第37話 義妹の専属奴隷
ルイーゼ・フルクトゥアトは、ここ最近ずっと灰色のような虚しさを感じていた。
貴族街にある寮の窓辺で一人、王都の美しい街並みに目を向け、ため息を吐く。
(すっかり味気ないですわね……この景色)
都中に雪結晶のように張りめぐらされた運河が、太陽の光を浴びて紺碧の線となり、きらきらと反射して光っている。
その上空を、〈天水道〉と呼ばれる水の道が交差し、水域油木とオーク材で作られたゴンドラが行き交うのだ。
一目見れば、その麗しさを思い知る芸術の都。
水の国の清き紺碧――水の都パラロス。
だが今のルイーゼには、その光景が色あせて見えている。
尊敬するたった一人の家族がいなくなったあの日からずっと。
ふと、左手の甲で煌めく白い加護輝石に目を向け、右手でさすった。
彼女は士官学院を卒業し、神に仕える兵――神兵となった。
(配属先が決まるのも、そろそろかしら)
本来ならフルクトゥアト家の令嬢として他家に嫁ぐはずだった。
しかし、ルイーゼ本人がそれを嫌がり、ノヴァスと同じ学院に通いたがった。
兄のオズワルドと違い、彼女には武の才能があったため、この道を選ぶことを許されたのだ。
大貴族の令嬢としては、特異な道だろう。
とはいえ、令嬢としての作法のレッスンに抜かりはないようにしていた。
ダンスの時間。
芸術鑑賞の時間。
座学の時間。
剣術の時間。
普通の令嬢よりもやることは多かったが、どれも意欲的に誇り高く取り組んで来た。
だが最近は、どういうわけか楽しめない。
お茶会で他の令嬢が自慢話をしていても、今は何かが引っ掛かり、そこへ飛び込むことをためらってしまう。
男自慢、宝石やドレス自慢、そして果ては――奴隷や拷問自慢。
(お兄様……)
思い出すのは、血の繋がりがない、下民出身の義理の兄。
事故死したと聞いた時は耳を疑ったし、オズワルドの言うことだから信じていない。あの規格外の兄のことだ、きっと今もどこかで生きているだろう。
だが、自分のそばから居なくなってしまった現実が確かにある。
はあ、と何度目かも分からない深いため息をつく。
「あまりため息を吐きすぎると、心が鬼に引きずられてしまいますよ」
凛とした、それでいて、包容力のある声。
ルイーゼは部屋の隅で静かに控えていたメイド服姿の女奴隷をにらみつけた。
「お黙りなさい、狭間人。発言を許可した覚えはありません」
「ははは、怒る元気はあるようですね。それは重畳」
落ち着いているのに、どこか飄々としていて、決して屈することはない。
若く美しい見た目に反して、遥か年上の女性を相手取っているような、妙な迫力がある女。
黒い髪の、妖狐族の奴隷。
この女奴隷は、数週間前に卒業祝いだと父ヒューゴが無理やり贈って来たモノだ。いつまでも自分の専属奴隷を持たない娘を心配して、ルイーゼの意思を無視してある日突然やって来たのだ。
ルイーゼは相変わらず態度が生意気な女奴隷に、チッと舌打ちを返す。
「おや、はしたない」
面白がるように女奴隷は言う。
鈍色の首枷はもはや飾りだった。
序列など関係ないと言わんばかりの彼女に、ルイーゼは何も言い返せずにいた。
こんなふうに接してくる奴隷など、生まれて初めてだったことと、ノヴァスならどう接するだろうかという疑問が頭の中にチラついて何も言えなくなってしまうのだ。
「何やら悩んでいますね。小娘がこの狭い部屋の中で考えをめぐらせたところで、出せる答えは限られていますよ」
無遠慮な進言に、ルイーゼはぎりっと歯噛みする。
「……部屋は、広いですわ」
大貴族の令嬢に与えられる寮の部屋なのだ。
首席専用の部屋ほどではないが、そんじょそこらの一般貴族のものより数倍は大きい。天蓋付きのベッドだって、大人が五人寝転がってもまだ余裕があるだろう。
自分に、そう言い聞かせた。
「そういうことではありませんよ、小娘。分かりませんか?」
奴隷とは思えない口応えだった。
こういう時、実兄オズワルドや他の貴族なら、暴力や言葉にすることも憚れるような仕打ちでしつけるのだろう。
昨日も実兄の部屋の前を通った際に若い女の悲鳴にも似た嬌声が聞こえてきて、鳥肌が立ったのだ。
(あのような豚の仲間には、なりたくありませんわ)
あれはあれで、ノヴァスがいなくなってから狂い方の激しさが増していた。
あれに同調してこの女奴隷に体罰を与えるのは簡単だろう。
しかし、それをやれば、どうしようもない敗北感がよぎるとルイーゼは確信していた。だから、やりたくない。
そんな葛藤を読み取ってか、女奴隷は「はは」と静かに笑う。
こちらを見透かしたような赤い瞳で「優しいですねぇ」と、まるで子どもをあやすように言うのだ。
「狭間人」
ペースを狂わされる前に、ぴしゃりと呼ぶ。
しかし、女奴隷は動揺することなくふわりと笑った。
「私には――ミヤビという名前がありますよ、小娘」
凛とした名乗りだった。
小娘。
