第2話「无音(むおん)の烙印」
王都アルモニアは、灰色の空を切り裂くようにそびえ立つ尖塔と、幾重にも連なる石造りの建築群によって形成されていた。
乗り合い馬車から降り立ったエリオは、冷たい石畳を踏みしめながら巨大な街の威容を見上げる。
荷馬車が行き交い、着飾った貴族たちや足早に歩く商人たちのざわめきが、高い石壁に反響して渦を巻いている。
かつてフォンテーヌ領として栄えていた頃の記憶がかすかに蘇るが、今や自分の着ている使い古されたコートは、この煌びやかな街の風景からすっかり浮いていた。
すれ違う人々が、エリオの身なりを見てあからさまに顔をしかめ、避けるように道を譲っていく。
その冷たい視線を肌で感じながらも、エリオの内心は驚くほど平穏だった。
『王都の情景描写としては百点満点。冷たい秩序と、貧富の差を視覚的に叩きつけてくる感じが良いね』
寒風に髪を揺らされながら、目的の場所へと足を進める。
聖庁調律院の本拠地である王都大聖堂は、街の中心に位置していた。
真っ白な大理石で組まれた外壁は、冬の弱い日差しを受けて冷ややかに輝いている。
巨大な両開きの扉をくぐると、そこには外部のざわめきが一切届かない、冷気に満ちた静寂の空間が広がっていた。
高い天井には緻密な彫刻が施され、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光の帯が、磨き上げられた床に落ちている。
すでに測定を待つ同年代の若者たちが、長い列を作って身をすくめていた。
エリオもその列の最後尾に並び、順番を待つ。
儀式を執り行うのは、調律院の白と金の法衣をまとった査定官たちだ。
広間の中心に置かれた台座の上には、澄んだ青色を湛える巨大な共鳴晶が鎮座している。
対象者がその結晶に触れると、個人の持つ魔力の質が音として聴き取られ、空間全体に響き渡る仕組みだった。
澄んだ高音が響けば上音、やや濁った音が響けば中音や下音として判定される。
「次、前へ」
事務的な声に呼ばれ、一人の少年が進み出た。
彼が震える手で共鳴晶に触れた瞬間、鈍く重い和音が空間に響き渡る。
「……位階、下音。労働階級への登録を許可する」
少年は肩を落とし、逃げるように広間から去っていった。
続く少女が震える手で結晶に触れると、虫の羽音のようなかすかな音しか鳴らない。
「位階、微音。平民層への登録を許可する」
無機質な宣告を受け、少女はその場に泣き崩れた。
才能ではなく、ただ不可視の「音」という基準だけで、これから先の人生のすべてが決定されていく。
『残酷なシステム。これで社会が回ってるんだから、狂ってるよ』
エリオは冷たい観察者の視点で、次々と切り捨てられていく若者たちの姿を分析していた。
やがて、自分の順番が巡ってくる。
「次。名を名乗れ」
「エリオ・フォンテーヌ」
その名を口にした瞬間、広間の空気が一変した。
査定官たちの間にひそやかなさざ波が広がり、列に並ぶ若者たちが一斉にエリオに視線を向ける。
没落したとはいえ、大罪人とされたフォンテーヌ家の名前は、王都において最悪の忌み名として知れ渡っていた。
査定官たちの奥から、一人の男が進み出てきた。
銀色の糸で刺繍が施された上位の法衣をまとい、冷酷な光を宿した細い目を持つ男。
調律院の上級査定官、ダリウス・コルバン。
ヴァレンティア公爵の腹心として、実質的に今日の測定を取り仕切る人物だった。
「フォンテーヌの子息か。よくぞ逃げ隠れせず、この神聖な場に足を運んだものだ」
ダリウスの言葉には、隠しきれない嘲りを含んだ棘があった。
大聖堂の高い天井に、彼の声が無機質に反響する。
「王国の臣民として、当然の義務を果たしに来たまでです」
「ほう。そのやせ細った体で、どのような音を鳴らすか見せてもらおうか。さあ、共鳴晶に触れるがいい」
エリオは静かに台座へと歩み寄った。
青く透き通る結晶体。
冷たい石の表面に、ゆっくりと右手の手のひらを押し当てる。
全神経を集中させ、自分の中にあるはずの何かを探り当てようとした。
一秒。
二秒。
十秒が経過しても、共鳴晶はまったくの沈黙を保っていた。
かすかな振動も、光のゆらぎも、どんなに耳を澄ましても音一つ鳴らない。
無音の静寂。
それは、存在そのものを否定するような恐ろしい沈黙だった。
広間の中が水を打ったように静まり返り、やがてざわめきが潮の満ち引きのように広がっていく。
「何も、鳴らない……?」
「おい、本当に無音だぞ」
「没落貴族の血脈は、とうとう枯れ果てたか」
嘲笑と軽蔑の混じった囁き声が、エリオの鼓膜を打ち据える。
ダリウスは満足そうに口元を歪め、冷然とした声で宣告を下した。
