第4話 神の加護を脱ぎ捨てて
「登壇せよ、ノヴァス・フルクトゥアト」
祭服に身を包んだ老司教の声が、大聖堂の静寂を破る。
ノヴァスはつむっていた目を開けた。
こちらに向けられた老司教の目には、次代を担う若獅子への期待が秘められている。
「……さあ、首席。登壇の時間だ」
オズワルドが背中を軽く押し、登壇をうながして来た。
逃げ場のない檻へ押し込まれるかのような、不快な手だった。
大理石の床を踏みしめ、祭壇への階段を上る。
コツ、コツ、コツと、冷たい足音が大聖堂にこだまする。段差を登るにつれて、まるで処刑台を上がるかのような気分になった。
「さあ、神の枝に左手で触れ、祈りをささげるのです」
司教の示す先には、赤い祭壇の上に置かれた一本の枝葉があった。
新緑の若葉がわずかに発光し、脈打つように明滅している。
世界樹の枝葉。
これを通じて、神々は加護の力を授けると言われている。
ノヴァスは、いま一度深く息を吸う。
迷うな。
ゆっくりと、左手を伸ばした。
指先が、脈打つ緑の葉に触れる。
その瞬間、大聖堂全体が真空になったかのように――時が止まった。
指先から、得体の知れない力が這うように伝い、寒気が走る。
誰かに見られているかのような、異質な気配。
反射的に腕に力を込め、全神経を集中させて抵抗した。
伝って来る力を、抑えつけ、無理やり引きはがし――脱ぎ捨てる。
覚えのない記憶が、脳裏をよぎった。
満天の夜空と、ぼんやりと光る一本の高木。
誰かと交わした誓い。
《我らの夢に巻き込まれた、優しき果報者たち――》
一瞬だけ、知らない声と記憶が浮かんだ。
(今のは、なんだ……?)
止まっていた時が再び流れ出すと同時に、ぶわりと、左手の先にぶつかり合う大きな力の奔流を感じた。
極彩色で縁どられた日輪の光が左手の先から生じ、世界樹の枝から発せられる力とせめぎ合って暴風を巻き起こした。青い片掛けマントも、襟足で編んで流した漆黒の髪も、ばさばさと激しく揺れている。
(ッ……このままでは!)
押し負ければ、全身が砕け散る。
そんな予感を覚えたノヴァスは、ギリっと歯噛みし、決意するように深く深く息を吐いた。
黒刀を引き抜き、そして、左手を斬り落とすつもりで振り落とした。
漆黒の刃が手首に迫る、しかしその瞬間。
左手の甲に激痛が走り――弾けた。
「ぐっ……あああ……!!」
衝撃が、音を置き去りにした。
大聖堂が震え、最奥のステンドグラスが粉々に砕け散る。
突然の異常事態に貴族生徒たちの悲鳴が上がった。
きらきらと降り注ぐ虹色の破片の雨のなか、ノヴァスは激痛で左手首を抑えた。
黒刀の刃に手ごたえはなかった。
視線を、左手に向ける。
手は、ついている。
甲からは、血が流れている。
白い輝石は――ない。
その事実が心の霧を晴らし、左手の痛みを感じるほどに、視界は鮮明に明るくなっていった。
見えない枷が、外れた。
「か、加護なし……! そなた、加護なしか!!?」
腰を抜かし叫ぶ司教の動揺が呼び水となり、大聖堂にどよめきが広がる。
ノヴァスは足元に落ちていた黒刀を拾い上げて静かに納刀し、共唱席で愕然とした表情で立つヒューゴと向かい合った。
そして――血濡れた左手で見えない首枷をつかみ、引きちぎるように左手を水平に振った。
赤きしぶきが舞い、そのまま、流れるような所作で一礼する。
「私は神の加護を授けられない〈加護なし〉となりました。期待に応えられず申し訳ございません――親父殿」
不敵な勝者の、敗北宣言。
次に顔を上げたノヴァスの顔には、皮肉な笑みが浮かんでいた。
