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次の日の朝、僕は少しだけ早い時間に目を覚ました。窓を開けると今日も相変わらず雨が降っている。それを見て僕は改めて思う。やはり、昨日の出来事は夢だったのかと……。
頭を搔きながら、壁にかかっていた制服に着替えて、リビングルームに入ると、出勤前の父が僕の名前を呼んだ。
「なんだよ、湊。今日は早かったな……」
マーガリンが付いた食パンをくわえ、スーツのネクタイを締める父を、ほとんど気にも留めず、僕はゴミ箱の中の袋の中を漁った。
「朝早く起きたかと思ったら、ゴミ箱を漁ってどうかしたのか?とうとう頭でもおかしくなったのか?」
そんな父の問いかけに、僕こと、卯月湊は答えることなく、むしろ父に聞き返す。
「なぁ、父さん。昨日僕がコンビニで買って来た漫画知らね?」
「あぁー。雨でびしょびしょに濡れたって言うあれかー。いや知らねーよ。お前の部屋じゃね?」
あぁそうか、と思い直し、僕は自分の部屋へと再び戻り、昨日ごみ箱にそのまま突っ込んだ、漫画雑誌が入ったビニール袋を確認した。
「あった!」
僕はつい声をあげてしまった。そうだ。これがここにあったという事はやはり、僕は昨日コンビニに行って、漫画雑誌を買ったということになる。
そんな、朝からばたばたとしていた、僕の姿を見た父は、部屋の扉から、首だけを覗かせて、眉をゆがめた鬱陶しそうな顔で言う。
「朝から大きな声出しやがって、うるせーなー。何をそんなに慌ててるんだよ?」
機嫌の悪そうな父を尻目に、僕は大発見でもしたような無邪気な子供みたいな表情で
「なぁ、父さん。昨日空を鯨が泳いでいなかったか?」
とそう聞いた。まぁ、父からの反応はほとんど予想通りで
「馬鹿かお前は……」
だそうだ。
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この街では、雨が止んだことはない。それは、僕が産まれてから物心つくまでずっとだ。
こんなん調子で雨が降り続ければ、大洪水でも起きて、建物が水没でもしてしまうんではないかといつも思っているのだが、そんなこともなく、こうやって毎日の生活に支障もない。神様が創ったこの世界はむしろ、良くできているなと心の底から感心するばかりである。
こんなに雨が降るのなら、外出する時に濡れたくない僕達人間は、傘やレインコートが必須になってくる。
前に友人兼、僕の腐れ縁兼、親友の大男。佐藤浩平に、「こんなに雨が降るのなら、傘やレインコートを作っている会社は大儲けだよな」と言ったことがある。
ただ、いつも不愛想にして、死んだ魚の目をしている浩平は、自分の知識を自慢する様子も無く、こう返して来る。
「傘やレインコートを作っている会社も、初めは良かったらしいけど、こう毎日が雨だと、皆が愛用の物をすでに買ってしまってるから、今は作っても大した売れないらしい」
「さいですか……」
そう言う浩平に返した一連の会話を、ふと雨が降る空を傘の間から見上げて思い返してみる。
そんな浩平に学校に行く途中、立ち寄ったコンビニで出会ったのは、偶然というやつなのだろう。僕は昨日、駄目にしてしまった漫画雑誌を買い直していた。
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「と、いう事があったんだ……」
昨日、雨が止んだことや、空を泳ぐ鯨の話全般を、隣で傘を差して歩く浩平してみたが、奴の眉毛はピクリとも動かない。
「ふうん……で?」
「で?ってなんだよ……。こっちはわざわざ買った漫画が、一冊犠牲になったんだぞ?高校生のお小遣い事情なめるな!」
「いや、お前の財布の中身なんて興味ないし、知らねーし……。あぁー、だからお前さっき、コンビニに居たのか……」
「そうだよ!悪いか?」
「いや、悪くはないけど、お前があんな時間にコンビニにいるから、なんかやばい本でも買っているのかと思って、友達やめようとしたぐらいかな……」
