最終話・七緒、親子二人に翻弄される。
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時刻は17時を回っている。皐月が園内からいなくなったと知らせを受けてから30分が経とうとしている。一度は保育園を訪れ、三谷と二手に別れて皐月を探すことになった七緒は、裏庭から出てすぐ、破れたフェンスを見つけた。3歳くらいの子供なら易々と入れるほどだ。
フェンスの先は土手で、大きな川が流れている。危険だからと設置されたフェンスはしかし破られていては意味もない。
まさか。
七緒は嫌な予感がして慌ててフェンスを乗り越える。土手近くに行くと、そこには七緒が想像したとおり、小さな影が寂しげにぽつんと佇んでいた。
「三谷さん。皐月くん、見つけました! 裏庭のフェンスを越えた川の土手です」
七緒は皐月を見つけると直ぐに三谷に連絡を取る。
「さっちゃん」
それから七緒は皐月を怖がらせないよう、できるだけ優しい声音で声を掛ける。皐月はびくんと肩を揺らした。
「お家に戻ろう? パパが心配しているよ?」
ゆっくり、ゆっくり。怒っていないということを知ってもらうため、川に落ちないよう気にかけながら七緒は皐月との距離を縮める。
しかし皐月は七緒の求めに対して大きく首を振り、拒絶した。
目から溢れた大粒の涙が柔らかな頬を濡らしている。
「しんぱい、しない。こうくんが……ぼく、ママに捨てられたんだっていった。ぱぱだって……ぼくといるとおでこのあいだ、クシャッてなってる。ぼくがいると、めいわくでしょう? ぼく、いらない子なのっ!!」
『自分といると父親は眉間に皺を寄せている』
皐月はしゃくりを漏らし、小さな肩を揺らしながら話していく。
子供は大人が思っている以上に敏感で傷つきやすい。
三谷が皐月とどう向き合っていいのか判らず、困っていることを感じ取っているのだろう。
こうくんというのは恐らく保育園でできた友達だろう。子供は大人が何気なく口にする言葉を素直に口に出してしまう。こうくんもそうで、皐月に話した内容に悪気が無かったことなのだと思う。それ故に、だからこそ、皐月は真実だということを知り、深く傷つくのだ。
皐月は父親に相談しても困らせるだけだと判っているからこそ、こうして保育園から出たのだ。自分さえいなくなれば誰も困らせないと思って……。
ああ、なんて意地らしいのだろう。
幼いなりに、誰よりも何よりも家族を想っている皐月の気持ちに目頭が熱くなる。
七緒は気が付けば、背中を丸めて涙している小さな体を抱き寄せていた。
「……さっちゃん。僕がお母さんならさっちゃんにはきっと……」
こんな思いなんてさせない。そう思った矢先だった。
「皐月!」
皐月の名を呼ぶ張りのある低音が背後から聞こえた。ーー瞬間、七緒の腕の中にいた小さな体が震えた。
「三谷さん、皐月くんは同じ組の子に母親に捨てられたことを言われて、自分がいると迷惑をかけると思ったみたいなんです。だからできるだけゆっくり優しく接してあげてください」
肩を上下に揺らし、額に玉のような汗を浮かべてた三谷の表情はとても険しい。それは我が子を心配して散々駆け回った証しなのだが、今の皐月にとって、彼の形相はそれはそれは鬼にも思えるほどの恐ろしいものに見えることだろう。
すれ違い様、七緒がそっと口を挟む。どうか叱らないでやって欲しいと願いながらーー。
しかし、それも七緒の杞憂に終わった。三谷は七緒が考えていた以上に父親だったのだ。小さな体を強く抱きしめた。
「心配しただろうが!」
「ぱ、ぱ……」
「さっちゃん、パパはね、さっちゃんを迷惑だなんて思ってないよ。大切だから、さっちゃんのことを知るために、たくさんたくさんお勉強のご本を読んでるんだよ?」
表情や態度では常に冷ややかに装っているが、その実は誰よりも皐月を心配しているに違いない。我が子を強く抱きしめる三谷の姿に目頭が熱くなる。七緒もしゃがみ込み、皐月に話した。
