chapter 02[ghost house]
村から屋敷までの距離は遠い。僕が村を出た時は夕暮れだったのに、見上げればいつの間にか三日月お月様が顔を出していた。
当然、村外れにある幽霊屋敷は村人達から祟りがあると恐れられているため、人気なんてない。小一時間ほど獣道を進めば、間もなくして視界が開けた。
「うわ……」
思わず声を上げてしまったのは、森の中だっていうのに立派な門があったからだ。まるで中世にでも迷い込んだみたいな、そんな感じ。
「あの、すみません」
相手は幽霊かもしれないけれど、流石に黙って入るのはよくないよね。門を叩いてみたものの、中からは何の返事も返ってこない。
それどころか、村ではいつも聞こえてくる獣の遠吠えも虫の音すらもなく、シン……と静まり返っている。だから余計に恐怖心が芽生えてくるわけで――。いくら死ぬ覚悟をしてやって来ても怖いものは怖い。
ああ、カタカタ膝が笑っている。
「……失礼します」
僕は口の中に溜まっている唾をごくりと飲み込んだ。軽く門を押せば、抵抗もなく不気味な音を響かせ開く。屁っ放り腰で門をくぐり抜ければ、ほどなくして洋館が見えてきた。三階建ての大きなお屋敷だ。
人が住んでいるとでも言うかのように、いくつかある窓からは明かりがほんのりと漏れていた。
外観こそ古びていて蔦が絡まっているものの、庭も幽霊屋敷と呼ばれるほど荒れてはいない。それどころかあまり雑草がないように思える。
(ひょっとして誰か手入れをしているのかな)
不思議に思いながらもドアをノックする。だけどやっぱり門の時と同じで中からの返事はない。明かりが点いているから人がいるようなのに、何も返事がないことが恐ろしい。
ああ、押し寄せてくる恐怖で心臓がドキドキ言っている。
ギシギシと軋むドアを開けると、同時に天井に飾られている立派なシャンデリアの明るい光が飛び込んできた。薄暗い場所から突然明るい場所にやって来たおかげで目がくらくらする。
何度も深い瞬きを繰り返し、ようやく目がなれたところで玄関ホールを見渡せば、外観と同じくらい広かった。それにどこからだろう、甘い香りがする……。
この匂いはいったい何だろう。花のようでもあるし、お砂糖のようでもある。甘い香りは鼻孔を通って頭の中に充満する。この匂いは麻痺させるような作用でもあるのだろうか。さっきまでたしかにあった恐怖が少しずつ萎んで消えていく。この匂いを嗅いでいたら、頭がぼんやりしてくるんだ。
まるで夢の中にいるような感覚――。
身体がほわほわして、なんだか気持ちがいいの。
僕は何をどうすればいいのかさえもわからなくなった頭のまま、大きな玄関ホールで立ち往生していると、誰かが火を灯したらしい。ずっと奥の方にある螺旋階段が少しずつ明るくなっていく。
それから、足音がコツコツとゆっくり近づいてきた。
やがて目の前にやって来たのは、正装姿の白髪で細身のおじいさん。目尻に皺があって、なんだか優しそうな人だ。ここが幽霊屋敷だなんて思えないくらい……。
「あの、僕は――」
ダメだ。名前を名乗ろうにも頭がぼうっとしてうまくしゃべれない。
そんな僕に、おじいさんはにっこり微笑んでから頷いた。
「ウィル・リーヴィス様でございましょう? ようこそお越し下さいました。執事のサキュロンと申します。大変申し訳ございませんが主人はただ今席を外せず、代わりに私がご案内するよう申しつけられております。さあ、お疲れでしょう。ウィル様のお部屋はもう準備できております。どうぞこちらへ」
おじいさんに案内されるがまま螺旋階段を上る。踊り場に出ると、茶色い扉がいくつも連なっている。
一番奥の部屋。
執事のサキュロンさんはゆっくりドアノブを回して開けた。
「こちらでございます。どうぞお好きなようにお使いくださいませ。では、私はこれで失礼します」
サキュロンさんに案内されたのは、木枠の大きな窓がふたつある、とても広いお部屋。きっと十帖はあるんじゃないかな。
僕のお部屋に当てられたのは立派なところ。お姫様が使うような天蓋付きのベッドはとても豪華だ。見ただけでもふわふわだって判る。それにベッドの隣にあるナイトテーブルにはいつでも飲めるようにお水が入ったガラスの容器とコップが置いてある。
(これって……これって……)
僕はきっと屋敷中に漂う甘い香りでおかしくなっちゃったんだ。ここが僕のお部屋だなんて絶対に聞き間違いだ。こんなに素晴らしい場所が僕のお部屋なわけがない。
だって僕はここに住み込みで働くよう言われて来たのだから――。
そう、そうだよ。きっとここのお部屋はご主人様の奥方様がお休みになる寝室だ。掃除しなさいっていう意味なんだ。
でも困ったな。掃除道具が見当たらない。
これじゃあ掃除ができないよ。
「あの――」
せめて箒とチリトリくらいあれば――。
どう掃除すればいいのかサキュロンさんに:訊こうと振り返ったら、もう誰もない。
「あのっ!」
ぼうっとする頭のまま、急いでサキュロンさんを追いかける。
もつれる足でお部屋を出て、螺旋状の階段を駆け下りる。
だけど、僕の体は甘い香りのおかげで頭と一緒で上手く動いてくれなくて、右足が左足の行く手を邪魔しちゃったんだ。
「うわわ……」
体が仰け反る。その時だ。ふいに力強い腕が伸びてきたと思ったら、足が宙に浮いている。
何事かと見上げれば、そこにはとてもハンサムな男の人がいたんだ。
麦畑を思わせるような金髪に、オリーブの瞳。すっと通っている鼻筋。それから……弧を描いた薄い唇。
その姿が蝋燭の炎に照らされて神秘的だ。お伽噺の中に登場する王子様みたい。
うっとりして見惚れていると、男の人の唇がゆっくりと開いた。
「気になって来てみれば案の定。様子を見に来て正解だった」
男の人の声は低い。だけどとても優しいものだった。まるでベルベッドに包まれているかのようにあたたかで……心地好い。
(あれ、あれれ? でも僕、この人知ってる気がする……)
「あなたは――」
誰だったっけ……。
口を開けば、両瞼に口づけが落とされた。
「……ん」
それはとてもあたたかくて、優しい。それにお腹の奥がくすぐったい。だから僕はおかしな声を出してしまう。
「自己紹介はまた明日にしよう。おやすみ、ウィル。良い夢を――」
不思議なのは男の人の声と一緒に意識も遠くなっていくこと。
僕は言われるがままに目を閉ざした。




