■第四十四話 病気が減ったら、人が増えた
「……数字が、おかしいです」
王都の会議室。
人口・住宅分科会の担当官が、震えるような声で報告した。
沙樹は資料から顔を上げた。
「どの数字?」
「人口です」
「人口?」
「はい」
担当官は一枚の紙を机の上に置いた。
「今年の人口調査結果です」
そこには、王国各地の人口推移が記されていた。
「王国全体で、前年より人口が増えています」
「それは珍しいことじゃないでしょう」
「……増え方が、問題なんです」
「どれくらい?」
担当官が息を呑む。
「予測より、かなり多いです」
会議室が静まり返った。
人口・住宅分科会だけではない。
農業・食料分科会。
水・衛生分科会。
物流・交通分科会。
教育・医療分科会。
地域財政分科会。
それぞれの担当者が、手元の資料を見比べていた。
「原因は?」
誰かが尋ねた。
担当官は首を横に振った。
「まだ一つに絞れていません」
「移民では?」
「確かに都市部への流入はあります。しかし、それだけでは説明できません」
「出生数が増えた?」
「それもあります」
「では、何が起きている?」
担当官は資料をめくった。
「死亡者数が減っています」
その言葉に、沙樹は黙った。
「……そういうことか」
「はい」
「病気で亡くなる人が減った」
「それだけではありません」
担当官は続けた。
「感染症による重症化が減った。子供の病欠が減った。出産後の母子の体調悪化も減っています」
「医療分科会の報告では、以前なら数日から数週間寝込んでいた病気でも、軽症で済む例が増えているそうです」
「軍も同じです」
軍の担当者が口を挟んだ。
「以前は部隊の一部で病気が発生すると、次々と広がっていました」
「今は?」
「発生そのものが減っています」
「それに、発生しても早い段階で見つけられる」
「水、食器、寝具、洗濯、足の衛生、排水……一つ一つは小さな改善ですが、全部が重なっています」
沙樹は腕を組んだ。
「つまり」
「はい」
担当官が言った。
「人が死ななくなっているんです」
誰もすぐには答えなかった。
それは喜ばしい話だった。
しかし。
行政の人間たちは、同時に別の問題を見ていた。
人口が増えれば。
食料が必要になる。
水が必要になる。
家が必要になる。
学校が必要になる。
病院が必要になる。
道路も必要になる。
仕事も必要になる。
そして。
「人口が増えたから、また別の問題が出てきたわけですね」
沙樹が言うと、担当官は頷いた。
「その通りです」
農業分科会の担当者が立ち上がった。
「食料需要が、想定より増えています」
「どの程度?」
「穀物、豆、野菜、肉、油、保存食品。すべてです」
「生産量は?」
「増えています」
「なら問題ないじゃない」
「生産量の増加が、人口増加に追いついていません」
沙樹は資料を見る。
農業生産量は確かに増えている。
堆肥の規格化。
土壌調査。
農業記録。
保存施設。
加工施設。
物流網。
以前より、明らかに効率は上がっている。
だが
人口の増加速度が、それ以上だった。
「面白いですね」
「面白い?」
農業担当者が困惑した顔をする。
「はい」
沙樹は資料を指で叩いた。
「以前は、食料が余っているのに飢えている地域がありました」
「……はい」
「今は、食料を作る力が上がっている」
「はい」
「物流も改善している」
「はい」
「それでも足りなくなり始めた」
沙樹は笑った。
「つまり、国全体が少しずつ豊かになった結果、需要そのものが増えている」
誰も否定しなかった。
貧しい時代には。
食べられるだけで満足する。
病気になれば死ぬ。
服が破れれば直す。
家族が病気になれば働けない。
子供が病気になれば学校へ行けない。
それが変わった。
病気が減った。
働ける日が増えた。
学校へ行ける日が増えた。
農業生産が増えた。
商売が増えた。
物流が増えた。
そして。
人が生き残るようになった。
「人口が増えること自体が問題なんじゃない」
沙樹が言った。
「人口が増える速度と、生活基盤が増える速度が合っているかが問題です」
人口・住宅分科会の担当者が頷く。
「すでに王都周辺では、住宅需要が上がっています」
「家賃は?」
「上昇しています」
