第115話 差し出したもの
暗闇の底で、何かが揺れた。
「……ルース」
小さな声。
遠くて、でもはっきりと届く。
「ルース、起きて」
ゆっくりと、意識が浮かび上がる。
重たい瞼を押し上げると、ぼやけた視界の中に人影があった。
「……ネア」
声が掠れる。
そこにいたのは、ネアだった。
まだ朝も早い時間なのか、牢屋の中は薄暗い。
けど、その顔ははっきり見えた。
「……よかった」
思わず、息が漏れる。
ざっと見ただけでも、大きな怪我はない。
顔も、腕も、ちゃんと動いてる。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「……何、その顔」
ネアが、少しだけ眉をひそめる。
でも、すぐにいつもの無表情に戻った。
「人の心配より、自分の心配したらどうなの?」
淡々とした声。
いつも通り。
それが、逆に安心できた。
しばらく、何も言わない時間が続く。
それでも――さっきまで感じてた重さとは、少し違った。
俺は、小さく息を吸って、口を開く。
「……危ない仕事じゃなかった?」
声が震える。
「怪我とか……してない?」
ネアは、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
でもすぐに、いつもの調子で答える。
「どうってことなかったよ」
そっけない。
でも、それで十分だった。
「……そっか」
力が抜ける。
よかった。
本当に、よかった。
そう思った、その時だった。
ネアが体勢を変えた拍子に、視界の端に何かが映った。
「……え」
太もも。
そこに――乾いた血の跡があった。
黒く、こびりつくような。
「……それ」
思わず、声が出る。
ネアの視線が一瞬だけ揺れた。
「血、ついてる」
言った瞬間、ネアは慌てたようにその部分を手でこすった。
指で、強く。
まるで、見えなくしようとするみたいに。
「……これくらい」
視線を逸らしたまま、小さく言う。
「大丈夫。治してもらえたし、今は痛くないから」
「……」
強がりだ。
分かる。
分かるけど。
それ以上、何も言えなかった。
ネアの肩が、ほんのわずかに震えているように見えたから。
――これ以上、踏み込むな。
そう言われてる気がした。
俺は、黙るしかなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日、呼び出されたのは俺だけだった。
ネアは、そのまま牢屋に残された。
胸の奥に残ったモヤモヤを振り払うように、俺はがむしゃらに働いた。
運んで、運んで、運んで。
怒鳴られても、蹴られても、止まらなかった。
何も考えたくなかった。
考えたら、何かが止まる気がしたから。
そうして一日の仕事を終えて、牢屋へ戻る途中。
付き添いの見張り役が、ふと口を開いた。
「そういや」
気だるそうに。
「お前の連れ、面白かったぞ」
「……?」
足が止まる。
「ネアのことだよ」
にやりと笑う。
「昨日、お前がボコられてた時な」
嫌な予感が、背筋をなぞる。
「貴族様の屋敷に連れてかれてよ」
楽しそうに続ける。
「見世物にされたんだ」
「……見世物?」
「そうだよ」
笑いながら。
「大勢の前で、獣に襲わせてな」
「……っ」
息が止まる。
「爪で引き裂かれて牙で噛みつかれて、血だらけになっても、死なねえの」
愉快そうに語る。
「なんでか分かるか?」
俺は、何も言えなかった。
「治癒の魔導書だよ」
軽く言い放つ。
「さすが貴族様だよな。傷はすぐ治っちまう。だから、何度でもできるんだ」
ぞわりと、背筋が震えた。
「ついでに、痛みも軽減する魔術までかけられててな」
肩をすくめる。
「これから、じっくり楽しむらしいぜ」
「……ふざけるな」
気づいた時には、身体が動いていた。
「ふざけるなよっ!!」
掴みかかろうとして――すぐに腕をねじ上げられた。
「おっと」
後ろから羽交い締めにされる。
「落ち着けって」
「放せ!!」
必死に暴れるが、力が足りない。
俺の細腕なんかじゃびくともしない。
「放せって言ってんだろ!!」
叫ぶ。
喉が裂けるくらい。
でも。
届かない。
そりゃそうだ。
俺の言葉に、価値なんかないんだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのまま連れて行かれたのは、見慣れない牢屋だった。
扉が開く。
中には――誰もいない。
「入れ」
背中を蹴られる。
転がるように中へ。
そのまま扉が閉まった。
鉄の音が、やけに重く響く。
「……ネア」
名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
