春という名の売り物
八百屋で野菜を売るように、
魚屋で魚を売るように、
娼館の女は時間を売る。
そして、
その時間は『春』と呼ばれる。
暖かい眠たくなるような甘美な時間。
世界には、
春という名の売り物が存在する。
……
私は、
ドブネズミと言われた。
ドブ色の粗末な服を着て、
残飯を漁り、人の食べ物を盗む。
私は、
ドブネズミと言われた。
捕まれば。
ただ殴られた。
誰も助けてくれなかった。
ある日、
私の前に、
女が現れた。
彼女は私を拾った。
私は、
奴隷にされる。
そう思った。
奴隷にされるぐらいなら、
噛みついて逃げてやれと思ったが、
お腹が空きすぎて、
噛む力すらなかった。
私はドブネズミと呼ばれる前、
親という者がいた。
男の親も女の親も、
戦争でどこかに行ってしまった。
近所のおばさんは、
「二人は星になってしまったのよ。あんたの事を見守ってくれているから、強く生きなさい」
そう言った。
私は思った。
見守らなくて良いから、パンをくれと。
あの日以来。
私は夜空の星を見ては言った。
「見守っているなら、パンをくれ」
と……。
私のような子は、
孤児というらしい。
私と同じような恰好をした子から聞いた。
「孤児は、
孤児院で引き取られるか。
奴隷に。
もしくは、
路上で野垂れ死にだ」
たまにパンをくれる人がいた。
堅い堅いカビかけのパンだ。
うれしかった。
盗んだパンじゃないから、
殴られる事はない。
追いかけられることもない。
うれしかった。
そして……、
私を拾った女が怒鳴っている。
「もう何度言ったらわかるんだい。
下着は毎日洗うんだよ。
ちゃんと出しな」
「前はずっと履きっぱなしだった」
「それは路上で生活してた頃だろ。
今は屋根のある所で生活してるんだ。
さっさと洗いたての下着に替えな」
「嫌だ。勿体ない」
「あのね。女は清潔にしておかないと駄目なんだよ。いい女になりたくないのかい?」
「いい女ってどんな女?」
「私のような女さ」
「怒鳴ってばっかりいる女の事」
「そうじゃないよ。たしかに今は怒鳴っているけど。あんたの事を思って言ってるんだ」
「大人はいつも言う。
あんたの為を思ってと。
パンを盗んだ時も、お前の事を思って、殴ってる。
そう言って顔は嬉しそうにしていた」
私がそう言うと、
女は悲しそうな顔をして、
私を抱きしめた。
女の大きな胸が息苦しい。
身体がひくひくしている。
「もう苦しい」
私は身体を跳ね除ける。
女は泣いていた。
なんで泣いているのかわからない。
さっき、
あんなにパンを食っていたのに。
……
私は、
女に拾われた日から、
毎日パンが食えるようになった。
でも……、
腹いっぱいは、食べさせてもらえない。
それが、とても憎らしい。
いつだったか、こっそりパンを盗もうとすると、
「駄目よ。それ以上食べたら、体形が崩れるわよ」
そう怒鳴られた。
「だってお腹が空くんだもん」
そう言うと、
「だから、いつもゆっくりと噛んで食べなさいと言ってるでしょ」
そう笑われた。
女は、
娼館というのをやっているらしい。
春を売る仕事だと言っていた。
私は春夏秋冬という季節があるのは、
知っていたが、
売り物だとは知らなかった。
「じゃあ夏はどこに売ってるの?」
そう聞くと、
「夏も秋も冬もどこにも売ってはしない。春だけが売り物なのさ」
そう言われた。
私にはわけがわからなかった。
「なんで春だけが売り物なの?」
「暑い暑い夏を買いたいかい?」
「いらない」
「じゃあ寂しい気持ちになる秋を買いたいかい?」
「いらない」
「じゃあ寒い寒い凍える冬を買いたいかい?」
「いらない」
私はそう答えた。
季節の中で、
大事なお金を支払ってでも手に入れたい季節は、
春だけなのだと私は知った。
……
「私は奴隷なのか?」
私は尋ねた。
なんで、そんな事を聞いたのかわからない。
ただ自分の立場を知っておきたかったのだろう。
早めに絶望する為に……。
「いや奴隷じゃないよ」
女は言った。
「じゃあペットみたいなもんか?」
「ペット……」
少し女は考えた。
「ペットでもないね」
「じゃあ何なんだ?」
「あんた名前はあるのかい?」
「ドブネズミって言われてた」
「昔のあんたは……、
たしかにドブネズミみたいだったね。
名前はなかったのかい?」
「あったけど、飼い主がいなくなった」
「飼い主?育ててくれた人かい」
「男と女。親というらしい……、いや今は星。でも前は人だったと思う」
「その時はなんて言われていた?」
「言いたくない」
「なぜ?」
「わからない。言いたくない」
私はそう言った。
でも本当はわかっていた。
同じ名前で呼ばれると、
この女まで星になってしまうと、
そう思えたからだ。
パンがなくなるのは、
嫌だ。
「そうか……、私はソレアという名前だ。あんた私が名前をつけてもいいかい?」
「うん」
「じゃあシルト。あんたはシルトにしよう」
「シルト。わかった」
「じゃあシルト。あんたは今日から私の娘だ」
ソレアはそう言った。
「娘?」
「そうだよ。シルトと私は家族になるんだ」
そう言い、
ソレアは私を抱きしめた。
「よかった」
そう私が呟くと、
「ありがとう。私を親にしてくれるんだね」
ソレアは泣いた。
「うん」
私はそう答えた。
でも、
私がよかったと答えたのは、
これで、
しばらくパンが食えると思ったからだった。
……
私はある日、
娼館の女たちに紹介された。
「はいはい。あんたたち、私の娘を紹介するよ。シルトだ。ほらシルト挨拶しな」
「シルトです。よろしくお願いします」
私は言った。
皆私の事を見て、ニヤニヤ笑った。
今まで見た大人たちの表情とは違う表情だった。
「こっちからミカゲ、コクヨウ、パール、フォノ、ペグマ、シェールだよ。ゆっくりで良いから覚えな」
ソレアは言った。
「シルトはどこから来たの?」
ミカゲは尋ねた。
「どこから……、路上」
私は答えた。
「そうなの……、大変だったわね」
ミカゲはしゃがみ込み私と目線を合わせる。
言っている意味が分からなかった。
「そんなに大変じゃなかった。ゴミ箱を漁ったら、パンはあるし、たまにパンをくれる人もいる。殴られるのを我慢すれば、盗むことだってできる」
私はそう答えた。
ミカゲは涙を浮かべて、私を抱きしめる。
「シルトは何が好き?」
そう言った。
「パン」
「他には?」
「ソレアの作ったスープも美味しかった」
「他には?」
「知らない」
「そう……」
ミカゲの身体が震えていた。
ソレアも、ミカゲも、私を抱きしめ、なぜ泣くのだろう。
不思議だった。
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