「空き家は?」
「減っています」
「学校は?」
「入学希望者が増えています」
「水は?」
水・衛生分科会の担当者が答えた。
「現在は余裕があります。ただし、二年後、三年後を考えると新しい水源と配水設備が必要です」
「下水は?」
「こちらも同じです」
「ごみは?」
「収集量が増えています」
「道路は?」
物流担当者が苦笑した。
「すでに混雑が始まっています」
沙樹は椅子にもたれた。
「……なるほど」
かつては。
「病気を減らす」
それだけだった。
次に。
「水をきれいにする」
「ごみを処理する」
「食料を保存する」
「物流を改善する」
「住宅を整える」
「農業を改善する」
そうやって一つずつ問題を解決してきた。
だが問題を解決すると。
次の問題が現れる。
それは失敗ではない。
むしろ逆だった。
国が動き始めた証拠だ。
「各分科会」
沙樹は会議室を見渡した。
「人口増加を前提に、五年後の需要を計算してください」
「五年後?」
「はい」
「十年ではなく?」
「十年は予測誤差が大きくなります」
沙樹は続ける。
「まず五年」
「人口」
「住宅」
「学校」
「病院」
「水」
「下水」
「ごみ」
「食料」
「道路」
「物流」
「雇用」
「すべてです」
担当者たちが一斉に筆を走らせる。
「ただし」
沙樹は言った。
「人口が増えるから、とにかく施設を増やせばいい、ではありません」
「では、どうするのです?」
「地域ごとの人口構成を見る」
「年齢?」
「年齢だけじゃない」
沙樹は資料を広げた。
「子供が増えている地域」
「若者が流入している地域」
「高齢者が多い地域」
「働く世代が減っている地域」
「住宅が余っている地域」
「住宅が足りない地域」
「学校が余っている地域」
「学校が足りない地域」
「全部違います」
人口が一万人増えた。
それだけでは何も分からない。
一万人のうち。
子供が八千人なのか。
働く世代が八千人なのか。
高齢者が八千人なのか。
それによって必要なものはまったく変わる。
「人口を一つの数字として扱わない」
沙樹は言った。
「人間は数字一つじゃないから」
会議室が静かになった。
そして。
その日の午後。
人口・住宅分科会は新しい資料作成を始めた。
『地域人口構成表』
人口。
世帯数。
年齢構成。
住宅数。
空き家。
出生数。
死亡数。
転入。
転出。
学校。
病院。
雇用。
平均所得。
食料消費。
水使用量。
ごみ排出量。
物流量。
以前なら、それぞれ別の役所が管理していた。
今は違う。
同じ地域の数字を横に並べる。
すると。
見えなかったものが見えてくる。
ある町では人口が一割増えた。
しかし住宅は二割増えている。
「空き家が増えている?」
「はい」
「なのに家賃が上がっている?」
「はい」
調査すると。
空き家の多くが老朽化していて、そのままでは住めなかった。
「なるほど」
住宅担当者が記録する。
『空き家数だけでは住宅余力を判断できない』
別の町。
人口は減っている。
しかし学校の児童数は増えている。
「どういうこと?」
調査すると。
若い夫婦が周辺地域から集まっていた。
人口総数は減っているが。
子供のいる世帯は増えている。
「人口減少だから学校を閉鎖する」
それだけでは危険だった。
さらに別の町。
人口は増えている。
税収も増えている。
しかし水使用量が急増している。
「人口増加率より、水使用量の増加率が高い」
水・衛生分科会が報告した。
「商業施設と加工工場が増えたためです」
人口だけ見ていたら、分からない。
経済活動を見る必要がある。
そして。
その情報は隣国からも届いた。
「こちらが隣国の一年間の報告書です」
外交担当者が厚い書類を持ってきた。
沙樹がページをめくる。
そこには。
隣国の衛生改善状況が記されていた。
安全な飲料水を使える地域が増えた。
石鹸の普及率が上がった。
学校での手洗い設備が増えた。
市場や飲食店の衛生管理が改善した。
ごみの収集地域が拡大した。
排水処理施設が増えた。
そして
疾病発生状況。
以前と比べ。
明らかに減っていた。
集団発生も減っている。
学校の病欠も減っている。
医療施設への重症患者の集中も減っている。
