8.episode:準備中のこと
勇者様ご一行が、とうとう魔王を倒したそうな。
こんな田舎にも、どこからか風の便りは届くものでして。
王都などでは今、物凄い騒ぎになっているそうです。
まあ、ここら辺には魔物なんてついぞ現れたことがないし、危機感が薄ければ、さほど喜びを感じることもありませんけど……。
それでも明日、国中を巡っている凱旋パレードがこの辺境の小さな町にも訪れるということで、町中が浮き足立った空気に満ちていました。
噂の勇者様を一目でも見られるかもしれないということで、ちょっとしたお祭り気分です。
さらに、パレードを追って、たくさんの観光客の移動も見込まれていて、各宿泊施設や飲食店は気合が入っております。もちろん、私だって同じこと。
予想される売上計算を終えると、頰が緩むのを抑え切れませんでした。
「ふふふ……明日はおそらく、10年に1度レベルの繁盛日……! 待っていなさい、大黒字! 浮かれた王都の旅行者にめいっぱい食らわせてさしあげますわ! せいぜい“旅行のついで”気分で我が店に足を踏み入れたことを泣いて後悔するのね……!」
あまりの美味しさに泣かせてさしあげましょう。あぁ、浮かれた気分でうっかり私のお菓子を食べて、泣きながら感激する人々が累々と……私ってば罪な女。
固定客増加、クチコミがお客様を集めて、いつかは店舗拡大、従業員も雇っちゃったりして……うふふ野望が広がります。
「よしっ、そうと決まれば、早速仕込みに取り掛からなくちゃ……!」
現在、午後7時。営業が終わらなければ明日の準備ができなかったので、もうこんな時間になってしまいました。
明日は出欠大サービスです。いつもの3倍のメニューを用意します。
とは言っても、種類を3倍に増やすわけではありません。
単品で勝負するのです。
そのメインメニューがこちら。
ふんわり分厚いパンケーキ。
優しい甘さは、どこか懐かしい味わい。
でもパンケーキはあたたかい内に召し上がって頂きたいので、注文を頂いてから焼くことになっています。
勝負はそこですね……どれだけ手早くパンケーキを焼き、それをお客様に届けられるか。腕が鳴ります。ぺきぽき。
なので今日はトッピングを用意することにします。
まずは、アイスクリーム各種。定番のバニラに苺にチョコは大きめの容器に、他のレモン、キャラメル、バナナ、カフェオレ、などなどの変わり種は少し小さめの容器に。冷凍庫はみるみる内にカラフルに彩られました。
次に、ジャム各種。苺、オレンジ、リンゴ、アプリコット、ブルーベリー……すべてのコンロと鍋がフル稼働です。一時も気を抜けません。
そう、このアイスとジャム、そしてソースで味のバリエーションを増やそうという作戦です。
我ながら小賢しい案ですが、効率のことも考えなきゃいけませんからね。
全ての作業が終わったのは、深夜1時を回った頃でした。明日は忙しくなるだろうから、早く休まなくちゃ。
店の2階は私の居住スペースとなっています。お店の明かりを消して、そちらに引っ込み、エプロンを外しかけたところ……。
――ガタッ
1階から、そんな物音がした、ような?
気のせいかしらと思いながらも、体が強張りました。耳を澄ませていると……また、ガタガタバタバタと、何やらやかましい音が、確かに聞こえて来たのです。
……誰かいる?