「お前が友達やめる前に、こっちから縁を切ってやるよ!じゃなくて、それが昨日俺が体験した不幸……ではなく、不思議な体験の感想なのか?」
そう、僕が必死で言うと、浩平は「うーん」と少しだけうなった。
「感想って言われてもなー。大体それ、昨日お前が見た夢の話だろ?感想って言われても何もねーよ。むしろ、そんなことを朝から言われて、大声出して笑ったりしない俺を、褒めてほしい所だ……」
「いや、本当に雨が止んで、空の上に海の海面が現れたんだって。そこから鯨が現れて、こっちの世界の空を自由に泳いでいたんだって!」
そう言う僕を、浩平は冷静な表情で「まあまあ」と言いながら、さらに言葉を続けた。
「お前が昨日、コンビニに行ったっていう時間、俺も起きてて普通に課題やってたし。その時、窓を開けていたから、雨が止んだんだったら普通気が付くし……」
「例えばその時間、お前がうとうとしてて、決定的な瞬間を逃してしまっただけじゃないのか?」
「いや、そんなことはないと思うぞ?確かその時間帯にさ、なぜかは忘れたけど、たしかこうやって窓を開けて空を見たんだ。俺の記憶が正しかったら、昨日もずっとこんな風に雨が降っていたと思うぞ?」
そう浩平が言うと、一瞬だけ立ち止まって白い雲から降ってくる雨を、ビニール傘越しに見る。その様子に立ち止まった僕も、同じように朝に降る雨と、上を覆う真っ白な雲を見上げる。僕はふと、昨日の幻想的な海に泳ぐ、無数の魚と空を自由に泳いでいた鯨を思い出していた。あれは、本当に浩平が言うような夢の世界だったのだろうかとも考えてみる。
「だいたいさ、昔話や童話に出てくる、空は青空で、光り輝く太陽がそこにあった……なんて描写があるけど、そんなの、産まれてからずっと見たことなんかないからさ、そんなもの急に信じる事なんてできないさ。
ましてや、この覆いかぶさっている雲を取り払ってしまえば、海が広がっているなんて突然言われても信じることが出来るか?」
そう浩平に言われて、僕はぐーのねも出なかった。確かにその通りである。
例えば、いきなり宇宙人が現れたという奴がいたとしよう。そいつは自分がいくら本当のことを言っていると言い張ったとしても、僕はその話を聞いて、そいつを指さして笑うだろう。宇宙人なんていないのだと……。
ただ、ここにいる浩平と言う男は、僕のいつ馬鹿にされても仕方がないこんな会話に、真剣に向き合ってくれているのだ。
そう考えると、こいつは実は今まで思っていたよりもいい奴だったのかもしれないと思い返した。
「まぁ、こうして肌で直接感じることのできる、昼と夜の概念は信じるけどさ、お前の話はさすがに、馬鹿だと思っているよ」
その言葉に、僕は前言を撤回する。やっぱりこいつは、僕のことをずっと馬鹿だと思って話を聞いていたという様子だった。
「お前ってやっぱし、ひどい奴だよな……」
僕がそう、ぼそりとつぶやくと、浩平は鼻で笑い飛ばした。
「もしお前が、俺を疑うって言うなら、ここに居る生徒全員に聞いて回ればいい。昨日、空飛ぶ鯨を見たかってな。そしたら、今日だけでお前は学校一の人気ものだ」
僕は苦笑いしながら、浩平の言ったことに答える。
「人気者って言っても、ただの変人になり下がるだけだろ?そんなのぜってーやだ」
浩平は「まぁな……」と言って小さく笑った。
そんな会話を浩平としながら、いつもの雨降る学校へ行く道を歩いていると、ふと浩平が何かを思いついたかのように僕にこう言う。
「そうだ、もしお前が、昨日の一瞬だけでも雨が止んだのを、俺以外の人に確かめたいって言うなら、もう一人だけお手頃な奴がいるぞ?」
そう言う浩平は、なぜか策士のように見えるのは気のせいだろうか。
「誰だよ?そんな変態は?」
僕がそう浩平に言うと、笑って答えた。
「鳴瀬恵 ……」
「あぁーなるほどな……。って鳴瀬は変態なんかじゃないぞ?」
「変態はきっとお前だよ。湊」
「は?」
「はいはい、お前ってほんと馬鹿だよな……」
最後の浩平の言葉に、僕は怒ろうとしたがやめておいた。
鳴瀬か……。なぜ浩平から鳴瀬の名前が出てきたのかは分からないが、確かにあいつなら、僕の話を聞いても、馬鹿になんかしたりしないだろう。




