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无音の烙印を押された没落貴族~前世の作家スキルで才能を開花させたら、冷酷な近衛隊長に溺愛されました~  作者: 月夜 闇花


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第1話「終曲と目覚め」

 明滅するモニターの光だけが、暗い部屋の中で唯一の光源だった。

 指先がキーボードを叩く音は、すでに数時間前から乱れ続けている。

 両目は乾ききり、まぶたの裏側には砂をすり込まれたような痛みがへばりついていた。

 視界の端がかすみ、画面に並ぶ文字の列が不規則にゆらゆらと揺れ動く。

 BL作家、桐生燈子。

 三十八歳の冬。

 締め切りを翌朝に控えた連載の最終話を仕上げるため、すでに三日連続で徹夜を続けていた。

 食事を取った記憶もなければ、最後にベッドで眠ったのがいつかも思い出せない。

 栄養ドリンクの空き瓶が散乱する机の上で、重力に逆らうようにして体を支えている。

 物語の中では、不器用な二人の男がようやく素直な想いを伝え合おうとしていた。

 あと少し。

 あと数行で、彼らは結ばれるはずだった。

 そのとき、胸の奥でゴツンという異質な音が鳴る。

 心臓を直接わしづかみにされたような鋭い激痛と、息が詰まるほどの重い圧迫感。

 キーボードの上で指が止まる。

 息を吸おうとしても、気道がすっかり塞がったように空気が入ってこない。

 かすれた空気が喉から漏れる。

 椅子から立ち上がろうとした足には力が入らず、上半身がそのまま前へと崩れ落ちた。

 机の角に額を打ちつけ、冷たい木の板に頬が押しつけられる。

 指先から急速に体温が奪われていくのがわかる。

 苦しいという感覚すら、すでに遠く引き剥がされていく。

 暗転していく意識の中で、最後に見えたのは書きかけの原稿が映る青白い画面だった。

 誰にも気づかれないまま、私はここで終わるのだと、妙に冷めた思考が頭の隅を滑っていく。

 自分が限界を超えていることなど、ずっと前から気づいていた。

 読者の期待に応えたくて、編集者から求められるままに原稿を書き続けた。

 休むのが怖かった。

 必要とされなくなることが恐ろしくて、自分の悲鳴を見えないふりをして塞ぎ込んできた。

 その果てが、孤独な仕事机の上での結末。


『……ごめんね、最後まで書いてあげられなくて』


 誰にも届かない謝罪を最後に、すべての音が途絶えた。


◆ ◆ ◆


 長い夢から覚めるようにして、ふっと現実に引き戻される感覚があった。

 最初に感じたのは、刺すような冷気だった。

 古い毛布のざらついた感触が、肌に直接触れている。

 肺に冷たい空気が入り込み、小さく咳き込んだ。

 ゆっくりと目を開ける。

 くすんだ灰色の漆喰が剥がれ落ちた、見知らぬ天井があった。

 隙間風がどこからか吹き込み、部屋の隅に溜まった埃をかすかに揺らしている。

 体を起こそうとして、ベッドの古びたバネがきしむ音を立てた。

 痛くない。

 三十八年間酷使し続けてきたはずの背中の痛みも、眼精疲労も、心臓を締め付けるような圧迫感も、嘘のように消え去っていた。

 信じられないほど体が軽い。

 両手で顔を覆い、そのまま自分の手を見下ろした。

 そこに三十八歳の女性の手はなかった。

 骨張ってはいるものの、まだあどけなさが残る、白く細い少年の手。


『……嘘でしょう?』


 声に出そうとして、喉の奥で言葉を飲み込んだ。

 寝台から降り、裸足で冷たい木の床を踏みしめる。

 部屋の隅に置かれた、曇った姿見の前に立った。

 そこに映っていたのは、灰銀の髪を乱した見知らぬ少年だった。

 淡い紫水晶色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。

 肩幅は狭く、手足は細い。

 粗末な麻の寝着をまとったその姿は、どう見ても十代半ばにしか見えなかった。

 鏡の中の少年に手を伸ばすと、冷たいガラスの向こうで彼も同じ動きをする。

 自分の頬に触れる。

 温かい。

 脈打つ血の巡りを感じる。

 その瞬間、頭の奥底で鈍い痛みが弾け、膨大な情報が濁流のように脳裏へと流れ込んできた。


『……エリオ・フォンテーヌ』


 それが、この少年の名前だった。

 アルモニア王国の片隅に領地を持つ、フォンテーヌ子爵家の四男。

 年齢は十八歳。

 前世の桐生燈子としての三十八年分の記憶と、エリオとしての十八年分の記憶が、一枚の薄い紙の表と裏のように張り付いてぴたりと統合されていく。

 めまいを覚え、鏡の縁をきつくつかんで膝をついた。

 息を整えながら、流れ込んできた知識を作家としての思考回路で冷静に整理し始める。


『アルモニア王国……魔力を音として測定し、位階によって身分や職業が決まる調律位階制度の社会。そしてこのフォンテーヌ家は、三年前に没落している』


 エリオの記憶が、痛みを伴って再生される。

 王都の水路で起きた、未曾有の共鳴災害。

 制御を失った魔力が暴走し、橋と水道が崩壊して多くの命が奪われた事故。

 その責任は、当時領地を治めていたエリオの父エルヴァンの禁忌魔術使用によるものだと、聖庁調律院によって断定された。

 爵位こそ形式的に残されたものの、領地の大半と財産、家臣団は没収された。

 実質的には貴族社会からの追放に等しい。