信じたくありませんが、そうとしか考えられません。そしてこんな時間の来訪者なんて、正規の用事でないことは明らかです。
……泥棒、とか。
「えっいやっどどど泥棒なんて……! どうしましょう……。と、とりあえず自治団に連絡を……あぁっ、電話はお店にあるのでした……!」
その単語を呟いた途端、一気に現実味が増しました。泥棒。盗賊。窃盗犯。そんな方がすぐ階下にいるとわかり、心臓がバクバクと音を立てます。
そうこうしている内にも、依然物音は聞こえて来ていました。
ほ、本当にどうしよう……助けを求めようにも、外に出れないし、連絡手段もないし……。
…………行きますか? 私自身が……。
いやいやいや、それこそ現実的ではないでしょう。自慢じゃありませんが、格闘術はおろかろくな運動すらできないのです。お店の買い出しくらいしか外出機会の無いカフェのマスターを過信しないで頂きたい。
でも……。
こうしてモタモタしている内に、お店が荒らされているかもしれないと思うと……。
それに、カフェの売り上げなどは微々たるものですが、魔王さんの募金は結構な額になっています。頑丈な箱に入れてカウンターに取り付けてあるから油断していたけど……力技で盗まれてもおかしくありません。だって相手は泥棒なのです。
「……行かなきゃ、ですよね……」
ええい、もう腹を括りましょう。
捕縛なんて無理としても、魔王さんの募金だけは守らねば……!
カフェのマスターを舐めないで頂きたい。お客様のためなら、できないことすら可能にする、それがマスターなのです!
私は物音を立てないように、神経を研ぎ澄ませて移動しました。抜き足、差し足、忍び足。そっと階段を降り切ります。
ふぅ……さて、ここからどうしよう……。
扉を1枚隔てた向こう側には、泥棒がいます。肌がピリピリと泡立ちました。
いえいえ、迷ってる暇などありません!
1度、2度、深呼吸を繰り返してから。私はそうっと、店へと繋がる扉を開けたのです。
「だっ、誰ですか……?」
声が震えて裏返りました。まぬけな質問だと言わないで欲しいです。必死なんですから。
私が声をかけた瞬間、それまでの物音がピタリとやみました。明かりのない暗がりの中、キッチンになにかの影が動きます。
うぅ、今更だけど、怖い……! 逆上されて襲われたらどうしよう……ううん、お店と魔王さんのためです、勇気を出さなくちゃ……!
「ど、泥棒でしたら、どうぞ出て行って下さい……! うちには何もありません、何も盗らなければ自治団には秘密にしておきますから……」
冷たい指先を握り込み、なんとか言い切ります。するとキッチンにいる影は、再び動き出しました。
…………あれ? 暗くてよくわからないけど……こっちに向かって来てませんかね……?
「――え、いやっ、ちょっ、待っ――きゃー!?」
慌てふためいた私は、咄嗟にしゃがみ込みました。
するとその頭上を何かが薙いだのが伝わります。物凄い風圧。……あと少しでも動きが遅ければ、今頃体と頭がお別れを……ひ、考えなきゃ良かった……。
「おおおっ落ち着いて下さい! わたっ、私は争うつもりは……!」
一応、馬鹿みたいに説得を試みますが、相手は聞く耳を持ってくれないようです。グルるるる、と低い唸り声を上げ――
うん?
唸り声?
なにかおかしいです。ようやくそれに気が付いた私は、カーテンから透けるわずかな月明かりの中、目を凝らします。
そして――見てしまったのです。
土に汚れた灰色の体毛に覆われた体、ギラギラと光る濁った目、ナイフのように尖った黄ばんだ牙――
「ま……魔物っ……!?」
ウルフ型、しかもかなりの大型です。大人の男の人より更に一回りも大きいのです。
どうしてこんなところに魔物が……これまで一度だって、この町に魔物が出たことなんかなかったのに!
一層の混乱に包まれますが、相手は当然、思考の暇など与えてくれません。また、丸太のように太い前足が、私の頭部目がけて振り下ろされます。
「ひゃあー!?」
危機一髪! 奇跡的にそれをかわせましたが……すぐさま第2撃が襲ってきます。これはなかなかヤバイのではございませんでしょうか。
「な、なにか防御アイテムは……!?」
ってカフェにそんなものあるわけがないです。せいぜい……フライパンとか? 包丁とか? 防御道具にお鍋とか?
いやいや、仮にも商売道具を、盾代わりに使うなんて……あぁそれにお鍋は今はジャムに使ってましたし……ってジャムが無いですよ!?
