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LOVE BOX  作者: 蓮冶
第三話・こひはもうもく
10/30

承・出逢ひ




 今日はいつもよりゆっくりしすぎたかもしれない。ぎらついたお天道様の陽光が千景の白い肌を刺す。

「花、花はいりませんか」

 ガマの油売りに魚売り。茶見世など、江戸の町はとても賑やかだ。

 自分の声なんか簡単に掻き消されてしまうほどの喧噪が続くその中で、千景はいっそうの声を張り上げる。

「なあ、お前。ひょっとして目が見えないのか?」

 懸命に花を売る千景に声をかけてきたのは若侍だった。

 見下すような口調が千景を嫌な気分にさせる。

 若侍は一人ではないらしい。いくつもの含み笑いが聞こえた。

「どれ、このおれが手伝ってやろう」

 若侍は言ったが、手伝ってくれるような素振りではない。

「結構です」

 千景は目いっぱい首を振り、答えると、太い腕が売り物の花を強引に奪い取った。

「やめてください! 花を返して!」

 千景は花を取り戻そうと懸命に手を伸ばす。しかしその手は空を掴むばかりだ。目が見えない千景には花がどこにあるのか判らない。

 急がないと花が枯れてしまう。そうなれば今日の収入がない。

「お願い、花を返してください」

 千景は焦った。しかし千景が焦れば焦るほど、若侍たちは面白がるばかりだ。一向に返してくれない。

「お願い、返して!」

 千景がいっそう腕を伸ばした矢先だった。体勢を崩し、地面に倒れ込んでしまった。

 そんな千景を見ても彼らは笑うばかりだ。そして次の瞬間、千景は絶望に突き落とされた。

 彼らの足下から何かを踏みにじる音がしたのだ。その音から察するに、花が手折られた可能性がある。

 これでは母親の薬代はおろか、食費さえもない。

 絶望に打ちひしがれる千景の目から涙が溢れる。

「返して、花を返して!」

 やけになった千景は若侍に向かって突進する。反撃に出たその体は、けれどもあっさりと捕まった。

「大切な花はお前の足下だ」

「可哀相に。ぐちゃぐちゃでもう売り物にならないぜ?」

 自分は母親と生きることさえも許されないのか。

 悲しみのあまりいよいよ立っていられなくなった千景は膝を折る――その時だ。

「いい加減にしないか」

 男の声がした。

 彼もまた、自分たちと同じくらいの年齢だろうか。声に張りがある。

「なんだてめぇは!」

「やるのか。よし、おれが相手になってやろう」

 一斉に鞘から刀を抜く音が聞こえる。ここで斬り合いになるのかと思えばとても悲しい。

 助けに来てくれた男は果たして彼らに勝てる力量があるだろうか。――いや、人数が多い分、不利に決まっている。

 かといって、千景は町人だ。千景は為す術なく身を縮めた。

 斬り合いが始まるのかと思いきや。

「おい、立てるか? 逃げるぞ。三十六計逃げるに()かず、だ」

 地面に蹲る千景の耳に、助けに入った男がぼそりと呟いた。同時に千景の手が引かれる。

「逃げるのか!」

「腰抜け!」

 後ろで若侍たちが罵っている。けれども男は気にすることなく走り続けた。


「やれやれ、ここまで来ればもういいだろう」

 男に手を引かれ、逃げた先はどこだろう。木の葉がさやさやと揺れる音がする。

 久しぶりに思いきり走ったことで、千景の心臓は大きく鼓動している。足は走っている時に挫いたのか、きりきりと痛んだ。

「手向かえ出来なくて悪かったな。おれはどうも剣術が苦手でな」

 そう言った男は、しかし普段から鍛えているのか、千景のように息を切らしていなかった。

 ふてぶてしく笑う男に、千景は首を傾げる。

「お侍さんなのに?」

 剣術が苦手な侍なんて聞いたことがない。千景が尋ね返すと――。

「侍だって人間だ。苦手なものもある。……って、笑うなよそこ!」

 侍は苦手だ。いつだって千景たち町人をないがしろにする。

 それなのに……。

 この男からは嫌味というものを感じない。

「あ、いえ、ごめんなさい。そんなつもりではないんです」