彼の言葉を受け取った親父殿の口は堅く結ばれ、無表情を貫きながらも、こめかみがわずかに震えていた。
(残念だったな)
ノヴァスは内心でつぶやき、彼の返事を待つ前に祭壇から去ろうとした。
だが――場違いな引き笑いによって、大聖堂の空気が汚される。
「……ふっひひっ、ははっ……!」
身廊の列から躍り出て来たオズワルドが、肩を小刻みに震わせている。
名だたる大貴族や父の目があることも忘れ、長年抱き続けた嫉妬が、ドス黒い悦びとなってあふれ出しているようだった。
「加護なし……くひっ、加護なし……ああ、我が愚弟ノヴァス! 貴様、加護なしになったのだな!」
狂気を露わにした義兄オズワルドを、ノヴァスはつまらなそうに見た。
「……ずいぶん嬉しそうだな、兄上」
「当たり前だろう? 神は見放したのだ、あの目障りな天才を! こんなに嬉しいことはない!!」
勢いよく腕を振り、こちらを指差し悦に浸る義兄。
そんな彼とは対照的に、ルイーゼが沈黙をたもったまま、よろよろと前に出て来た。
「ルイーゼ! お前も喜ぶべきだ! こんな劣等種が、我がフルクトゥアト家の次代を担うなど、まさか本気で思っていたわけではあるまい?」
オズワルドが天を仰ぎ見て歓喜する一方で、ルイーゼはその場に座り込み、静かに涙を流し始めてしまう。
「し、信じませんわ……。ノヴァスお兄様……も、もう一度、儀式を! もう一度祈るのですわ……! そうすればきっと! きっと!!」
すがるような義妹の反応に少し寂しさを感じながら、ノヴァスは真摯に応えた。
「もう一度はないよ、ルイーゼ。俺にとってこの結果は、喜ばしいことだ」
絶望などない。それどころか、どこか晴れ晴れとしているノヴァスの表情に、オズワルドはそんなはずないと歯ぎしりする。
「強がるな! 貴様はもう貴族として――いや、人間として終わりなのだ! 狭間人や魔人族と同じ、この世の最底辺となったのだ貴様はァ!!」
「狭間人か。あの子と同じなら光栄だよ、兄上」
「な、何を言っている……!」
早朝に別れた白いたれ耳の少女を思い出し、口角が自然と上がる。
「世界が明るくなった。だから、これでいい」
ノヴァスは、割れたステンドグラスからのぞく青空を見上げた。
燦々と降りそそぐ陽光が、祭壇前に立つ漆黒の髪の青年を祝福するように照らしている。
「うぐっ……! その顔はなんだ! 貴様は加護なし!! 人でなしだ!! 奴隷と並ぶ劣等種になったのだ!!」
「別に構わない。これで俺は――自由だ」
ノヴァスは一度だけ、共唱席で凍りついたままのヒューゴを一瞥した。道具を見るようなその目が、今や理解不能な未知を恐れるように見開かれている。
「……さらばだ。フルクトゥアト」
誰にともなく告げて、階段を優雅に降りていく。
血のしたたる左手を隠しもせず、騒然とする会衆のあいだを悠々と抜けて。
太陽の光を浴び、龍の尾のような黒髪を揺らして歩むその姿は、大聖堂の誰よりも、高潔な貴族の輝きを放っていた。
背後でオズワルドが「奴隷に落としてやる!」と喚いている。
その言葉すらも心地よい風のようにノヴァスの耳を通り過ぎていった。
だが、オズワルドの瞳には、狂気的なまでのドス黒い感情が宿っていた。
「……ああ、そうだ。それがいい。地べたを這って命乞いをする貴様の姿……拝ませてもらうぞ、ノヴァス……!」
加護なしを喜んだ青年の背中に、むき出しの悪意が向けられたのだった――。
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