「位階、无音。フォンテーヌ家の血脈も、ここまで鳴らなくなったか。魔力の欠片すら持たぬ者に、聖庁が与える慈悲はない。早々に立ち去れ、无音の者よ」
それは実質的な死の宣告だった。
无音の烙印を押された者は、まともな職に就くことも、社会的な信用を得ることもできない。
しかし、大聖堂の冷たい床を見つめながら手を下ろしたエリオの内心は、奇妙なほど凪いでいた。
『侮辱されてるのに、不思議と冷静だ。……三十八年も生きた大人の精神が入ってるんだから当たり前か。それにこの无音判定、物語の序盤の展開としてはむしろ美味しい。何も持たない最弱が、這い上がるための完璧なセットアップ』
ゆっくりと振り返り、自分を嘲笑う人々を一瞥もせずに大聖堂の扉へ向かって歩き出す。
『問題は、この世界に私を助けてくれるチート能力があるかどうか、だけど』
背中に突き刺さる無数の視線を無視して、エリオは冬の空の下へと踏み出した。
◆ ◆ ◆
夜の帳が下りたフォンテーヌ領は、深い暗闇に沈んでいた。
王都での出来事を終え、屋敷に戻ってきたエリオは、冷え切った体を休める間もなく父の寝室へと向かった。
小さな燭台の炎が、部屋の壁に揺れる影を落としている。
ベッドの上で、エルヴァンは浅い息を繰り返していた。
エリオが戻ってきた気配に気づき、わずかに目を開ける。
「……戻ったか、エリオ。結果はどうだった」
「父上。僕は……」
エリオは言葉を切り、ベッドのそばに座り込んだ。
嘘をつくことはできない。
この世界の揺るぎない価値基準である位階。
「无音、でした」
その言葉を聞いた瞬間、エルヴァンの目に深い絶望の色が広がった。
しわの刻まれた顔が苦痛にゆがみ、かすれた息が漏れる。
「そうか……お前まで、奪われるのか。私に力がないばかりに、お前の未来まで……」
「父上のせいではありません。これは僕の……」
エリオは父をなだめようと、無意識のうちにその冷え切った痩せた手を両手で強く握りしめた。
その瞬間だった。
脳内を、強烈な電流が駆け抜けた。
『――――っ!?』
エリオの眼の奥で、何かが弾ける感覚があった。
触れている父の手のひらから、淡い金色の光の粒が音符のように立ち昇るのが見えた。
それと同時に、無音の静寂の世界に、低く、穏やかで、しかし確かな力強さを持った旋律が響き始めた。
チェロの重厚な響きに似た、複雑に絡み合う和音。
それは大聖堂の共鳴晶が鳴らしたような単調な音ではない。
人の心を包み込み、閉ざされた扉を静かに開け放つような、胸を打つような強い説得力を持った音色だった。
視覚と聴覚が溶け合い、エリオの頭の中に直接その音楽が流れ込んでくる。
「父上、これは……」
「エリオ? どうしたのだ、急に震えて」
エルヴァンには何も見えておらず、何も聞こえていないらしかった。
エリオは自分の手に視線を落とす。
光の粒は父の体から立ち昇り、エリオの手を介して空中で美しい螺旋を描いている。
その旋律から、一つの明確な意味がエリオの心に伝わってきた。
『交渉術と、人心掌握の才……人の心を開かせる、説得の調べ』
かつてフォンテーヌ領が活気に満ち、領民たちが父を慕っていた本当の理由。
それは、調律院の画一的な共鳴晶では測定できなかった、父の真の才能の音だった。
そしてエリオは、自分の中に眠っていた一つの確信にたどり着く。
『真調べ……これが、僕の能力』
他者に触れることで、その人物の魂の奥底に眠る真の音色を旋律として聴き取る力。
そして、その旋律を正しい調へと導くことで、彼らの才能を爆発的に開花させることができる。
自分自身には魔力も戦闘能力もない。
大聖堂での判定の通り、エリオ自身の音は完全に无音だ。
しかし、他者を鳴らすことができる。
三十八年間、BL作家として何百人ものキャラクターの隠された本質を設計し、言葉という音を与え続けてきた桐生燈子の魂と、フォンテーヌの血脈が交わったことで発現した特異なスキル。
『なるほど。自分は何も持っていないけど、人の才能を見つけて育てることはできる。作家としての観察眼がある私には、これ以上ない武器だ』
光の粒が静かに消え、旋律の余韻だけがエリオの胸の内に残った。
父の手をゆっくりと布団の中へ戻し、立ち上がる。
窓の外には、雲の切れ間から冷たい冬の月が顔を出していた。
前世では、一人で机にかじりつき、自分の限界に気づかずに命を落とした。
今世では、一人で戦うつもりはない。
『最高の合奏団を揃えてやる』
無能と烙印を押された者たちの本当の価値を見出し、この理不尽な制度の真ん中で高らかに鳴らしてやる。
自分自身の生存を賭けた反逆の物語が、冷たい月の光の下で静かに幕を開けた。




