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 にっこり微笑んで退室した母と入れ替わりに入室した青年を、マキュリーはしばらく寝台に座って、ぼうっと眺めていた。どうしていいのかよくわからなかった。体のずっと奥のほうから、大騒ぎする心臓の鼓動が聞こえた。


 扉が閉ざされる寸前、青年はくるりと足を踏み変え、ピカピカに磨かれた革靴の爪先を、扉の隙間に捩じ込んだ。扉を少しだけ開けておいて、マキュリーに向き直る。胸に左手を当てて、右手を後ろに回して、優雅に一礼した。


「プルトー・ラース、約によって推参つかまつりました。魔王女殿下におかれましては、ご機嫌も麗しいご様子と存知たてまつりまして、まことに結構なことと承ります」


 四角張った口上を述べて、彼は顔を上げた。薄紅色の唇の両端がかすかに捲れているけれど、その表情を微笑みと呼ぶには抵抗がある。危険を予感させる表情だった。冷酷で残忍な彼特有の魅力に溢れているから、マキュリーは何時如何なる場合も、頬を染めて、うっとりと見蕩れてしまう。


 長い睫のなかに煙る、雪のなかの深い泉のように冴えた眸が、マキュリーを見据える。氷刃で斬りつけるような視線の鋭さが、玲瓏たる美貌に剣呑な火花を散らす。それを遮る前髪を、彼の優美な指先が払いのける。そのついでとばかりに頭を振ると、項のあたりで束ねられた銀髪が龍の尾のように揺れて、窓から射し込む月光を弾き、艶やかな白銀の上に七色の光を踊らせた。今も昔も変わらず、彼は眩いから、マキュリーは眩んでしまう。


「プルトー」


 彼の名前を呼ぶマキュリーの声はかすれていた。出会い、恋に落ちてから今までずっと、恋い焦がれ、求め続けてきた愛しい魔人がすぐそこにいる。いる筈のない魔人が。


 プルトーはマキュリーに腹を立てている。憤怒の龍の本性を現して襲いかかってくる程に。あれから、マキュリーは泣いてばかりいたので、プルトーに詫びをいれていないし、許されてもいない。プルトーは時間の経過を免罪符にして、問題を有耶無耶にするタイプではない。


 これは夢なのか? マキュリーは思いきり頬をつねってみた。とても痛かった。どうやら、夢ではないようだ。


 それでは、これは幻惑か? マキュリーは瞳に魔力集結させて、目の前のプルトーを凝視する。そうして、確信する。夢じゃない。幻なんかじゃない。正真正銘、本物のプルトーだ。プルトーが会いに来てくれた。


 募る慕情に身を委ね、プルトーの胸に飛び込みたい。しかし、差しのべた手を拒まれた経験が、マキュリーを躊躇わせる。今、目の前にいるプルトーは、マキュリーに手を差し伸べてくれたプルトーではなくて、マキュリーの差し伸べて手を振り払うプルトーかもしれない。


「……あたくしの方から、お招きしたかしら?」


 マキュリーはプルトーに訊ねた。プルトーの怒りを買うことを恐れるあまり、身構えてしまう。

 こうして、おどおどびくびくしていると、金ぴか芋虫のマキュリーに戻ってしまったかのような錯覚にとらわれそうになる。


(錯覚? 錯覚なの? 本当に? 芋虫は羽化して蝶になった……それこそ、錯覚なのではなくて?)


 プルトーがマキュリーと交わした約束を忘れてしまって、マキュリーのことなんて嫌いになってしまったのなら。そもそも、完璧なマキュリー・プライドなんて、はじめから何処にもいなかったということになる。マキュリーは、蝶に羽化して華麗に舞い踊る夢を見る、愚かな芋虫に過ぎないのかもしれない。


 先刻、プルトーは「約によって推参つかまつりました」と言ったけれど、マキュリーには、覚えがない。マキュリーはプルトーと交わした約束を忘れてしまったのだろうか。プルトーがマキュリーと交わした約束を忘れてしまったように。


 マキュリーは俯いた。プルトーが傍にいてくれるのに、こんなにも寂しい。それが悲しくて堪らない。


 プルトーは慎ましく目を伏せると、慇懃に頭を下げた。


「厚かましいことは承知しております」


 プルトーの声調は強張っている。突然の来訪を咎められたと、プルトーは思ったのだろうか。マキュリーは慌てて頭を振った。


「そうじゃなくて! あの、その、ええと……今日は、どんなご用件でいらっしゃったの?」

「もちろん、殿下にお目にかかりに参りました。先日のお詫びをさせて頂きたく存じます」


 プルトーの言葉は超弩級の雷となって、マキュリーの脳天に突き刺さり、身も心も痺れさせた。稲妻の閃光で目の前が真っ白になり、雷鳴の轟音で音が聞こえなくなった。


(そう……そういうこと)


