第1話:十四歳、ダンジョンに死して、妊婦の剣姫に目覚める
じっとりと肌にまとわりつく、鉄錆と硝煙の匂い。五感のすべてが、ここが死地であると告げていた。
「嘘、だろ……。なんで、こんな階層に……」
松本和彦、十四歳。探索者ランクC。それが、俺のすべてだった。
小遣い稼ぎと、ほんの少しの英雄願望を胸に潜った現代日本のダンジョン。その中層で俺たちが遭遇したのは、本来なら最下層の深淵にしか存在しないはずの、漆黒の体躯を持つ特級魔獣だった。
パーティの仲間は一瞬で肉塊に変えられ、俺の安物の片手剣は、魔獣の爪の一撃であっけなく粉砕された。
逃げる足など、とうに動かない。圧倒的な暴力の気配を前に、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。
「がはっ……!」
視界が、ぐにゃりと反転した。
遅れてやってきたのは、腹部を横一文字に引き裂かれたという事実と、焼けるような激痛。どくどくと溢れ出る自身の血が、冷たいダンジョンの床を汚していく。
まだ、十四年しか生きていない。
美味いものだって、もっと食べたかった。女の子と付き合ってみたかった。親孝行らしいことなんて、何一つできていない。
急速に体温が奪われ、世界が暗転していく。あぁ、俺、ここで死ぬんだな――。
薄れゆく意識の最果てで、俺の現代での短い人生は、唐突に幕を閉じた。
◇
「……っ!?」
跳ね起きようとした。しかし、全身を襲う激しい頭痛と、これまで経験したことのない奇妙な身体の重さに遮られ、俺はシーツの上へともつれるように倒れ込んだ。
「う、く……あたまが、割れそうだ……」
自分の口から漏れた声に、凄まじい違和感を覚える。
低く掠れた少年の声ではない。鈴を転がすような、どこか艶を含んだ、ひどく美しい大人の女性の声だった。
「待て、どこだ、ここ……?」
必死に焦り狂う脳をなだめ、視線を巡らせる。
ダンジョンの薄暗い岩肌ではない。天井には見たこともないほど精緻な彫刻が施され、窓からは柔らかな光が差し込んでいる。俺が横たわっているのは、王族の寝室かと思うほどに豪華な、天蓋付きの巨大なキングサイズベッドだった。
混乱する俺の頭に、自身の記憶とは全く異なる「もう一つの膨大な記憶」が、濁流となって流れ込んできた。
アストラル=ヴェルディア大陸。ルミナス・エルディア王国。
光と学術を重んじる大国であり、白い大理石が美しい王都ルミナリア。
そして、その地でかつて王国最強の戦士と称され、数々の戦場を舞った伝説の存在――『剣姫』エレーナ・マクシミリアン、三十二歳。
「これが……俺? いや、私……なのか……?」
震える手を持ち上げる。
白く、一点の曇りもない滑らかな肌。しかし、その指先や手のひらには、過酷な剣の鍛錬を重ねてきた者だけが持つ、硬い吸い豆の痕跡が微かに残っていた。
ベッドの脇にある姿見に目をやると、そこには波打つプラチナブロンドの髪と、吸い込まれそうなほどに深い、アメジスト色の瞳を持つ絶世の美女が映り込んでいた。
十四歳の冴えない男子中学生が、異世界の伝説級の女性戦士に転生した。
その事実だけでも脳の処理能力を超えているというのに、記憶の奔流は、さらに容赦のない現実を突きつけてくる。
エレーナ・マクシミリアンは、すでに引退の身であること。
そして、この世界で最強と謳われる『大賢者』の夫を持ち、すでに二人の子供を育てる母親であるということ。
「嘘だろ……。結婚してて、子供までいるのか……?」
前世では免疫のなかった「家庭」という概念に、和彦としての理性が激しく動揺する。
だが、衝撃はそれだけに留まらなかった。
自身の身体の内側に意識を向けると、体内に渦巻く龍脈のような莫大な魔力とは別に、下腹部の奥深く、ほんの小さな境界線の中に、信じられないほど愛おしく、瑞々しい「生命の気配」が宿っているのを感じ取ってしまったのだ。
「あ……」
本能が、エレーナとしての肉体が、瞬時にその意味を理解する。
妊娠、二ヶ月。
いま、この身体の中には、新しい命が確かに息づいている。
「エレーナ! 目を覚ましたのか!?」
突然、部屋の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。
現れたのは、息を切らせた一人の男だった。
夜空を溶かし込んだような深い紺色の髪に、理知的ながらも、今は強い焦燥に揺れる琥珀色の瞳。仕立ての良い魔導衣を翻し、大股でベッドへと駆け寄ってくるその姿は、絵画から抜け出してきた騎士か、あるいは若き王族のようだった。
ギルバート・マクシミリアン。
大陸最高峰のアストレイア魔導学院で教鞭を執り、世界を数度救ったとされる伝説の大賢者。そして――エレーナの夫。
「あ、の……」
あまりの顔の良さと、放たれる圧倒的な存在感に、中身が十四歳の和彦である俺は、完全に気圧されて言葉を詰まらせた。全身の血が顔に集まり、耳の裏まで熱くなるのがわかる。
「無茶をするな、まだ横になっていてくれ。急に意識を失ったと聞いて、学院から転移魔術で文字通り飛んできたんだ。体調はどうだ? どこか痛むところは?」
ギルバートはベッドの脇に膝をつくと、エレーナ(俺)の手をそっと両手で包み込んだ。
大人の男の、大きくて温かい手。前世の俺なら「ふざけるな」と引き剥がしていただろう。だが、この手触りが、不思議とひどく懐かしく、そして張り詰めていた心を芯から落ち着かせていく。
エレーナの肉体が持つ記憶と感情が、彼を「最愛の存在」だと認識し、和彦の戸惑いを上書きしていくのだ。
「大丈夫……よ、ギルバート。少し、頭痛がしただけだから」
自然と口から出た淑やかな言葉遣いに、自分自身で驚く。
ギルバートはホッとしたように深い息を吐き出すと、その綺麗な顔を信じられないほど近づけ、俺の額に自身の額をそっと重ねた。
「熱は下がっているようだな……良かった。本当に、生きた心地がしなかったんだ。もし君に何かあれば、私は……」
「大袈裟ね、あなた」
「大袈裟なものか。医師から報告は受けているよ。君の身体の中に、私たちの三番目の天使がやってきてくれたんだろう?」
ギルバートの視線が、優しく俺のお腹へと注がれる。その瞳に宿る、溢れんばかりの慈愛と喜び。
彼の手が、そっと俺の手の上に重ねられ、二人で小さなお腹を包み込むような形になった。
十四歳の少年が、異世界で最強の妊婦になった。
これから先、どうなってしまうのか、不安がないと言えば嘘になる。
だが、この温もりだけは、前世のあの冷たいダンジョンの床では絶対に得られなかった、本物の「幸福」の予感がした。
エレーナとしての本能と、和彦としての覚悟が、静かに胸の中で交錯する。
――わかったよ。だったら、この最高の人生と家族を、私の剣で、今度こそ死ぬ気で守り抜いてみせる。




