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ドンゾコナビ ~滅びの世界で少女導く~  作者: 内村一樹
5章:這い上がる者

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第114話 価値のない存在

 目を開けた時、最初に見えたのは黒ずんだ石壁だった。


 湿ってる。


 鼻につくのは腐った残飯みたいな臭いと、雨に濡れた土の臭いと、何日も洗ってない身体の臭い。

 どれが自分の臭いなのか分からないくらい、全部がぐちゃぐちゃに混ざっていた。


 ぼんやりした頭で身じろぎしようとして――俺は、違和感に気づいた。


「……あ?」


 身体が、思うように動かない。


 腕を上げようとしても、妙に遅い。足を動かそうとしても、どこか他人の身体を無理やり操ってるみたいに鈍い。


 そこで、ようやく悟る。


 ……ああ、そうか。


 これは俺の――ルースの過去だ。


 思い出したんじゃない。ただ、見せられてる。


 今ここにいる俺は、あの頃の俺の中に押し込められて、目の前の景色をなぞってるだけなんだ。


 なら――逆らっても無駄か。


 そう納得した俺は、諦めて目の前の光景に意識を向けることにした。


 身体の下にあったゴミを押しのける。


 布団代わりにしてたらしいボロ布と、湿った藁と、紙くずと、何かの袋。立ち上がるだけで、身体中の骨が軋んだ。


 その時だった。


 外の大通りの方から、妙に騒がしい音が聞こえてきた。


 歓声。


 ざわめき。


 甲高い笑い声。


 何事かと思って、俺は路地の出口へとふらふら歩いた。


 薄暗い路地を抜けた先には、眩しいくらいの光があった。


 大通りを、騎士たちが進んでいる。


 磨き上げられた鎧。陽の光を反射する剣。堂々と胸を張った姿。沿道の人間たちは手を叩いて、声を張り上げて、花まで撒いていた。


「……すげぇ」


 口から、そんな言葉が漏れた。


 綺麗だった。


 強そうだった。


 まるで、最初から世界に歓迎されて生まれてきたみたいな顔をしていた。


 その姿を目で追った後――ふと、足元の水たまりが目に入った。


 そこに映っていたのは、俺だった。


「……は」


 思わず、笑いそうになる。


 服はあちこち裂けて、布切れが辛うじて身体に引っかかってるだけ。

 髪は油と埃で固まって、酷くぼさぼさだ。手足は細く、骨ばっていて、肌は汚れで色が分からない。目は真っ赤に充血して、死人みたいだった。


 さっきまで見てた騎士たちとは、何もかも違う。


 同じ人間だなんて、思う方が無理だ。


 俺はしばらく、水たまりの中の自分をぼんやり見ていた。


 その時。


「……っ」


 視線を感じた。


 路地のすぐ傍を通りかかった親子が、こっちを見ている。


 母親は目を見開いて、子どもの肩を抱き寄せた。


「見ちゃだめ」


 小さな声だったのに、はっきり聞こえた。

 ぞわり、と背筋が冷たくなる。


 逃げなきゃ。


 そう思うより先に、身体が動いていた。


 俺は路地の裏へ、転がるように駆け込んだ。

 衛兵を呼ばれたら終わりだ。

 捕まって、どこかに連れていかれる。


 前にもいた。同じ路地で寝起きしてたオジサンが、ある日衛兵に見つかって、どこかに連れていかれた。

 その後、戻ってきていない。何日も、何日も待っても、帰ってこなかった。


 どこへ行ったのかは知らない。

 でも、良い場所じゃないことくらいは分かる。


 だから、逃げる。


 逃げなきゃならない。


 夢中で走って――


「っ、ぁ……!」


 足の裏に鋭い痛みが走った。


 思わずその場に倒れ込みそうになって、慌てて壁に手をつく。息を荒げながら足元を見ると、裸足の裏にガラスの破片が深く刺さっていた。


 いつ踏んだのかも分からない。


 俺はその場に座り込むと、震える指でガラスをつまんだ。


「ぅ……っ」


 引き抜く。

 熱いような痛みと一緒に、血が滲んだ。


 涙が滲む。けど、泣いてる暇なんてない。


 足を引きずりながらでも、先へ行かないと。

 そうやって立ち上がった、その時だった。

 背後で、何かが動いた。


「え――」


 振り向く間もなかった。

 誰かの腕が首に巻きついて、もう一人が後ろから脚を払う。


 ぐらりと視界が揺れた次の瞬間、俺の身体は地面に叩きつけられていた。


「――っ!!」


 声を上げる暇もない。


 口を塞がれ、腕を捻り上げられ、そのまま袋の中へと押し込まれる。


 狭い。苦しい。暗い。


 暴れようとしても、身体がうまく動かない。子どもの細腕なんて、何の抵抗にもならなかった。


 外から聞こえてくるのは、男たちの低い笑い声だけ。


「今回は当たりだな」

「ガキの方が売れるからな」


 何を言ってるのか、半分も理解できない。

 ただ、嫌な予感だけが膨らむ。


「ん……?」


 袋の中に、甘い匂いが満ちていく。

 花みたいな、妙に柔らかい香り。


 でも、吸い込むたびに頭がぼんやりして、手足の力が抜けていく。


 だめだ、と思った。

 だめなのに。

 瞼が、重い。


 音が遠ざかる。


 暗闇の中で、俺の意識はゆっくり沈んでいった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 次に目を覚ました時、俺の首には冷たい輪がついていた。