 プルトーは龍人の首長として、魔王女に謝罪する為に登城したのだ。マキュリーに会いに来てくれたのではなかった。


 マキュリーはプルトーの澄まし顔を見つめた。ここに、プルトーの気持ちはない。ここにあるのは、龍人を統率する憤怒の龍としての責務だけ。


 プルトーはマキュリーと交わした約束を忘れてしまったのだろうか。この百年間、マキュリーを支えてくれた約束は、プルトーの心のなかで色褪せて、塵芥も同然に成り下がってしまったのか。


 マキュリーは笑った。笑いたくなかったけれど、笑わずにはいられなかった。自嘲するのは、きっと、生まれてはじめてのことだ。心を裂いた傷を抉るような行為のおぞましさに吐き気をもよおすけれど、やめられない。


「それで、わざわざ、ご足労頂いたということ? お手紙で済ませることだって出来たでしょうに」

「それでは、お許しを乞うと同時に、拝顔の栄に浴する喜びにひたれないではありませんか」


 綺麗に微笑むプルトーを、マキュリーは信じられないと思った。


 マキュリーは今にも壊れてしまいそうなのに、プルトーはいけしゃあしゃあとしている。


 マキュリーをせせら笑うプルトーを、マキュリーは憎いと思った。


 その瞬間、プルトーの足元から火柱が立つ。紅蓮の炎のなかに、黒々と浮かび上がる細身のシルエットを、マキュリーは呆然として眺めていた。炎に包まれたのはプルトーで、彼に火を点けたのがマキュリーだった。しばらく呆けてから、燃え盛る炎によってその事実を突きつけられる。なんてこと、とマキュリーは青ざめた。


「ごめんなさい、こんなつもりじゃ……!」


 狼狽え、上擦る叫びが途切れる。こんなつもりじゃなかったと、断言することは出来なかった。なぜなら、炎に包まれるプルトーを目の当たりにして、マキュリーは考えてしまったから。このまま、プルトーの手足を焼ききってしまえたら、ずっと一緒にいられるかもしれない、と。


 プルトーは強い。これしきのこと、痛くも痒くもないだろう。では、どうすれば良いのか。どうすれば、彼を跪かせることが出来るのか。マキュリーを歯牙にもかけない彼を手に入れるには、どうすれば良いのだろう。


 マキュリーは胸の前で両手を握り合わせた。


 プルトーがマキュリーを顧みてくれないなんて、耐えられない。プルトーを蹂躙してでも彼を手に入れたい。けれど、プルトーが嫌がることはしたくない。プルトーを傷つけたくない。


 プルトーは救いようのない出来損ないのマキュリーを救ってくれた。たとえ、プルトーがマキュリーを嫌っていても、マキュリーはプルトーのことが大好きなのだ。それだけは絶対に、間違いのないことだから。


 マキュリーは髪留めを強く握り締めた。爪が掌に食い込み、血が流れる。涙が流れた。プルトーを包む炎が消えた。


 思った通り、プルトーは無傷だった。仕立ての良い漆黒の礼服が氷の結晶を纏い、きらきら光っている。


 礼服を火から守るために熱を奪う魔法を使ったようだが、彼自身の体は不可視の鱗に覆われているので、生半可な攻撃では傷ひとつつけられない。傷付いたとしても瞬時に回復する。龍は不死身だと言われるのはその為だ。


 龍人を倒すには、その防御力と回復力を上回る火力で、殺すつもりで押しきるしかない。


  それが出来ないから、マキュリーに勝ち目はないのだ。


 プルトーは悠然と歩み寄ってくる。寝台の傍らに立ち、項垂れるマキュリーを見下ろす。マキュリーは竦み上がった。


 プルトーが逆上して怒鳴りつけてきたり、襲いかかってきたりするのなら、それでも良い。恐ろしいのはプルトーが、幼稚なマキュリーに愛想をつかして立ち去ってしまうこと。


 プルトーの手がにゅっと伸びてきて、マキュリーの右手首を掴む。ハッとして顔を上げると、プルトーが寝台の傍らに跪いていた。固く拳を握ったマキュリーの右手を口元まで引き寄せると、彼はマキュリーの手首に舌を這わせて、伝い流れる血を舐めとった。


 血の巡りが透ける薄い皮膚を舌先でなぞられると、背筋がぞくぞくする。ぶるりと身震いすると、プルトーが上目遣いにマキュリーを見上げた。


「申し訳ございません。どうか、お許しを」


 そう言って、手首の窪みにキスをする。マキュリーはそのときびっくりして手を引っこめようとした。しかし、プルトーはマキュリーの手を放さない。そのことに、マキュリーは羞恥と喜びをいっぺんに感じ、声にならない悲鳴と歓声をあげた。

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