17話【決意】諦めない心
《 権能の解析を開始します…… 》
ギロチンの腹部にある、あの底知れぬ闇を覗かせる裂け目が、カッと大きく開いた。
そこから、色のない無の波動が闘技場全域に広がった。
(な……!? 身体が、……重い……ッ!!)
突如、さっきとは比較にならない、全身を数千倍の重力が襲ったような衝撃。
否、重力ではない。
細胞の一つ一つが、動くことを拒否している。心臓の鼓動が、思考の回路が、文字通り|《《》》面倒だ|《《》》と言わんばかりに停止へと向かおうとしていた。
《 真・ユニークスキル【怠惰の王】》
【権能:停滞の領域】
周囲のエネルギー、運動、思考のすべてを静止へと導く領域。領域内に存在する対象は、動こうとする意志そのものを削り取られ、最終的には分子運動すらも停止し、永遠の静寂へと固定される。
【権能:忘却の代償】
対象が使用したエネルギー(魔力・スタミナ)を、そのまま虚無へと置換する。攻撃すればするほど、その力は無に帰し、使用者は自分自身の行動によって枯渇し、自滅する。
【権能:永久の安息】
対象の生存本能を上書きし、完全なる休息(強制的な死)を与える。心停止、脳死、魂の消滅を、生物にとっての救済として定義し、抗う意志を持たない者を確実に塵へと還す。
「ア、……ガ……ッ」
ギロチンがすぐそばにいると言うのに、俺はその場で膝を折る。
あんなに激しく散っていた【迅雷纏装】の電光が、立ち消えるように消滅した。
魔力が、吸い取られるのではなく、最初から存在しなかったことにされていく。
(……魔力が……消えていく……? 違う、俺が自分で捨てているのか……?)
脳が、身体が、眠りたがっている。
「もういいじゃないか」「一人で疲れただろう」「ここで休めば、すべて救済される」
甘美な誘惑が、ギロチンの奏でる呪詛と共に意識を侵食していく。
ギロチンの中央に鎮座する骸骨の顔が、初めて俺を、ただの餌としてではなく処理すべき事象として捉えた。
無数の節くれだった腕が、ゆっくりと、だが回避不能の質量をもって俺に伸ばされる。
(動け……動け、動けよ……ッ!!)
ドゴォォォォォンッ!!!
回避が遅れた左肩に、巨大な腕の一撃が直撃した。
黒騎士の鎧がひしゃげ、内部の擬似神経が悲鳴を上げる。
俺の身体は錐揉みしながら回転し、砲弾のように壁まで吹き飛ばされ、深々と埋没した。
「……ゲホッ、……ガハッ……!!」
吐き出したのは、どす黒い汚泥のような魔力だった。
本来、俺が持っている【超再生組織+9】や【衝撃分散(軟体)+9】がほとんど発動していない。いや、身体が修復することを拒んでいるのだ。細胞の一つ一つが、傷を治すことさえ面倒だとボイコットしているかのように。
【真理の眼】の解析速度が目に見えて低下し、システムの警告音が遠く聞こえる。
(……ああ、……もう、いいかな……。凛さん、俺、頑張ったよね……)
おかしい。復讐を誓い、地獄の底から這い上がってきた俺が、こんな風に満たされた気持ちで最期を受け入れるはずがない。
だというのに、脳の奥底から甘い麻薬のような安寧が絶え間なく溢れ出し、俺の生存本能をドロドロとした諦念で塗りつぶしていく。
これは俺の意志じゃない。
【怠惰の王】の権能が、俺の魂の深層に|《《》》終わり|《《》》という名の偽りの救済を強制的に刻み込み、抗う心を根元から腐らせているのだ。
意識が遠のく。
壁に埋まったまま、力が抜けていく。
目の前には、こちらを嘲笑うようにゆっくりと近づいてくる、死の権化。
死が、これほどまでに安らかで、温かいものだなんて、思わなかった。
その時だった。
『――カイト。死ぬ気で生きろ。生き残る道は、最後まで諦めなかった奴の前にだけ現れる』
脳裏に、凛さんの声が響いた。
右目を奪われ、血を流しながらも、この化け物から生還した俺の叔母。
14歳のあの時、絶望のどん底にいた俺を、唯一見捨てなかった人の言葉。
彼女は弱かった俺を鍛えることで、最後まで俺の命を守ろうとしてくれていたんだ。
(……そうだ。俺は……まだ、何一つ返せてねえんだ……!!)
俺の心臓が、ドクンと大きく脈動した気がした。
【怠惰】に侵された心臓ではない。
【暴食の王】の根源にある、底知れぬ飢餓感。
すべてを喰らい尽くし、世界を腹に収めても満たされない、あの忌まわしくも愛おしい|《《》》飢え|《《》》だ。
(……ハ、……はは。……こんな状況でも腹が減ってるのかよ……)
俺は壁に埋まったまま、震える右腕を無理やり持ち上げた。
指先一本動かすのに、魂を削るような労力が必要だった。
だが、その瞳だけは、かつてないほどに爛々と輝いていた。
(怠惰……? 停滞だと……? 笑わせるな。俺の飢えは、そんなもので止められる程、やわじゃないぞ……!)