「……え」


 声が掠れる。


 首輪。

 両手には手枷。


 鉄の重みが、寝起きの頭に嫌でも現実を叩きつけてくる。


 見渡せば、狭くて臭い牢屋だった。


 湿った石床。錆びた鉄格子。吐き気がするような汚物の臭い。身体を伸ばして寝ることもできないくらい狭い。


 そこでようやく、俺は自分が閉じ込められてるんだと理解した。


 ……そして。


「起きた?」


 声がした。

 牢屋の隅。


 膝を抱えて座っていた、一人の少女がこっちを見ていた。


 年は、俺とそんなに変わらないと思う。

 痩せてはいるけど、目だけは妙にしっかりしていた。


「……誰」


 俺がそう聞くと、少女は少しだけ首を傾げた。


「ネア」


 短く名乗る。


「あなたは?」


 その問いに、俺は口を閉じた。


 ……名前。

 そんなもの、考えたこともなかった。

 呼ばれたことがない。

 必要になったこともない。


「ない」

「え?」

「名前。ない」


 そう言うと、ネアはしばらく黙った。

 変なことを言った自覚はあった。

 でも、ないものはない。


 すると、ネアは「そう」とだけ答えた。


 それから、少しだけ考えるように俺を見て――


「じゃあ」


 あっさりと言った。


「君の名前は、今日からルースで」

「……るーす?」

「うん。ルース」


 初めてだった。

 名前をつけられたのは。


 それがどういう意味なのかも分からない。ただ、自分を呼ぶための音ができたってだけなのに――胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。


「……俺、ルース」


 口に出してみる。

 自分のはずなのに、他人のものみたいな音だった。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。


 ネアは小さく頷く。


「そう。ルース」


 その時のことを、俺はずっと覚えていた。

 いや――忘れられるはずがなかった。


 それからの毎日は、ただ流れていった。


 奴隷として依頼を受けるために運ばれて、仕事をして、また運ばれて。各地を転々としながら、命じられた仕事をこなすだけの日々。


 荷物運び。掃除。洗濯。泥さらい。獣の世話。食い残しの片づけ。吐瀉物の掃除。何でもやった。


 人として扱われることなんて、一度もなかった。


 叩かれるのも、怒鳴られるのも、蹴られるのも当たり前。


 私語なんて許されない。


 笑うのもだめ。泣くのもだめ。勝手に休むのはもっとだめ。


 だけど、そんな毎日の中でも――ネアがいた。


 同じ檻の中で背中を丸めて眠って、同じように怒鳴られて、同じように働いて。

 それだけで、少しだけ楽だった。


 自分が何者でもなくても、ネアだけは俺をルースと呼んでくれる。


 そのことが、思っていたよりずっと大きかった。


 そんなある日のことだった。


 ネアのところに、いつもと違う依頼が来た。

 依頼、なんて言い方をしてるけど、選べるわけじゃない。命令だ。


 ただ、その日だけは空気が違った。

 いつもの商人たちが、妙にへらへら笑っている。


 ネアは何も言わなかった。


 でも、一瞬だけ見えた横顔が、不安そうだった。


 それが、ひどく嫌だった。

 何をさせられるのか、俺には分からない。

 けど、良くないことだってのは分かった。

 だって、奴らが笑ってるから。


 だから俺は、気になって仕方がなかった。


 どうしても、放っておけなかった。


 昼。


 奴隷商人が食事を持ってくる時間を見計らって、俺は隙を突いた。


 鍵を開けた一瞬。足元に転がった器。商人が舌打ちして目を逸らした、その間。


 細い身体をねじ込んで、外に出る。


 心臓が破裂しそうなくらい鳴っていた。

 でも、止まれなかった。


 ネアを探さないと!


 廊下を走る。

 知らない部屋の前を通る。

 怒鳴り声が遠くで聞こえる。


 そんなことはどうだっていい!

 急いで外に出て、ネアの元に――


 そう思った次の瞬間には、もう遅かった。


 後ろから髪を掴まれて、床に顔を叩きつけられる。


「このクソガキ!」


 腹を蹴られる。

 息ができない。


 背中を踏みつけられる。

 何度も、何度も。


 牢屋を抜け出すことには成功したのに、ネアを見つける前に捕まった。


 そのまま仕置きだと言われて、俺は一方的に殴られた。


「どういうつもりだ」


 蹴りが飛んでくる。


「逃げられると思ってるわけじゃないよな?」


 拳が落ちてくる。


「何をしようとしてた」


 答えられない。


 答えたところで、どうせまた殴られる。

 けど、頭の中にあるのはそれじゃなかった。


「……ネア、は」

「あ?」

「ネアは……無事、なの」


 やっとのことで、それだけを口にした。

 すると。


 一瞬、静まり返った後――商人たちは笑った。

 腹を抱えて笑う奴までいた。


「ははっ、聞いたか?」

「まさかこいつら、デキてんのか?」

「馬鹿だなぁ、お前」


 見下すような目。

 汚いものを見るみたいな顔。

 その中の一人が、しゃがみ込んで俺の髪を掴み上げた。


「お前が何を見ても」


 にやにや笑いながら。


「何を聞いても」


 頬を叩く。


「何を作っても」


 腹を殴る。


「何を言っても」


 床に押しつける。


「そこに価値は生まれない」


 耳元で、はっきりと。


「そもそも、お前に価値なんて分からねえだろ?」


 声が、遠くなる。


「そんなだから、奴隷なんかやってるんだ」


 笑い声。


「俺たち人間様と同じだと思うなよ」


 人間様。


 その言葉だけが、妙にはっきり残った。


 じゃあ、俺は何なんだ。


 人間じゃないなら、何なんだ。


 殴られて、蹴られて、踏まれて。


 痛いはずなのに、どこか他人事みたいだった。


 もう、どうでもいい。

 どうせ俺が何をしても、価値は生まれない。


 何を言っても、届かない。

 何を望んでも、叶わない。


 その通りなんだろう。


 だったら、もう――


 そこで、意識が途切れた。

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