「ぼく、いらないこじゃない?」
「ああ」
「ぱぱのおそばにいてもいいの?」
「ああ」
自分は厄介者ではないのかと何度も尋ねる皐月の問いに、幾度となく三谷が頷く。すると皐月は安堵したのか、大きな背中にしがみつき、わあっと声を上げて泣いた。
泣いて泣いて、ひとしきり泣いた後、口を開いたのは皐月だった。
「ぱぱ、ななお兄ちゃんもいっしょにいてくれるの?」
オレンジ色の夕陽が皐月を包む。思いきり泣いたものだから、瞼は腫れぼったい。皐月はふと思い浮かんだらしい疑問を涙声に乗せて口にした。
「ああ、一緒だ」
やはりとも言うべきか、三谷は皐月の問いに大きく頷く。
「そういうことだから、結。お前に拒否権はないぞ」
「……はい。って、ええっ?」
突然話を振られた七緒は二人が何を言っているのか判らない。感動的な場面だった筈が、空気は一変した。二人の表情を交互に窺えば、三谷の目の奥が鋭く光ったーーような気がした。
狼狽える七緒に、三谷は皐月を膝の上に乗せると、七緒と向き合った。その表情は七緒を:揶揄しているようには思えない。真剣そのものだ。
「これからも傍にいてほしい」
ポケットの中から四角いケースを取り出した。中を開ければ、そこにはシルバーリングが入っている。
「……あの、これ……って」
跪き、手を差し出すこれはまるで映画のワンシーンで見るプロポーズのようではないか。
「結婚指輪だ。社長室で呼び出したのもこれが目的だったんだが……」
「ぱぱとななお兄ちゃんけっこんするの?」
結婚? そんな馬鹿な。
彼は有能な社長で、自分はダメダメ社員。それに自分と彼は同性だ。結婚なんて有り得ない。
それなのに何故だろう。三谷からの言葉が嬉しいと思えるなんて。
いったい自分はどうしてしまったのか。
「いや、結婚って。さっちゃん、あのね。僕と三谷さんは男の子同士じゃ結婚は……」
できるわけがない。七緒がそこまで口にすると、
「でもさっき、ななお兄ちゃん、ぼくがお母さんならっていったよね?」
「えっ? そ、それは……」
『僕が皐月の母親ならーー』
たしかに、先ほどそう思ったのも口にしたのも嘘ではない。しかしあれは言葉の綾とでも言うか。
子供というのは大人の何気ない言葉さえも記憶するものだ。それを忘れていた七緒は返事に窮する。
「うそだったの? うそはいけないって先生いってたよ?」
「うっ……」
「俺とではいやか?」
三谷が尋ね、
「いやなの?」
皐月も尋ねる。
果たして自分はどう答えるのが的確だろうか。
目の前にある二人の顔を交互に見れば、三谷からは炎を宿した目にーー皐月からは純粋で真っ直ぐな目を向けられる。
七緒は二人のこの目にどうも弱い。言い逃れができなくなってしまう。
「うっ。わっ、わかりましたっ!」
とにかく、今は二人からの熱い視線から逃れたい。七緒は観念して頷いた。
頷いた七緒を見た皐月は、先ほどあんなに泣いていたにもかかわらず、もうすっかり落ち着いた様子で、「新しいママだ」と楽しげにけたけたと笑いながら飛び跳ねる。どう答えていいのか判らず頷いた七緒だが、皐月がこんなに喜んでいる姿を見るのは初めてで、これで良かったのだと皐月の姿を見てそう思う。
嬉しくなって隣にいる三谷に微笑みかけると、柔らかい感触が頬に触れたのを感じるのとほぼ同時ーーリップ音が聞こえて七緒は飛び退く。
「……っ、なにをっ!!」
驚いて三谷を見れば、常にへの字に曲がった彼の口角が上がっている。
「愛する妻にキスをして何が悪い」
「愛、って!!」
ドキドキする。心臓が破裂しそうだ。
しれっとそう話す三谷に、何も言い返す言葉がない。七緒はただただ熱を帯びた顔を俯けた。
これから先も二人に翻弄されるのだろう。
七緒は未だ消えない頬の感触に手を添えて、改めて悟ったのだった。
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