俺の深淵に潜む『蝿の王』が、空腹に耐えかねて咆哮を上げた。
【暴食の王】が、その怠惰の波動すらも、餌として認識し、内側から俺の理性を食い破り始める。
(こいつは……今までの敵とは格が違いすぎる。レベルとか、スキルの数とか、そんな次元じゃない。まともにやり合ってちゃ、一秒後には俺は物言わぬ躯にされる……。なら、やり方は一つだ)
ギロチンの腹部の巨大な裂け目の口が、俺を噛み砕こうと眼前に迫る。
死の臭気が鼻腔を突く。
その瞬間、俺は自分自身の存在を、あえて【暴食の王】へと完全に明け渡した。
(【情報掠奪】……全力開放……ッ!!)
《警告:対象の生命力が一定値を上回っています》
《無理に捕食すると、精神に甚大な悪影響が出る可能性があります。捕食しますか? [YES/NO]》
「ゴガアアアアアァ!!(うるせえッ!! YESだ、今すぐに食わせろッ!!)」
《警告:安全に捕食するには、対象をさらに弱体化させてください。失敗すれば、魂を汚染され……》
(――知るかよ。生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよ! 食うことで少しでも生き残れる可能性があるなら、俺はいつだって食う方を選ぶッ!!)
俺は壁から飛び出し、ギロチンの巨体に、自ら飛び込んだ。
捕食のための接触。
「ガ、アアアアアアアアアアアアッ!!!」
俺の全身から、銀色の流体金属が黒い触手となって爆発的に噴出した。
それはギロチンの腕に、肉塊に、そして中央の骸骨の顔に突き刺さり、その膨大な魔力を直接引きずり出し始めた。
(……食える。食えるぞッ!! 時間の巻き戻しが間に合わない速度で、……細胞ごと、その権能ごと、俺の中に流し込めッ!!)
ギロチンが、初めて恐怖に似た戦慄でその身を震わせた。
【忘却の代償】で俺の魔力を虚無に変えようとするが、俺はその虚無そのものを喰らおうと顎を広げる。
「ア、ギ、……アガガ……ッ!?」
ギロチンの腕が、俺に喰らわれた部分からボロボロと崩れ落ちていく。
ここで、俺の深淵に刻まれた最凶の権能が牙を剥いた。
```
《権能:情報掠奪により、対象の経験値を強制抽出します》
《対象【ギロチン・レクス】捕食した肉体・魔力を順次変換……》
《ステータス掠奪を開始 ―― 》
《対象のLvが低下:150 → 149 → 147…… 》
《個体名:カイトのLvが上昇:99 → 102 → 104…… 》
```
(……あいつの命が、俺の中に溶けてくる……!)
時間の巻き戻しが起きようとするが、俺の【情報掠奪】は、その戻るべき時間の情報さえも、自身の進化資源として強制的に変換し、腹に収めていく。
あいつがこれまで積み上げてきた死神としての格が、俺の飢餓を満たす最高のスパイスへと変わっていった。
喰らえば喰らうほど、俺の四肢に力が漲り、逆にギロチンの巨躯からはかつての威厳が剥がれ落ちていく。
土気色の肉は張りを失い、あれほど恐ろしかった【怠惰の王】の波動も、今や俺の胃袋を刺激する香りに過ぎない。
(……足りない。まだだ。お前のすべてを、その怠惰の権能ごと、俺の血肉に変えてやる……!)
俺のバイザーの奥で、数多の瞳が紅く燃え上がった。
Lv 99とLv 150。埋めようのないはずの差が、一歩、また一歩と、俺の食欲によって埋められていく。
だが、代償はあまりにも大きかった。
脳内には、ギロチンがこれまで屠ってきた数万の犠牲者の悲鳴、そして怠惰の王の呪いが、濁流となって流れ込んでくる。
(意識が……溶ける……。俺は、……俺はまだ消えるわけには行かない……!)
《警告:精神汚染度が 80% を超過しました》
《スキル【暴食の王】の暴走が始まります。――捕食を継続しますか?》
俺は朦朧とする意識の中で、ニヤリと笑った。
その笑みは、もはや人間のものではなく、深淵に住まう怪物のそれだった。
(……決まってんだろ。……|《《》》いただきます|《《》》の一択だ……ッ!!)
闘技場全体が、どす黒い光に包まれる。
起死回生の生体捕食。
絶望の淵で、怪物は本当の意味で目覚めようとしていた。
次は、俺がお前をボコボコにする番だ。




