8月23日 予感の朝
パッと目が覚めた。目覚まし時計は、まだ、鳴っていない。何時だろう。そう思い、スマホの電源を入れる。
7:13
こんな時間に目覚めるなんて、珍しい。心なしか、体が、とても軽い。不思議な事に、今までの憂鬱が、思い出せないのだった。
鏡の中に、自分の姿が、映る。第一印象を決めるため、朝の洗顔は、重要だ。いつも惰性でしている事、全てに、意味があると思える。
タオルで顔を拭いた時、それは、昨日の電話のせいかもしれないと思った。こう単純な自分は、好きだ。
チン。
エレベータを降りる。70代の、白髪の男性とすれ違った。
エントランスを抜けた瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。
駐輪場に止めていた、自転車の鍵を外した。乗れる所まで押す。サドルに跨がる。ペダルを踏み込んだ。
強烈な太陽に照らされ、住宅の屋根も、覆い茂る木々も、足下の雑草も、全てのものが輝いている。何もかもが、命の限り、精一杯生きているのだ。
大通りへ出た。そこで、いつもこの時間帯には、出掛けないのだと気付く。そこには、分団登校中の小学生がいたのだ。次第に、いつもの感覚が戻って来た。
只管に、同じ作業を繰り返していると、どんどんスピードが上がる。それに従い、周りの景色や音が、シャットアウトされていく。そこには、私しかいない。
「ハァ、ハァ、ハァ」
呼吸音を意識すると、自分自身が、どんどん膨らんでいく気がした。街全体を覆ってしまうのではないか! 大声で叫ばないと、戻って来られない!
2階建ての白い建物の横に、自転車を止めた。スタンドを立てる。鍵を掛ける。1つ1つ作業をしていると、自分が、どこにいて、何をしているのかが、明白になって来た。気分が良いとは言え、やはり、憂鬱は、すぐ側にあるのだ。そう思うと、萎えた。建物の影を出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。
花屋「HUNAKI」の軒先では、ポニーテールの女性が、水撒きをしていた。そこで、気配を感じたのか、女性が、こちらを振り返った。
「おはよう。暑いわねぇ」
誠二さんの奥さんの、由香さんだ。身長160センチほど。小さな顔と大きな目が、小動物を連想させる。誠二さんの2歳下だから、36か7歳だ。水撒きは、とても素敵な習慣だ。一瞬、そう考えた後、「おはようございます」と言って、笑い返した。
「コンキリエ」という白いペンキで描かれた、看板を確認すると、その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気で、正気になった。という事は、今までは、正気ではなかったのだ。そんなことを考えながら、店内を奧へ進む。定位置である、右端の席に着いた。セルフサービスで、銀のピッチャーからグラスに水を汲む。口を付けた。喉を鳴らすと、乾涸びた細胞が、生き返っていく。
「早いね」
声の方を見る。マスターの姿を見止めた途端、その言葉が口を吐いて出た。
「実は、展示会に参加しないかって、誘われたの」
「凄いじゃん」
その大声に、驚いた。そこで、マスターの大きな笑みに気付いた。ホッと安堵すると、「ありがとう」と言って、笑い返す。
「何の話?」
声の方を見る。すると、そこにいたのは、店員の瑞恵さんだった。色白で、薄縁の眼鏡を掛けている。28歳か9歳だ。そこで、瑞恵さんにも、同じ話を繰り返してする。
「展示会に参加しないかって、誘われたの」
「へぇー。良かったじゃない」
瑞恵さんの対応は、誰に対しても変わらない。皆は、そんな彼女の事を優しいと言う。しかし、私は、違うのではないかと思っている。単に、他人に興味がないのだろう、と。良い人は、他人と距離があるから、そう見えるものから。
「お待たせ」
その声で、我に返った。目の前のお皿からは、豚肉と夏野菜の、芳ばしい匂いがしている。フォークを手に取った。
「そういや、稔君の送別会か何かする?」
その声で、顔を上げた。思わずマスターと見つめ合う。
「良いわね」
瑞恵さんが、口を挟んだ。その言葉に、ホッと安堵した。食事の続きに取り掛かろうとした時、視線を感じた。顔を上げると、そこには、瑞恵さんの笑みがあった。反射的に「うん」と答える。
その後、話は、どんどん具体的になっていった。
「ここで、出来れば、良いんだけど」
「構わないよ」
稔さんとの関係が、ぎくしゃくしているからか、進んで話に参加する気になれない。2人の話を聞き流しながら、フォークを動かし続けた。
店を出た瞬間、12時前の太陽が、照り付けた。
花屋「HUNAKI」の前を過ぎた。
アトリエへと続く、鉄階段は、太陽に照らされ、熱々になっている。階段を上がろうとした時、誠二さんが、奧からバイクを曳いて来た。後ろの籠には、配達用の花が、積まれている。すると、誠二さんが、口を開いた。
「暑いね-。今から?」
「うん」
言った所で、次の言葉を躊躇った。おずおず口を開く。
「そういや、今度、稔さんの送別会しようって」
「愈々なんだ。その日は、空けとくよ」
続けて言ってしまう。
「それと、今度、展示会、開くんだ。良かったら」
「へぇー。是非、観に行かせて貰うよ」
今、ここには、私を否定するものが、何1つない。そう思うと、全身が、ぼんやりした、温かな膜に覆われていく。これが、幸せというものか。
不意に、我に返った。先程、誠二さんが、この場を立ち去ったのだ。その事を思い出すと、鉄階段の続きを上がる。
ドアノブを引いた瞬間、熱風が押し寄せた。熱気の中に足を踏み入れると、遮光カーテンの引かれた、暗い部屋に、電気とエアコンを点けた。
ブーッ、ブーッ。
その振動音で、我に返った。遮光カーテンの隙間から見える、窓の外は、すっかり薄暗くなっている。鼓動が高鳴った。エアコンを点けてからの記憶がないのだ。
鞄の中からスマホを取り出した。恐る恐る電源を入れる。
17:16
その表示に、気が遠退く。部屋に着いてから、40分以上も経っていたのだ! 気を取り直すと、ロックを解除した。
水木葵、展示会の件
全文表示させる。
一通り読み終えると、頭の中を一旦、整理しようと、深呼吸した。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。