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「この世界は、ずっと雨が降っているね。不思議なものだ……」
喫茶店からの帰り道、二人で雨が降る誰も居ない通りを歩いていると、彼女は妙なことを言う。
「南さんは、まるで違う世界を見てきたことを言うんだね……」
そういうと、彼女は頬を膨らませた。
「むぅ~。その、南さんっていう呼び方やめてくれるかな?私のことは、遠慮しないで下の名前で呼んでいいよ。杏佳って……」
「……いいのか?」
「躊躇されると、返ってこっちが恥ずかしい……でも、君なら特別に許してあげよう……」
彼女はにこっと笑った。出会った時から変わらない、それは心が温まりそうな笑顔。
「あのさ……、なんで杏佳さんは……」
「さんもいらないよ……」
「あぁ、はいはい……」
そう言われ、僕は若干めんどくさいな、と思いながら彼女に聞き返す。
「杏佳はさ、なんで空を泳ぐ鯨の話を僕にしたの?それに、初めて出会った時に、なんで僕の名前を知っていたの?」
目の前の彼女は、ふふんっと笑った。
「なんで知っていたのだと思う?」
「それは……、あ、そうか、浩平の奴だな。あいつが僕の名前と、昨日の話を君にしたんだ……」
「違うよ……」
「それじゃあ……、鳴瀬か?」
「それも外れ。そもそも私、その二人のことなんて、全然知らないし……」
「じゃあ、なんで……?」
僕が言うと、彼女はぐっと、傘の下に隠れる僕の顔を覗き込んだ。彼女の顔が正面に来て、僕の頬は熱くなる。
「私はね、ずっと前から、あなたのことを知っていたの……」
「どうして?」
「あぁ~。やっぱり忘れちゃったのか……。まぁ、それは仕方がないことだよね……」
忘れた?いったい何を僕は忘れたというのだろうか?
そう彼女に言われた時、急に頭が痛くなってきた。
その瞬間、突然に、雨は止んだ……。
それは、昨日と同じ……。
雨が止むと、杏佳は傘をそっと閉じて、空を見上げた。
「この世界の住人は、皆知らないんだ……。あなたたちはもともと、上の世界に住んでいたってことを……」
僕もそれにつられて、空を見上げた。昨日の出来事が正しかったらもうじき、空を覆いかぶさった雲はどこかに消えて無くなって、そこからどこまでも広がる、海が出現する。そのあとは……。
「そうか、皆忘れちゃうんだもんね……。地上のことも、そこを行き来する、鯨のことも」
彼女がそう言うと、突然、空の雲の中から何かの鳴き声が聞こえて来た。それは、昨日にはなかった、動物のような鳴き声だ。
ヒュウ―ンッ! ヒューウゥーンッ!
何かに呼びかけるような声。
それを、たぶん僕は、小さい頃、似たような声を聞いたことがあると思った。
頭がひどく痛い。何かが、記憶の中で引っかかっているような気がする
そして、夜空の雲が一斉に晴れた。その中から現れたのは、昨日と同じ海。
そこから泳いでこちらの世界にやって来たのは、両端の胸鰭と尻尾で中を自由に泳ぐ巨大な鯨。
杏佳は、僕の方を向いて言った。
「湊君。子供の頃のあの約束……、憶えている?」
そうして、彼女はニコッと微笑みながら
「迎えに、来たよ……」
とそう小さく言った……。
僕はそんな彼女の顔を見た瞬間、すべてを思い出す。
彼女と、初めて出会った、あの日のことを……。