 毒気を抜かれた千景は、いつの間にか唇を緩めていたらしい。男に指摘され、千景は慌てて謝った。

「いいよ、本当のことだ。馬鹿にされるのも慣れた」

「ごめんなさい。そういう意味で笑ったんじゃないんです。ところでここはどこでしょう?」

 耳を澄ましてもやはり木の葉が揺れる風の音しか聞こえない。

「さっきの道から少し角を曲がったところだが……お前、ひょっとして目が見えないのか?」

「はい」

「そうか、大変だな」

「生まれた時からなのでもう慣れました。それにぼくの目は不治の病ではありません。ハシリドコロという薬草と腕のいいお医者様のお力で治るそうです。ですからご心配はいりません」

 じゃあ、これで。と千景は男と別れるため、一歩足を踏み出した途端だった。足首が悲鳴を上げた。

 千景の体が斜めに傾く。地面に倒れるかと思いきや、しかしたくましい腕によって支えられた。

「足を痛めたのか」

 ――ああ、どうしよう。自分の足がこんなでは明日からどうやって働けばいいのか。

 絶望が千景を襲う。

「よし、乗りかかった船だ。おれも手伝おう。花はもうないのか?」

「はい。今日の分はもう……。あのお侍たちに手折られました」

「だったら今日の売り物にする筈だった花代はおれが払おう。明日からはお前の花売りを手伝う。それでどうだ?」

 果たして男はなんと言ったのだろう。

 いったいどこの侍が町人なんかの手伝いをするというのか。

 千景は驚きを隠せない。

「とんでもございません。これはぼくの不注意からなったこと。助けて頂いた上に貴方様からお代を頂くなんて!」

「いいから気にするな。丁度暇をもてあましていたところだ。さて、まずはお前の足を診て貰おう。ほら、おぶされ」

 男が自分の前で跪き、腰を下ろす気配を感じて千景は身動いだ。

 背を向けている筈の男は、どうやら千景が狼狽えているのが判ったらしい。千景を急かした。

「でも」

「いいから早くしろ。この格好恥ずかしいんだよ。足、痛いんだろう?」

 何度首を振っても、男は意見を曲げない。

 千景はややあって男の言葉に甘えることにした。

 両腕を男の太い首に回し、身を委ねる。

「お前、軽いな。細いし。あまり飯食ってないだろう」

「申し訳ございません。食べ物もやっとどうにか用意できる程度で……」

「父親は?」

「他界しました。博打と酒におぼれて、借金ばかりが残っているんです」

「そうか、悪かった。聞いちゃいけないことだったかな」

「いえ、いいんです。ふっきれましたから」

(お武家さんなのにヘンなの。町人に謝るなんて)

「そういや、お前の名前、聞いてなかったな。おれは虎次郎(とらじろう)。旗本の四男坊なんだ」

「千景です」

「そうか、いい名だな」

 虎次郎が何かを話す度、背中から振動が伝わって心地好い。

(背中、お天道様の匂いがする。あたたかい)

「虎次郎様、大空に上がる花火ってさぞや綺麗なんでしょうね」

「うん? ああ、そうだな」

「……やっぱりそうなんだ。花火、一度でいいから見てみたいです。それで目が見えるようになったら、大好きなお花に囲まれて暮らすのがぼくの夢なんです」

 虎次郎とは会ったばかりだ。しかしおかしなことに彼と会うのが初めてではないような気さえする。

 だからだろう。これまで誰にも話したことがなかった夢をついうっかり語ってしまった。

 口を滑らせた千景の夢を、けれども虎次郎は笑わなかった。彼は頷き返してくれる。

 千景は、自分の戯れ言を小馬鹿にしない虎次郎に好感を覚えた。


 ――その日から、虎次郎は花売りの手伝いをしてくれるようになった。

 大身な旗本の家柄なのに少しも偉そばったところがなく、気さくで優しい。

 ことあるごとに千景の足を気遣ってくれる。その虎次郎と毎朝こうして一緒にいられることが嬉しい。

 そして千景は虎次郎を知れば知る分、彼の顔をこの目で見てみたいと思うようになっていた。

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