第114話 価値のない存在
目を開けた時、最初に見えたのは黒ずんだ石壁だった。
湿ってる。
鼻につくのは腐った残飯みたいな臭いと、雨に濡れた土の臭いと、何日も洗ってない身体の臭い。
どれが自分の臭いなのか分からないくらい、全部がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ぼんやりした頭で身じろぎしようとして――俺は、違和感に気づいた。
「……あ?」
身体が、思うように動かない。
腕を上げようとしても、妙に遅い。足を動かそうとしても、どこか他人の身体を無理やり操ってるみたいに鈍い。
そこで、ようやく悟る。
……ああ、そうか。
これは俺の――ルースの過去だ。
思い出したんじゃない。ただ、見せられてる。
今ここにいる俺は、あの頃の俺の中に押し込められて、目の前の景色をなぞってるだけなんだ。
なら――逆らっても無駄か。
そう納得した俺は、諦めて目の前の光景に意識を向けることにした。
身体の下にあったゴミを押しのける。
布団代わりにしてたらしいボロ布と、湿った藁と、紙くずと、何かの袋。立ち上がるだけで、身体中の骨が軋んだ。
その時だった。
外の大通りの方から、妙に騒がしい音が聞こえてきた。
歓声。
ざわめき。
甲高い笑い声。
何事かと思って、俺は路地の出口へとふらふら歩いた。
薄暗い路地を抜けた先には、眩しいくらいの光があった。
大通りを、騎士たちが進んでいる。
磨き上げられた鎧。陽の光を反射する剣。堂々と胸を張った姿。沿道の人間たちは手を叩いて、声を張り上げて、花まで撒いていた。
「……すげぇ」
口から、そんな言葉が漏れた。
綺麗だった。
強そうだった。
まるで、最初から世界に歓迎されて生まれてきたみたいな顔をしていた。
その姿を目で追った後――ふと、足元の水たまりが目に入った。
そこに映っていたのは、俺だった。
「……は」
思わず、笑いそうになる。
服はあちこち裂けて、布切れが辛うじて身体に引っかかってるだけ。
髪は油と埃で固まって、酷くぼさぼさだ。手足は細く、骨ばっていて、肌は汚れで色が分からない。目は真っ赤に充血して、死人みたいだった。
さっきまで見てた騎士たちとは、何もかも違う。
同じ人間だなんて、思う方が無理だ。
俺はしばらく、水たまりの中の自分をぼんやり見ていた。
その時。
「……っ」
視線を感じた。
路地のすぐ傍を通りかかった親子が、こっちを見ている。
母親は目を見開いて、子どもの肩を抱き寄せた。
「見ちゃだめ」
小さな声だったのに、はっきり聞こえた。
ぞわり、と背筋が冷たくなる。
逃げなきゃ。
そう思うより先に、身体が動いていた。
俺は路地の裏へ、転がるように駆け込んだ。
衛兵を呼ばれたら終わりだ。
捕まって、どこかに連れていかれる。
前にもいた。同じ路地で寝起きしてたオジサンが、ある日衛兵に見つかって、どこかに連れていかれた。
その後、戻ってきていない。何日も、何日も待っても、帰ってこなかった。
どこへ行ったのかは知らない。
でも、良い場所じゃないことくらいは分かる。
だから、逃げる。
逃げなきゃならない。
夢中で走って――
「っ、ぁ……!」
足の裏に鋭い痛みが走った。
思わずその場に倒れ込みそうになって、慌てて壁に手をつく。息を荒げながら足元を見ると、裸足の裏にガラスの破片が深く刺さっていた。
いつ踏んだのかも分からない。
俺はその場に座り込むと、震える指でガラスをつまんだ。
「ぅ……っ」
引き抜く。
熱いような痛みと一緒に、血が滲んだ。
涙が滲む。けど、泣いてる暇なんてない。
足を引きずりながらでも、先へ行かないと。
そうやって立ち上がった、その時だった。
背後で、何かが動いた。
「え――」
振り向く間もなかった。
誰かの腕が首に巻きついて、もう一人が後ろから脚を払う。
ぐらりと視界が揺れた次の瞬間、俺の身体は地面に叩きつけられていた。
「――っ!!」
声を上げる暇もない。
口を塞がれ、腕を捻り上げられ、そのまま袋の中へと押し込まれる。
狭い。苦しい。暗い。
暴れようとしても、身体がうまく動かない。子どもの細腕なんて、何の抵抗にもならなかった。
外から聞こえてくるのは、男たちの低い笑い声だけ。
「今回は当たりだな」
「ガキの方が売れるからな」
何を言ってるのか、半分も理解できない。
ただ、嫌な予感だけが膨らむ。
「ん……?」
袋の中に、甘い匂いが満ちていく。
花みたいな、妙に柔らかい香り。
でも、吸い込むたびに頭がぼんやりして、手足の力が抜けていく。
だめだ、と思った。
だめなのに。
瞼が、重い。
音が遠ざかる。
暗闇の中で、俺の意識はゆっくり沈んでいった。
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次に目を覚ました時、俺の首には冷たい輪がついていた。
「……え」
声が掠れる。
首輪。
両手には手枷。
鉄の重みが、寝起きの頭に嫌でも現実を叩きつけてくる。
見渡せば、狭くて臭い牢屋だった。
湿った石床。錆びた鉄格子。吐き気がするような汚物の臭い。身体を伸ばして寝ることもできないくらい狭い。
そこでようやく、俺は自分が閉じ込められてるんだと理解した。
……そして。
「起きた?」
声がした。
牢屋の隅。
膝を抱えて座っていた、一人の少女がこっちを見ていた。