私はキッチンの床に投げ捨てられたからっぽの鍋を見て、息を呑みました。
「あなた……食べました?」
「ぎゃるるるゥ」
「食べたんですね……」
何かを食い荒らした後のように、口の周りに赤いものがこびり付いて戦慄していましたが……苺ジャムだったようです。
……笑えません。死活問題。
「もー、なんてことしてくれるんですかー! 明日の大事な商品なのに……!」
「がるる」
低い唸り声は、心なしか、「美味しかったよ!」とでも言っているかのように満足気です。ふふふ、魔物まで虜にしてしまう味わいとは、我ながら恐ろしい……って、そうじゃないそうじゃない。
「い、今から作り直して間に合うかしら……いやその前に材料が……!」
「ぐぎゃるルゥ!」
「きゃー!?」
そうだ、こっちの危機も去ってませんでした!!
ウルフ型魔物は、狭い店内をたどたどしく逃げ回る私をあざ笑うかのように、執拗に牙を向こうとします。すんでの所で致命傷を負わせないあたり、弄ばれているとしか思えません。
「ど、どうしましょう……! な、なにか無いかな、なにか……!」
壁際まで追い詰められ窮地に立たされた私は、某国民的アニメの青い猫型ロボットよろしく、エプロンのポケットの中を漁ります。
飴玉、スプーン、ボールペン、タオルハンカチ、 メモ帳、キーホルダー、ポケットティッシュ、スティックシュガー……それこそ四次元に通じていそうなくらい色々と詰め込まれていましたが、武器になりそうなものなんて当然入ってません。
あら、いつか失くしたと思っていた爪切りがこんな所に……。
「って爪切りとか今はどうでも良いのです! なんでいつもいつも新しいものを買った直後に出て来るんですか!」
勢いに任せて、プラスチックのそれをカツーンッと床に叩きつけると……。
ひらり、と、黒いカードがポケットから零れ落ちたのです。
「これは……たしか、あの甘党で眼鏡のお客様から頂いた……?」
……そういえば、困った時に云々……などと仰っていたような?
「ガルルッ!!」
「ひえっ!?」
考えてる暇はありません!
ほんの一瞬油断をすれば、魔物の爪が右の二の腕を掠りました。致命的な傷ではないものの、相手が本当に手を出してきたということは……つまり、お遊びはこれまでだ、ということなのでしょう。
「って、このカードどうやって使えば……!」
「グガァア!」
「きゃー!?」
あぁあっもう絶体絶命です……!
目前に迫った、奈落のように黒々とした魔物の喉に、カードを握り締め瞳をギュッと閉じます。死の間際に思ったことは——
せめて、あの人に……魔王さんに、もう少し何かしてあげられたら良かったのに。
その瞬間。
瞼の裏を、白い光が撫でました。
————ぐぎゃあ!
閉じた瞼の向こうから聞こえて来たのは、ひしゃげた魔物の鳴き声。
目を開けると、店の床に広がっていたのは、淡く光る幾何学模様——魔法陣というのでしょうか。
そして、その円の中心に佇んでいたのは、全身黒尽くめの長身の男性。
その景色はきっと驚愕するべきものだったのでしょう。けれど、私は心のどこかでわかっていたのかもしれません……ううん、期待していたと言った方が良いのでしょうか。
だって……いつの間にかどこからともなく現れた、その大きな背中に、確かに安堵していたのですから。
何が起きたのかなんてまるでわかりません。でも、魔物はキャンキャンと鳴いて店の外に逃げ出し、目の前には魔王さんがいてくれる。それだけわかれば充分なのでした。
——そんなことより、魔王さんの異常が気がかりで。振り返ることもなく、ただ立ち竦んでいる彼は、肩で荒い息を繰り返していました。そんな姿は見たことがなくて、言いようのない不安に駆られます。
「魔王さん……? あの……大丈夫で————」
ですか、と言い終わる前に。
彼は無言のまま、冷たい床の上に倒れ込んでしまいました。
「ま、魔王さんッ!!」
駆け寄った私が半身を抱え上げると、生温い真っ黒な血液が、ドロリと手を伝ったのです…………。