 希望を失った三人の兄たちは、家を捨てて傭兵や商人として散り散りになった。

 現在、この朽ちかけた屋敷に残っているのは、冤罪の汚名を着せられて心身ともに衰弱した父と、エリオ本人、そして行くあてのない数名の老いた使用人だけだった。

 ゆっくりと立ち上がり、隙間風が吹き込む窓枠に手をついた。

 薄汚れたガラスの向こうには、冬の始まりを告げる灰色の空と、枯れ木が立ち並ぶ寒々しい領地の風景が広がっている。

 かつては活気に満ちていたという街並みも、今ではほとんどの住人が去り、残された家々の煙突からはかすかな煙が上がるのみだ。


『……これ、私が書いてたジャンルの設定そのものじゃない。没落貴族、不遇な主人公、理不尽な社会制度。まさにテンプレ。ただし……』


 自分自身の細い腕を見下ろす。


『私はこの物語の攻めじゃなくて、受け側のポジションっぽいけど』


 BL作家としてのメタ的な分析が、状況の深刻さと裏腹に脳内で自動的に行われていく。

 過労死して異世界に転生するという事態に直面しているにもかかわらず、不思議なほど心が落ち着いていた。

 三十八年という大人の精神がベースにあるせいか、あるいは物語の構造を読み解く職業病のせいか。

 どちらにせよ、ここでパニックになっても状況は好転しない。


「エリオ様、お目覚めですか」


 かすれた声とともに、部屋の扉が控えめに叩かれた。

 古くから仕える使用人の老女が、湯気の立つ水差しを手に立っている。


「……うん、起きたよ」


 口から出た声は、自分でも驚くほど穏やかで、少年らしい柔らかさを持っていた。

 桐生燈子としての意識が前面に出つつも、エリオという少年の人格が深く混ざり合っている。

 老女は安心したように顔をほころばせ、水差しを小さな木机の上に置いた。


「旦那様がお呼びです。今日は、大切な日ですから」


 大切な日。

 エリオの記憶を探り、すぐにその意味を理解した。

 今日はエリオの十八歳の誕生日。

 アルモニア王国の臣民が必ず受けなければならない、位階測定の儀式が行われる日だ。


「わかってる。すぐに行くよ」


 老女が部屋を出ていくのを見送り、用意された洗面器の湯で顔を洗う。

 冷たいタオルで顔を拭きながら、鏡の中の自分をもう一度見つめた。

 前世では原稿に追われ、他者の期待に応えるためだけに生きて自分を殺した。

 今世では、すでに家の名誉も財産もなく、どん底からのスタートだ。


『でも、生きてる』


 息を吸い込むと、冷たい空気がしっかりと肺を満たす。

 胸の痛みはない。

 体を動かす喜びが、指先の末端にまで確かな実感として存在している。

 部屋を出て、歩くたびにきしむ薄暗い廊下を進んだ。

 父の寝室の前で立ち止まり、静かにノックをしてから扉を押し開ける。

 部屋の中は、昼間だというのに厚いカーテンが引かれて薄暗かった。

 薬草の匂いと、長い間換気されていない澱んだ空気が鼻を突く。

 天蓋の取れたみすぼらしいベッドの上で、父エルヴァンが浅い呼吸を繰り返していた。

 五十歳という年齢以上に老け込んだ顔には深いしわが刻まれ、かつての威厳ある子爵の面影はない。


「父上、エリオです」


 ベッドのそばにひざまずき、毛布の外に出ている父の痩せた手に触れた。

 冷え切った皮膚の下で、弱々しい脈が打っているのがわかる。

 エルヴァンはゆっくりと重いまぶたを持ち上げ、濁った瞳でエリオを見た。


「……おお、エリオ。今日は、お前の測定の日だな」


 声はひどくかすれ、息をするだけで苦しそうだった。


「はい。これから王都へ向かいます」


「……すまない。私に、かつての力があれば、お前に相応しい後見人を用意してやれたものを。没落したこの家から、一人で王都の聖庁へ向かわせるなど……」


「謝らないでください。僕は一人でも大丈夫です」


 エリオは父の手を両手で包み込み、少しでも温かさが伝わるようにさすった。

 三年間の幽閉に近い生活で、父の心はすっかり折れてしまっている。

 冤罪を晴らす気力すら残されておらず、ただ死を待つだけの日々。

 エリオの記憶の中の父は、もっと堂々として、領民の声に耳を傾ける立派な領主だった。

 それが、王都の権力闘争と理不尽な制度の前に押しつぶされた。


「しっかり測ってもらうのだぞ。お前には、立派な音色が眠っているはずだ。フォンテーヌの血が、お前を導いてくれる……」


「ええ。期待していてください」


 作り笑いを浮かべて父を安心させ、ベッドから立ち上がった。

 部屋を出る直前、振り返ってもう一度父の姿を見る。

 前世で孤独に死んだ桐生燈子には、看取ってくれる家族すらいなかった。

 今、自分には守るべきものがある。

 この朽ちかけた屋敷も、衰弱した父も、今の自分にとってはかけがえのない現実だった。


『私が書く物語なら、ここから主人公がチート能力で無双するんだけどな』


 屋敷の玄関で、使い古された防寒着を身にまとう。

 王都へ向かう乗り合い馬車が、村の広場でもうすぐ出発するはずだ。

 外に出ると、鉛色の空から冷たいみぞれが降り始めていた。

 首元のマフラーを引き上げ、白い息を吐き出す。


『とりあえず、自分のステータスを確認してこようか』


 十八歳の誕生日。

 アルモニア王国における、人間の価値が厳格に決まる日。

 エリオはぬかるむ土の道を、王都へと向けて歩き始めた。

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