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結局、その後も南 杏佳からは何の伝言らしきものはなかった。
それは、今朝のあの事件が、本当に夢だったのかもしれないといったような何もなさ。ただ、僕が教室を一歩出ると、今まで話したこともないような生徒達が、野次馬のようによし寄せてくる。そして、彼女に対しての、あることないこと聞いてくるのだ。
もう、ここまで来ると、いちいち質問に受け答えするのが面倒になってしまう。
確かに、一方的に被害を受けているのは僕の方なのだが、仮にも今朝あんなことがあったのだ。僕はずっと、今日転校してきた彼女を、何らかの形で意識せざるをえなかった。
教室の前席に座る彼女の存在は、可憐でその仕草や、横顔、さらに言えば長い黒髪がふとなびく様を見て、心の中が一杯になる。
だが、そのたび思い出すのが、初めて彼女を間近で見た顔いっぱいに涙をにじませるそんな姿だ。。
はぁ~、と僕は、溜息が自然に漏れてしまう。
まるで、僕のだけの一人相撲だ。なんで僕がこんな、もやもやとした気持ちにならなくてはいけないのだろうか。恐らく、今日中にでも彼女に、あの時の真意を聞くべきだろう。時間が経つともっと話しづらくなる。
しかし、自分でも、こんなことを言うのもなんだが、僕も一高校生だ。そんな、調子で彼女のことを意識すればするほど、なんと声をかけて良いのかが分からない。
こんな時は、偶然を装って声をかけるべきだろうか……。それとも男らしく正々堂々と……。いや、だめだ。すべて話しかけた途端に、今まで練りに練ったことすべて飛んでしまう。
そんなこんなで気が付けば、終業のチャイムが流れる。生徒の皆は、授業もろくに終わってもいないのに、ぞろぞろと立ち上がり、帰宅や部活動へ行く準備を始める。
授業を行っていた先生なんかは、「まだ終わりじゃないぞ」といった社交辞令をしてさっさと授業は終わらせる。それも、先生の威厳はそんなものでいいのかと思うほどあっさりと。
教室の皆の注意が逸れた今がチャンス。僕はそう思って、突然立ち上がって南杏佳のもとへ駆け寄ろうとしたが、立ち上がった生徒に道を阻まれ、気が付いたら彼女はもうそこには居なかった。
それを見て僕は、これ以上ない彼女に話しかけるチャンスを逃したのだと気が付き、崩れるように落ち込んだ。
もういいや……。今日の出来事はなかったことにしよう……。僕はそう思い、大人しく自分の席に戻り、席横にかけておいた鞄の中に、持って帰る荷物を詰めて、そのまま教室を出る。
ただ、そう思っている時にそんなチャンスとは突然めぐってくるもので、僕が一人生徒玄関に向かうと、そこには一人だけ、制服の違う女の子が、雨の降る空を見上げながら、玄関のガラス壁にもたれかかり、誰かを待っている。
その女子生徒は紛れもない、南杏佳だった。
彼女は、僕の存在に気が付くと、ニコッと微笑みながら、こちらをまっすぐ向き直り、名前を呼んでこう言った。
「君はさ、空を自由に泳ぐ鯨の存在を、信じる?」