「向こうでも、同じことが起きています」
外交担当者が言った。
「病気が減った」
「はい」
「人が働ける日が増えた」
「はい」
「子供が学校へ行ける日も増えた」
「はい」
沙樹は報告書を閉じた。
「そして人口が増え始めた」
「……はい」
王国だけではない。
隣国でも。
そのさらに隣の地域でも。
少しずつ。
だが確実に。
生活環境が変わったことで。
人々の暮らしそのものが変わり始めていた。
病気で失われていた時間。
働けなかった時間。
学校へ行けなかった時間。
看病に使っていた時間。
それらが戻ってきた。
国全体で見れば。
それは巨大な変化だった。
財務担当者が口を開いた。
「税収も増えています」
「人口が増えたから?」
「それだけではありません」
「商取引が増えた」
「はい」
「加工品が増えた」
「はい」
「物流が増えた」
「はい」
「働ける日が増えた」
「その影響もあります」
財務担当者は笑った。
「税率を上げていないのに、税収が増えています」
沙樹は少しだけ笑った。
「それが一番いい変化かもしれませんね」
誰かが尋ねた。
「では、さらに税を下げますか?」
「すぐには決めない」
「なぜです?」
「人口増加で必要になるインフラがあるからです」
水。
道路。
学校。
病院。
住宅。
下水。
ごみ処理。
食料。
物流。
「まず必要なところへ投資する」
沙樹は言った。
「そのために、国の人たちが作った分科会があるんでしょう?」
担当者たちは顔を見合わせた。
以前なら。
沙樹一人に質問が集中していた。
「どうすればいい?」
「何を作ればいい?」
「どこへ予算を出せばいい?」
今は違う。
彼ら自身が調査する。
数字を集める。
仮説を立てる。
地域で試す。
失敗する。
修正する。
そして。
また報告する。
沙樹はその姿を見ながら思った。
自分が全部やる必要はない。
むしろ。
全部やってはいけない。
国は国の人間が考える。
町は町の人間が考える。
商人は商人が考える。
農民は農民が考える。
医師は医師が考える。
技術者は技術者が考える。
そのために必要なのは。
正しい答えを一人が持つことではない。
「考えられる仕組み」を作ることだった。
会議が終わった。
夕方。
沙樹は王都の通りを歩いていた。
以前より人が多い。
店も増えた。
子供たちの姿も多い。
道端にはごみ箱がある。
市場には手洗い場がある。
宿には衛生管理表が掲げられている。
飲食店には水質検査の記録がある。
荷車が行き交う。
新しい倉庫が建っている。
少し離れた場所では住宅の建設が始まっていた。
「……本当に変わったな」
沙樹は小さく呟いた。
だが。
その直後。
建設現場の前で、作業員が叫んだ。
「水道管が足りない!」
「え?」
「予定していた分が来ていない!」
「倉庫を確認しろ!」
「倉庫にはある!」
「じゃあ、なぜ届いてないんだ!」
沙樹は足を止めた。
少し離れた場所では。
学校の前に人が集まっている。
「来年は教室が足りません!」
「先生も足りません!」
市場では。
「小麦の注文が増えすぎている!」
「南部から追加で運べないか!」
宿では。
「部屋が空いていない!」
「新しく建てるしかない!」
そして。
街の水場では。
「この先、利用者が増えたら配水量が足りなくなるぞ」
声が次々に聞こえてくる。
沙樹は苦笑した。
「……増えたなぁ」
病気が減った。
人が死ななくなった。
人が働けるようになった。
子供が学校へ通えるようになった。
町が豊かになった。
そして人が増えた。
それは問題でもあった。
だがかつての問題とは違う。
「人が多すぎる」
ではない。
「人が生きられるようになったのだから、その人たちが暮らせる場所をどう作るか」
という問題だった。
沙樹は王都の空を見上げた。
そして、少し笑った。
「次は、人口じゃなくて……生活容量か」
国が大きくなった。
町が大きくなった。
人が増えた。
経済が膨らんだ。
ならば今度は
「どこまでなら、町は無理なく大きくなれるのか」
それを調べなければならない。
王国は今
病気を減らす段階から。
「増えた人間が、豊かに暮らし続けられる国を作る段階」
へと進もうとしていた。




