8月22日 お礼の雨
鉄階段の下に自転車を止めた。流れ落ちる汗を、手の甲で拭う。白い建物の影の中から出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。
花屋「HUNAKI」の軒先では、色鮮やかな花が、咲き誇っている。
「コンキリエ」という白いペンキで描かれた、看板を確認すると、その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気に、生き返った。そこで、踏み出そうとした、足を止めた。カウンターに、黒髪で、グレーのTシャツ姿の男性を見止めたのだ。
一瞬の後、意を決した。「おはよう」と言い、男性の隣の席に着く。すると、稔さんが、顔を上げた。「おはよう」と言って、笑い返した。その笑みに、ホッと安堵した。
銀のピッチャーを手に取る。
グラスに口を付ける。喉を鳴らすと、乾涸らびた細胞が、生き返っていく。
「そういや、美里ちゃんのご両親から、連絡があったよ」
「ゴホッ、ゴホ」
水が、気管支に入った。
「大丈夫?」
ナプキンで口元を拭った。
「大丈夫」
少し間があった後、稔さんが、その理由を説明した。
「言ってた野菜が、出来たって」
そう言えば、両親が上京した際、稔さんが、同席してくれた事があった。
「本当に、送ってくれるなんて、感激だよ」
次第に、やるせなくなって来た。稔さんに連絡するなら、私にも、知らせてくれれば、良いのに。パパへの苛立ちを、稔さんに向けるのは、お門違いだ。分かってはいるが、この苛立ちの、やり場がない。怒りを静めようと、グラスに水を汲んだ。
店を出た瞬間、12時を過ぎた、太陽が照り付けた。
「これから、また、大学に戻らないと・・・」
声の方を見る。すると、稔さんは、眩しいのか、目を細める様にしていた。何と言って良いか分からず、いつもの言葉を繰り返した。
「大変だね」
「本当、大変だよ」
稔さんは、下を向く様にしたかと思うと、また、すぐに、顔を上げた。
「じゃあ、またね」
稔さんは、笑顔だ。小さく手を振っている。それが、分かると、私も、「またね」と言って、手を振り返した。
回れ右した。「ホッ」と息を吐く。花屋「HUNAKI」の軒先では、色取り取りの花が、届く筈のない、太陽を目指していた。
アトリエへと続く、鉄階段は、強烈な太陽に照らされ、熱々の鉄板の様になっている。
カン、カン、カン。
鉄階段に響く、暴力的な音に、束の間の安堵を覚える。
ドアノブを引いた瞬間、熱風が襲った。その中に足を踏み入れると、遮光カーテを引いた、暗い部屋に、電気とエアコンを点けた。
ただ、ニュースの見出しだけを、目で追っていると、高ぶった神経が、落ち着いていく。
一通りチェックし終える頃には、大分、エアコンが効いていた。スマホの電源を切る。
壁に立て掛けていた、キャンバスの布を取る。すると、そこには、ぼんやりした街並みが、現われた。4ヶ月ほど描いているが、一向に、完成の目処が立たなかった。始めは、毎日、描いていたが、それが、3日、1週間となり、今では、思い出し、気が向いた時に描いていた。物事を始める前に考え過ぎるのは、良くない。私を突き動かす原動力は、もはや惰性だからだ。
キャンバスをイーゼルに立て掛ける。
見慣れた、パレットの配色に、げんなりする。それでも、溜息を押し殺すと、筆を取った。
2時間ほど経っただろうか。筆を置くと、全身に充足感が広がっていく。しかし、これは、一定の時間、筆を持ったからに他ならないのだ。もう、諦めても、良いのではないか。そう思うと、ドッと疲れた。
ドアを開けた。すると、街全体に、分厚い。灰色の雲が垂れ込めていた。
帰るまで、持たないかもしれない。豪雨になるのは、間違いないだろう。悪い予感がしながらも、自転車の鍵を外した。習慣を変えられないのは、悪い癖だ。そう思い、スタンドを蹴る。
自転車を漕ぎ出して、すぐに、予想は、的中した。雨が降り出したのだ。ここで、引き返しても、良いのだが、それでも、構わずに、ペダルを踏み込み続けた。すると、すぐに、雨脚の強さが増した。鞄の中から、折り畳み傘を取り出す。
ずぶ濡れで、駐輪場に到着した。辛うじて濡れていない所と言えば、頭の天辺くらいだ。
自転車の鍵を掛けた。もう、走ろうが、走るまいが変わらないが、一応、小走りになる。
歩いた箇所が、濡れていく。そんな事を気にしながら、廊下を進む。
エベータのボタンを押す。
足下の水溜まりをぼんやり見ていた。
チン。
その音で、我に返った。
エレベータに乗り込む。4階のボタンを押した。そこで、鏡の中に、自分の姿が、映った。これでは、まるで、貞子だ! 今、誰かが、乗り込んで来たら、どうしよう! そう思うと、居ても立ってもいられなかった。無駄だと分かっていながら、足踏みしていた。気持ちを落ち着けようと、オレンジ色の点滅を見つめる。びしょ濡れになって困るのは、自分だけではない様だ・・・。
チン。
ドアが開く。と同時に、部屋を目指した。
部屋の鍵を開けた。
玄関口に、サンダルを脱ぎ捨てた。浴室へ直進する。
浴室の足下に鞄を置いた。服を脱ごうとするが、衣服が、体に張り付き、中々、剥がれない。
漸く衣服から解放された頃には、体が、芯まで冷えていた。
シャワーの蛇口を捻る。
頭から熱湯を浴びていると、冷え切った、体が、芯から温まっていく。この安堵は、冬の寒い日の、温かいココアに似ている。その考えを思い付くと、胸が温かくなった。
リビングの窓の外には、太陽が、燦々と輝いていた。やはり、一時的なものだったのだと思う。
冷蔵庫の中から、ウォッカの瓶を取り出した。少しだけグラスに汲む。グイッと飲むと、空きっ腹に、酔いが回る。
ガラステーブルの上の、エアコンを手に取った。
雨に遭う事は、珍しくないため、対処法は心得ている。取り敢えず、鞄の中身を出した。ポーチの中身も、全部、取り出す。
ブー、ブー。
液晶画面には、知らない番号が、表示されている。鳴り続けるバイブ音に、思わず通話ボタンを押した。
「もしもし。悠木さんですか?」
「はい」
反射的に答えた。
「水木です」
「・・・」
「この間、家城先生の個展で、ご一緒した・・・」
その言葉で、漸く思い出した! 名刺は、財布の中だ!
「この間は、ありがとうございました」
その言葉で、慌てた。私も、お礼の言葉を口にする。
「こちらこそ、とても貴重な経験になりました」
「プッ。実は、今度、新しい人達で、展示会を開く企画がありまして。それで、連絡致しました」
「ええ、はい」
「大丈夫ですか?」
「はい」
「プッ。まだ、詳細は決まっていないんですけどね・・・」
突然の事に、頭が回らない。
「では、詳しい事は、メールしますので、考えてみて下さい」
その言葉で、我に返った。
「分かりました」
「失礼致します」
「こちらこそ、ありがとうございました。失礼致します」
通話終了のボタンを押した。すると、徐々に、興奮が込み上げて来た。「やった」と小さく叫ぶ。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。