年は、俺とそんなに変わらないと思う。
痩せてはいるけど、目だけは妙にしっかりしていた。
「……誰」
俺がそう聞くと、少女は少しだけ首を傾げた。
「ネア」
短く名乗る。
「あなたは?」
その問いに、俺は口を閉じた。
……名前。
そんなもの、考えたこともなかった。
呼ばれたことがない。
必要になったこともない。
「ない」
「え?」
「名前。ない」
そう言うと、ネアはしばらく黙った。
変なことを言った自覚はあった。
でも、ないものはない。
すると、ネアは「そう」とだけ答えた。
それから、少しだけ考えるように俺を見て――
「じゃあ」
あっさりと言った。
「君の名前は、今日からルースで」
「……るーす?」
「うん。ルース」
初めてだった。
名前をつけられたのは。
それがどういう意味なのかも分からない。ただ、自分を呼ぶための音ができたってだけなのに――胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
「……俺、ルース」
口に出してみる。
自分のはずなのに、他人のものみたいな音だった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
ネアは小さく頷く。
「そう。ルース」
その時のことを、俺はずっと覚えていた。
いや――忘れられるはずがなかった。
それからの毎日は、ただ流れていった。
奴隷として依頼を受けるために運ばれて、仕事をして、また運ばれて。各地を転々としながら、命じられた仕事をこなすだけの日々。
荷物運び。掃除。洗濯。泥さらい。獣の世話。食い残しの片づけ。吐瀉物の掃除。何でもやった。
人として扱われることなんて、一度もなかった。
叩かれるのも、怒鳴られるのも、蹴られるのも当たり前。
私語なんて許されない。
笑うのもだめ。泣くのもだめ。勝手に休むのはもっとだめ。
だけど、そんな毎日の中でも――ネアがいた。
同じ檻の中で背中を丸めて眠って、同じように怒鳴られて、同じように働いて。
それだけで、少しだけ楽だった。
自分が何者でもなくても、ネアだけは俺をルースと呼んでくれる。
そのことが、思っていたよりずっと大きかった。
そんなある日のことだった。
ネアのところに、いつもと違う依頼が来た。
依頼、なんて言い方をしてるけど、選べるわけじゃない。命令だ。
ただ、その日だけは空気が違った。
いつもの商人たちが、妙にへらへら笑っている。
ネアは何も言わなかった。
でも、一瞬だけ見えた横顔が、不安そうだった。
それが、ひどく嫌だった。
何をさせられるのか、俺には分からない。
けど、良くないことだってのは分かった。
だって、奴らが笑ってるから。
だから俺は、気になって仕方がなかった。
どうしても、放っておけなかった。
昼。
奴隷商人が食事を持ってくる時間を見計らって、俺は隙を突いた。
鍵を開けた一瞬。足元に転がった器。商人が舌打ちして目を逸らした、その間。
細い身体をねじ込んで、外に出る。
心臓が破裂しそうなくらい鳴っていた。
でも、止まれなかった。
ネアを探さないと!
廊下を走る。
知らない部屋の前を通る。
怒鳴り声が遠くで聞こえる。
そんなことはどうだっていい!
急いで外に出て、ネアの元に――
そう思った次の瞬間には、もう遅かった。
後ろから髪を掴まれて、床に顔を叩きつけられる。
「このクソガキ!」
腹を蹴られる。
息ができない。
背中を踏みつけられる。
何度も、何度も。
牢屋を抜け出すことには成功したのに、ネアを見つける前に捕まった。
そのまま仕置きだと言われて、俺は一方的に殴られた。
「どういうつもりだ」
蹴りが飛んでくる。
「逃げられると思ってるわけじゃないよな?」
拳が落ちてくる。
「何をしようとしてた」
答えられない。
答えたところで、どうせまた殴られる。
けど、頭の中にあるのはそれじゃなかった。
「……ネア、は」
「あ?」
「ネアは……無事、なの」
やっとのことで、それだけを口にした。
すると。
一瞬、静まり返った後――商人たちは笑った。
腹を抱えて笑う奴までいた。
「ははっ、聞いたか?」
「まさかこいつら、デキてんのか?」
「馬鹿だなぁ、お前」
見下すような目。
汚いものを見るみたいな顔。
その中の一人が、しゃがみ込んで俺の髪を掴み上げた。
「お前が何を見ても」
にやにや笑いながら。
「何を聞いても」
頬を叩く。
「何を作っても」
腹を殴る。
「何を言っても」
床に押しつける。
「そこに価値は生まれない」
耳元で、はっきりと。
「そもそも、お前に価値なんて分からねえだろ?」
声が、遠くなる。
「そんなだから、奴隷なんかやってるんだ」
笑い声。
「俺たち人間様と同じだと思うなよ」
人間様。
その言葉だけが、妙にはっきり残った。
じゃあ、俺は何なんだ。
人間じゃないなら、何なんだ。
殴られて、蹴られて、踏まれて。
痛いはずなのに、どこか他人事みたいだった。
もう、どうでもいい。
どうせ俺が何をしても、価値は生まれない。
何を言っても、届かない。
何を望んでも、叶わない。
その通りなんだろう。
だったら、もう――
そこで、意識が途切れた。
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