鏡の向こうの記憶
「二人のうち、一人は最初から存在しなかった」
ミラは、その一文を何度も読み返していた。
紙片は小さく、古びていた。
どこから切り取られたものなのか分からない。端は不自然なほど滑らかで、まるで最初からその大きさだったかのようだった。
エリアスは向かいの椅子に座り、冷めた紅茶を見つめていた。
屋敷から戻って、すでに一時間が経っている。
二人とも、ほとんど話していなかった。
「……確認したいことがある」
先に口を開いたのは、エリアスだった。
ミラは顔を上げた。
「何?」
「あの部屋のことだ」
彼は少し考えてから続けた。
「君には、机や鏡が見えていたんだよな?」
「うん。ノートもあった」
「俺には何も見えなかった」
「知ってる」
「でも、一つだけ覚えてることがある」
エリアスは、ゆっくりとミラを見た。
「あの部屋に入る前、俺は扉の数字を見た」
「十三?」
「そう。ところが、部屋から出たときには、数字が違っていた」
ミラは眉をひそめた。
「いくつだったの?」
「覚えてない」
「覚えてないって……」
「数字を見たことは覚えてる。でも、何番だったかだけが思い出せないんだ」
ミラは紙片を机に置いた。
「私が見たときは、十三だった」
「じゃあ、君が見た数字と俺が見た数字は違ったのかもしれない」
「でも、同じ扉だったんだよ?」
「本当に?」
その問いに、ミラは黙った。
二人は同じ廊下を歩いた。
同じ扉の前で立ち止まった。
同じ部屋に入ったはずだった。
それなのに、一人には家具が見え、もう一人には何も見えなかった。
「……もう一度、あそこに行く必要がある」
ミラが言った。
エリアスはすぐには答えなかった。
「行ったら、今度は何が起きると思う?」
「分からない」
「もし、次は君にも何も見えなくなったら?」
ミラは窓の外を見た。
「それでも、確かめたい」
エリアスは小さく息を吐いた。
「分かった。でも、次は一人で動かないこと。何か見えても、聞こえても、必ず俺に言ってくれ」
「うん」
二人は約束した。
そのときは、まだ知らなかった。
約束を交わした二人のうち、どちらがその言葉を覚えているのかさえ、いずれ分からなくなることを。
## 2
翌日、ミラは学校の帰りに写真屋へ立ち寄った。
屋敷の写真を、何とか復元できないかと思ったのだ。
エリアスが送ってくれた画像は、どれも開けなくなっていた。
しかし、彼女の携帯電話には、画像のサムネイルだけが残っている。
小さな画面の中に、屋敷の輪郭が見えた。
写真屋の店主は、画像を確認すると首を傾げた。
「元のデータが壊れているね。これでは難しい」
「少しも直せませんか?」
「試すことはできるけれど、何が写っているかまでは保証できないよ」
ミラは携帯電話を預け、翌日また来ることにした。
店を出たところで、彼女はふと足を止めた。
向かい側のショーウィンドウに、自分の姿が映っていた。
制服。
鞄。
肩まで落ちた髪。
その隣に、もう一人の少女が立っていた。
ミラは振り返った。
歩道には誰もいない。
もう一度、窓を見る。
少女はまだ映っていた。
顔はミラと同じだった。
けれど、服装が違う。
白いワンピース。
古い時代のものに見える、飾りのない服。
少女はミラを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を動かした。
声は聞こえなかった。
それでも、ミラは唇の形を読んだ。
――覚えていないの?
ミラは一歩後ずさった。
その瞬間、通りを走る車が視界を横切った。
車が通り過ぎたあと、窓には自分の姿しか残っていなかった。
ミラはしばらくその場に立っていた。
少女の顔が、頭から離れない。
覚えていないの?
何を?
誰を?
ミラは歩き始めた。
家に帰るまで、一度もショーウィンドウを見なかった。
## 3
その夜、エリアスは夢を見た。
長い廊下を歩いている。
壁には額縁が並んでいた。
どの額縁にも、同じ少女の写真が入っている。
一枚目。
少女は笑っていた。
二枚目。
少女は泣いていた。
三枚目。
少女は、こちらに背を向けていた。
エリアスは歩き続けた。
廊下の奥に、黒い扉があった。
金属板には数字が刻まれている。
十三。
彼は取っ手を握った。
扉は簡単に開いた。
中には、鏡が一枚置かれていた。
鏡の前に、少女が立っている。
長い髪。
白い服。
ミラと同じ顔。
エリアスは声をかけようとした。
しかし、声が出なかった。
少女は鏡を見つめたまま、言った。
「あなたは、私を覚えている?」
エリアスは答えられなかった。
「一緒にいたでしょう?」
少女が振り返る。
「ずっと、三人だったのに」
その瞬間、鏡の表面に亀裂が走った。
少女の背後に、二人の女が現れた。
黒いドレス。
同じ顔。
二人の間には、黒いハートが浮かんでいた。
少女は目を伏せた。
「でも、あなたたちは、いつも二人だと言う」
黒いハートの亀裂が広がった。
鏡の中の少女が、エリアスに手を伸ばした。
「ねえ」
その声は、ミラの声に似ていた。
「私がいなかったことにしないで」
エリアスは目を覚ました。
午前二時十三分。
部屋は暗かった。
窓の外には、誰もいない。
彼は額に手を当て、深く息を吐いた。
夢だ。
ただの夢。
そう考えようとした。
そのとき、机の上に置いていた携帯電話が光った。
ミラからメッセージが届いていた。
『エリアス、起きてる?』
エリアスはすぐに返信した。
『起きてる。どうした?』
既読がついた。
返事は、すぐには来なかった。
やがて、画面に文字が表示された。
『さっき、夢を見たの』
エリアスの指が止まった。
『どんな夢?』
しばらくして、ミラから返事が届いた。
『知らない女の子が出てきた。私と同じ顔だった』
エリアスは携帯電話を握りしめた。
夢の中の少女。
白い服。
同じ顔。
『何か言ってた?』
ミラの返事は短かった。
『うん』
『何て?』
数秒後。
『私がいなかったことにしないで、って』
エリアスは画面を見つめた。
夢の中で聞いた言葉と、一字一句同じだった。
彼は返信しようとした。
しかし、その前に、もう一通のメッセージが届いた。
『エリアス』
『私たち、前にもあの子に会ったことがあるのかな?』
エリアスは答えられなかった。
その瞬間、携帯電話の画面が暗くなった。
画面に映った自分の顔。
その背後に、白い服の少女が立っていた。
エリアスは振り返った。
誰もいなかった。
再び画面を見る。
少女は消えていた。
ただ、画面の中央に、見覚えのない文字が浮かんでいた。
**三人目の記録を確認しました。**
その下に、小さな数字が表示されていた。
**残り二人。**
エリアスは、携帯電話を落とした。
床に落ちた画面は、すぐに消えた。
そして午前二時十三分。
部屋の壁に掛けられた時計が、逆向きに動き始めた。