しばらくして、足音が近づいてきた。
奴隷商人だった。
「よろこべ」
にやにやと笑いながら言う。
「お前は今日から一人部屋だ」
「……」
「これからも仕事に励めよ」
「ネアはどこだ」
遮るように言う。
「会わせろ」
声が震える。
「会わせろよ!!」
すると、商人は肩をすくめた。
「別れの言葉を告げる時間なら、もうやったじゃないか」
「……っ」
「これ以上を求めるのは、傲慢というものだぞ」
その言葉で、理解した。
もう、会えない。
二度と。
「……あ」
膝から力が抜け、体が崩れ落ちる。
微かに笑い声が聞こえる。
でも、俺の頭には何も入ってこなかった。
それから先のことは、よく覚えていない。
ただ、働いた。
言われたことをやって。
殴られたら倒れて。
また起きて。
何も考えずに。
何も感じずに。
ただ、動いた。
どれくらい時間が経ったのかも分からない、ある日。
仕事先で、異変が起きた。
ドブの掃除を終えても、誰も迎えに来なかったんだ。
一人で這い上がることもできず、夜が更けていくのをただ見上げる。
何時間待っただろうか、さすがに迎えが来ないと悟った俺は、あてもなくドブの中をさまよい始めた。
夜が明けるまで歩き続けた頃、俺は外に出られそうな壁の亀裂を見つけ、なんとか脱出できたんだ。
見張り役の奴に文句を言ってやろう。
そう思って、早朝の路地裏を歩いてた俺は偶然耳にしたんだ。
奴隷商人が騎士団に捕らえられたんだって。
大量に捕まっていた奴隷も、殆どが騎士団に保護されたらしい。
よほど、あくどいことをしてたんだろうねぇ。
そんなうわさ話を耳にした俺は、頭の中が真っ白になったんだ。
奴隷たちは保護された。
でも俺は、その場にいなかった。
依頼先に出されていたから。
迎えも、来なかった。
見張り役の男たちは、俺を置いて逃げた。
気づけば、俺は一人で。
人気のないドブの中に、取り残されていた。
「……」
俺は、どうしたらいいんだ?
騎士団の元に行けば、保護してもらえるのか?
でも、騎士団だぞ?
こんな価値のない俺を、助けてくれるのか?
そんなことを考えた俺は、とりあえず馬車の荷物に紛れて街から出ることにした。
騎士たちは信用ならない。
だから、一旦落ち着ける場所に行こう。
頃合いを見計らって馬車から飛び降り、そのまま、荒野を歩く。
どこへ向かうのかも分からずに。
足を動かして。
気づいた時には、廃墟の中にいた。
崩れた壁。
割れた床。
風の音だけが響いている。
「……どうすりゃいい」
呟く。
当然、答えはない。
考える。
考えて。
そして、思う。
……もう、いいんじゃないか。
生きる意味なんて、ないんじゃないか。
価値のない存在だから。
「……っ」
頬を、何かが伝った。
気づいたら、涙が出ていた。
悔しかった。
誰も助けてくれないことが。
悲しかった。
ネアに何もできなかったことが。
怖かった。
このまま、消えていくのが。
だから。考えた。
必死に。
俺に足りなかったのは何なのか。
何があれば、生きられるのか。
何を望めば、よかったのか。
――全部、分かればいい。
すべてを理解できる瞳が、欲しい。
――何もできないのは、嫌だ。
なんでも組み立てられる手が、欲しい。
――騙されるのは、もう嫌だ。
嘘も想いも聞き分けられる耳が、欲しい。
――どうせなら。言葉だけで、全部叶えられればいい。
願いを叶える喉が、欲しい。
そう、願い続けた。
力が尽きる、その寸前まで。
『ドンゾコから這い上がらんとするものよ』
不意に声がした。
辺りには誰もいないのに。
『その願い、我らが聞き届けたり』
「……誰だ?」
かすれた声で問う。
すると、声は続いた。
『偽りなく願うというのであれば――差し出せ』
低く。
深く。
『貴様の内に眠る欲望を。その衝動を』
「……」
欲望。
そんなもの、分からない。
でも差し出せるものがあるなら。
それで、叶うなら。
俺は。
涙を拭う。
息を吸う。
「……俺がまだ差し出せるものがあるって言うなら」
吐き出すように。
「持ってけよ」
そして。
「その代わり――願いを叶えろ」
次の瞬間。
何かが、流れ込んできた。
目が、開く。
手が、動く。
耳が、研ぎ澄まされる。
喉が、震える。
そして。
心の奥底から、何かが溢れ出した。
壊したい。
全部。
奪いたい。
全部。
楽になりたい。
何もかも捨てて。
もう、誰もいらない。
誰も、信じない。
その衝動が、止まらなかった。
笑いが、こみ上げる。
涙も、止まらない。
ぐちゃぐちゃのまま。
全部、混ざって。
そして――
俺は。
魔王になった。
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