こちらを見下すような呼び方のようでいて、しかし、馬鹿にされているというより、叱られているような響きがする妙な感じ。そのたたずまいが、ルイーゼの心を乱す。
「……狭間人、紅茶が飲みたいわ。淹れなさい」
「私は緑茶のほうが好みなのですが……」
また生意気な。
ぐぬっと息が詰まる。
「仕方ありませんね。淹れるとしましょうか」
無駄のない所作で、彼女は茶器を準備する。
そんな時だった。
バンッと無粋に開かれた扉から、義兄オズワルドが入って来た。
「我が妹よ、気分はどうだ?」
ノックもなしに女の部屋にズカズカと入る豚に、ルイーゼは目じりをぴくぴくさせながら、吐き捨てるように言った。
「兄さまのせいで最悪ですわ」
キッとにらみつけた豚の左ほおには、何者かに殴られた青あざの名残が見えた。
左腰には見せつけるように、かつて尊敬していたもう一人の義兄の黒刀がさげられている。刀について問いただしても、豚は冷や汗をかいて動揺するばかりで、一向に口を割らないのだ。
「出て行ってくださいまし」
用はないと、すげなく言い放つ。
「まあそう言うな。これを見るがいい」
オズワルドはその拒絶を無視し、一枚の紙を広げて見せて来た。
「もう間もなく我らの配属が決まる、その祝いの宴だそうだ」
一刻も早くこの豚に出て行って欲しいルイーゼは、用件を終わらせるために仕方なくその書面に目を走らせた。
そこには、卒業祝いも兼ねて、数日後に催される士官学院の卒業者を対象にした祝宴の知らせについて書かれている。
「……場所が、わかりませんわ」
不思議なことに、会場の詳細は伏せられている。
「そのような些末事はどうでもいい。ここを見るのだ」
書面の下部に、仰々しい世界樹の紋章の捺印が押されていた。
これはつまり、光神が正式に認可した証。
「すごいだろう!!」
ばっと両手を広げ、興奮するオズワルド。
「そうですか……」
一方、一切興味のなさそうなルイーゼ。
何とも微妙な空気が形成されたのだった。
「……用が済んだなら、お帰りください。兄さま」
ルイーゼは気分が優れなさそうに告げる。
もともと気力がなかったところに、空気が読めない醜い豚が現れたのだ。もう勘弁してくれと思っていた。
しかし、豚は動じない。
「そうだ、我が妹よ。お前のその奴隷、私に譲ってくれ」
突拍子もない、傲慢な提案をして来た。
「妖狐族……前から興味があったのだ」
そういって欲望を隠しもしない豚は、壁際で静かに紅茶の準備をしているミヤビを舐めるように見ていた。
「何度も断りました。あれはわたくしのモノです」
「どうしてもダメか?」
「だから、そう何度も言いましたわ。出てってくださいまし」
「ふむ……そうか。妹のモノでなければ、奪っていたのだが、仕方あるまい。他を探すとしよう」
これでも一応妹への敬意はあるようで、最後の一線だけは越えて来ない。本音はどうか知らないが。
「ではな、我が妹ルイーゼ」
オズワルドは気が済んだのか、ようやく部屋から出る気になったようだった。
踵を返し、部屋の扉に手を掛けたその時――。
ガコッ。
と、左腰から下げていたノヴァスの黒刀の先が扉をかすめてしまった。
「ひ、ひっいいぃいっ!!!」
にわかに飛び上がり、情けない悲鳴を上げた豚は、すぐさま黒刀の鞘に傷がついていないか確認する。
それから、まるで何かに怯えて周囲を確認し、気を落ち着けている。
一月前のあの日から、ずっとこの調子だ。
オズワルドのその様子を、ミヤビは黙って見ていた。
すっと細められた赤い瞳は黒刀を注視している。
「なっ、何かあれば、兄を頼るといい! ルイーゼ!」
最後に誤魔化すように言って、オズワルドが去り、扉がぱたりと閉まる。
「うるさい豚でしたね」
ミヤビが容赦なく言う。
彼女が豚という自分の内心と同じ表現を使ったことで、言いようのない高ぶりを覚えたルイーゼは、思わず口角を上げる。
しかし、すぐにはっとすると、コホンと咳ばらいで誤魔化して紅茶を所望する。
ソファのサイドテーブルに置かれたカップに、ミヤビは丁寧に紅茶を注ぎながら言った。
「ありがとうございます、小娘」
相変わらず小娘呼びは変わらない。
「……何のことですか?」
「あの豚から守ってくれたことです。感謝を」
紅茶を注ぎ終わったミヤビは、洗練された動きで一礼する。人間族のあいだでは見たことがない礼の仕方だった。
(妖狐族の……文化かしら)
再び、自分らしくないと思い直し、首を振る。
奴隷に興味を持っても仕方がないと、言い聞かせながら紅茶を一口飲み、努めて冷たく言う。
「わたくしの所有物を奪われないよう言っただけです」
ふんと鼻で笑うルイーゼだったが、ミヤビの口元が優しく微笑んでいたことには気づかなかった。
「あの黒刀――」
ふいに、ミヤビが自分にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「どこかで、見たことがありますね」
水の都の令嬢と奴隷の、のどかな午後のひと時は、静かに過ぎて行った――。




