な、天蓋付きの巨大なキングサイズベッドだった。

混乱する俺の頭に、自身の記憶とは全く異なる「もう一つの膨大な記憶」が、濁流となって流れ込んできた。

アストラル=ヴェルディア大陸。ルミナス・エルディア王国。

光と学術を重んじる大国であり、白い大理石が美しい王都ルミナリア。

そして、その地でかつて王国最強の戦士と称され、数々の戦場を舞った伝説の存在――『剣姫』エレーナ・マクシミリアン、三十二歳。

「これが……俺? いや、私……なのか……?」

震える手を持ち上げる。

白く、一点の曇りもない滑らかな肌。しかし、その指先や手のひらには、過酷な剣の鍛錬を重ねてきた者だけが持つ、硬い吸い豆の痕跡が微かに残っていた。

ベッドの脇にある姿見に目をやると、そこには波打つプラチナブロンドの髪と、吸い込まれそうなほどに深い、アメジスト色の瞳を持つ絶世の美女が映り込んでいた。

十四歳の冴えない男子中学生が、異世界の伝説級の女性戦士に転生した。

その事実だけでも脳の処理能力を超えているというのに、記憶の奔流は、さらに容赦のない現実を突きつけてくる。

エレーナ・マクシミリアンは、すでに引退の身であること。

そして、この世界で最強と謳われる『大賢者』の夫を持ち、すでに二人の子供を育てる母親であるということ。

「嘘だろ……。結婚してて、子供までいるのか……?」

前世では免疫のなかった「家庭」という概念に、和彦としての理性が激しく動揺する。

だが、衝撃はそれだけに留まらなかった。

自身の身体の内側に意識を向けると、体内に渦巻く龍脈のような莫大な魔力とは別に、下腹部の奥深く、ほんの小さな境界線の中に、信じられないほど愛おしく、瑞々しい「生命の気配」が宿っているのを感じ取ってしまったのだ。

「あ……」

本能が、エレーナとしての肉体が、瞬時にその意味を理解する。

妊娠、二ヶ月。

いま、この身体の中には、新しい命が確かに息づいている。

「エレーナ! 目を覚ましたのか!?」

突然、部屋の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。

現れたのは、息を切らせた一人の男だった。

夜空を溶かし込んだような深い紺色の髪に、理知的ながらも、今は強い焦燥に揺れる琥珀色の瞳。仕立ての良い魔導衣を翻し、大股でベッドへと駆け寄ってくるその姿は、絵画から抜け出してきた騎士か、あるいは若き王族のようだった。

ギルバート・マクシミリアン。

大陸最高峰のアストレイア魔導学院で教鞭を執り、世界を数度救ったとされる伝説の大賢者。そして――エレーナの夫。

「あ、の……」

あまりの顔の良さと、放たれる圧倒的な存在感に、中身が十四歳の和彦である俺は、完全に気圧されて言葉を詰まらせた。全身の血が顔に集まり、耳の裏まで熱くなるのがわかる。

「無茶をするな、まだ横になっていてくれ。急に意識を失ったと聞いて、学院から転移魔術で文字通り飛んできたんだ。体調はどうだ? どこか痛むところは?」

ギルバートはベッドの脇に膝をつくと、エレーナ(俺)の手をそっと両手で包み込んだ。

大人の男の、大きくて温かい手。前世の俺なら「ふざけるな」と引き剥がしていただろう。だが、この手触りが、不思議とひどく懐かしく、そして張り詰めていた心を芯から落ち着かせていく。

エレーナの肉体が持つ記憶と感情が、彼を「最愛の存在」だと認識し、和彦の戸惑いを上書きしていくのだ。

「大丈夫……よ、ギルバート。少し、頭痛がしただけだから」

自然と口から出た淑やかな言葉遣いに、自分自身で驚く。

ギルバートはホッとしたように深い息を吐き出すと、その綺麗な顔を信じられないほど近づけ、俺の額に自身の額をそっと重ねた。

「熱は下がっているようだな……良かった。本当に、生きた心地がしなかったんだ。もし君に何かあれば、私は……」

「大袈裟ね、あなた」

「大袈裟なものか。医師から報告は受けているよ。君の身体の中に、私たちの三番目の天使がやってきてくれたんだろう?」

ギルバートの視線が、優しく俺のお腹へと注がれる。その瞳に宿る、溢れんばかりの慈愛と喜び。

彼の手が、そっと俺の手の上に重ねられ、二人で小さなお腹を包み込むような形になった。

十四歳の少年が、異世界で最強の妊婦になった。

これから先、どうなってしまうのか、不安がないと言えば嘘になる。

だが、この温もりだけは、前世のあの冷たいダンジョンの床では絶対に得られなかった、本物の「幸福」の予感がした。

エレーナとしての本能と、和彦としての覚悟が、静かに胸の中で交錯する。

――わかったよ。だったら、この最高の人生と家族を、私の剣で、今度こそ死ぬ気で守り抜いてみせる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