10話 加筆
このところ社内のどこに隠れていても(一応ちゃんと仕事はしてるんです!)すぐに新倉さんに掴まってしまう。
「早乙女さん! お願いだよ。ヴァイオリンを弾いてくれないか?」
「すみません。私弾けませんから」
手をはーなーせー!
掴まったら最後、この暑いのにあの暑苦しい顔で二言目にはヴァイオリンって、一体何なの?
何で私があの人の尻拭いのためにやらなきゃなんないのよ。
それよりもあの人が毎日第二企画部に来るもんだから、誰かさんが私に巧妙に仕事をチクチクと回してくるのよね。
ようやく新倉さんによるヴァイオリン弾け攻撃が終わった頃、デスクに戻れば…なによこれ。
本当に山のような書類がコレでもかと言わんばかりに『ど〜ん』て置いてある。
部長からもヴァイオリンくらい弾いてやれと言われる始末。
(あ…これってパワハラで人事に言えるかも)
ちゃんと部長には笑顔で、出来ないものは出来ませんときっちり断ったがな!
もう…。
もう…弾かないって決めたんだもん…。
いつもそうだ。音楽は私から幸せを奪って行く。
目を閉じれば大きな舞台に立つ自分の姿が浮かんだ。鳴り止まぬ雨のような大拍手を受けお辞儀している自分。
あれは…まだ何も知らなかった愚かな私の姿。
過去の事だもん。
「早乙女さんちょっといいかな?」
「は、はい。課長」
毎日こうやって新倉さんに業務時間を削られて行くから、私の作業時間が滞ってるのよね。
一応ノルマは果たしてるんだけどさ。
「早乙女さん…新倉を納得させるためにも、一度 弾いてみないかね」
あんたもかい…。
「…課長…」
「もし、君が本当に弾けないんならそれはそれでいいんだ。ただね、今回新倉がやったダブルブッキングの相手が相手だからな…。今後の仕事に影響が出そうなんだよ」
そんなに眉をハの字に下げても、捨てられそうな子犬の目をしても無駄よ。
中年男がそんな事する事自体キモイし、引くわ!
「……私にも(誰かさんがご丁寧に仕事を増やすから)仕事が山ほどありましてね。それに残業まで毎日していますから、無理です!」
断ったよね!
私やったよね?!
なのに、課長からの言葉は私の頭を鈍器で殴るようなものだった。
「やってくれるよね」
「課長、聞いてますか? 私のデスクの上にある山のような書類があるんですけど」
「やってくれるよね」
「…嫌です」
「やってくれるんだよね!」
おーまーえーはーきーてんのーかー!!
「それは課長命令ですか?」
「そうとも取れるね。でも、君もこれ以上肩身の狭い思いなんかしたくないだろう?」
あ…これって断れば即、新倉のやった穴を埋めれなかったって事で、私は僻地にポイって事ですよね。
う〜ん。考えように寄っちゃあそれも良いかもしれない。
「早乙女さん? やってくれるよね」
「…は…い…」
課長はさくらの言葉を聞くと、「言質はとったからね」と悪い笑みを浮かべ新倉に向かって親指を突き出した。
私は新倉、あんたに向かって中指を突き出したいわよ!
別に対策を立ててなかったあいつも悪いけど、まさかここまであの男がモテるとは思っても見なかった。
「…何…これ?」
桜のデスクの上に散らばるガラスの破片。
「触るな! 早乙女、お前は俺のデスクを使え」
それを見た課長も顔色を青ざめると他の子達に「新倉を呼んで来い!」と怒鳴りつけてた。
ヴァイオリンは指先が命。
指を怪我したら、良い音は出せない。
演奏よりも自分の指を守ってしまうから、音がなあなあになってしまう。
血相を変えてやって来た新倉が桜のデスクの上を掃除しているとそれを苦々しそうに見つめる幾つもの目。
「っう!」
引き出しやイスに触れた指先から血が滲み出る。まさかと思い新倉はイスの背もたれや引き出しの処をよく見るとそこにも割れたガラスが巧妙に張られていた。
「課長、ちょっと良いですか? 早乙女さんのデスクやイスにここまで出来る人間ってこの第二企画部の人間しかいないんですが…」
「まさか、うちの部下達に限ってそんな卑劣な事をするやつが…「いるんですよ。実際に。こうなったら早乙女さんには絶対にヴァイオリンを弾いてもらいます。ですから課長、八神たちもちょっと来てくれ」
新倉は男子社員達を集めると早々に行動に移した。
この日は、本当に災難だった。
厄日ってこう言う日の事を言うんだって思ったよ。
エレベーターに乗れば、後ろから誰かに押されて課長が中にいなかったら、本当にそのまま壁ドンで突き指する所だったし、課長がいなかったら本当に大変な事になってた。
何でこんな目に私があわなきゃなんないのよ。
全て新倉のせいだわ。
許すまじ新倉…。
新倉さんの後ろ姿を見つけた桜は、小走りで追いかけると非常階段の所で見失った。今しかない。あの男に文句を言わなきゃ。
そう思って追いかけたのが不味かったのかな…。
「新倉さん!待ってください」
「漸く弾いてくれる気になったのかい?」
「はぁ? 違います!文句を言いに来たんですよ。私はあなたのお陰で良い迷惑を受けています。それは仕事にも直接影響するような事ばかりです。その辺は理解されていますよね? 」
慌てて追いかけて来た桜を見て思わず笑顔になっていた新倉だったが、すぐに眉を顰めていた桜を見て、自分をサポートしてくれるつもりでおいかけて来たんじゃないと分かると小さくため息を吐いた。
(溜め息を吐きたいのはこっちだよ。)
桜のデスクはすぐに新倉の物と取り替えられ、仕事をするのも両隣には男子社員に挟まれる形になっている。
そのせいか、ここ二三日は山田達に仕事を押し付けられる事もない。
平和な日々を過ごしているはずだった。なのに、怒っている。
「すまない…」
なんでそんな辛そうな顔をするのよ。
一番辛いのはあなたじゃなくって、私なのよ。なのに、なんでそんな表情をするのよ。
「別に私はヴァイオリンは弾きたくもないし、弾けないもの」
もう、止めたのよ。弓を持つのも。
弦を弾くのも。
「君は!!まだそんな事を言ってるのか?」
痛い。
なんで肩を掴むのよ。
顔を苦痛に歪めたさくらを見て「ご、ごめん」って言いながらも手はそのまま肩にのせたまま。
や、止めてよね、こんなとこ誰かに見られたりしたら完璧に誤解されちゃうって!!
今でさえも女の子達に総スカンされてるのに、これ以上何かされたら同責任取ってくれるって言うのよ!!
「は、放して!」
彼の手を振りほどいて、何段か階段を駆け降りると非常口へと逃げてく。
「待ってくれ!」
待ってくれって言われて、ハイソウデスカって待つヤツなんているわけない。
この時の会話を誰かに聞かれていたなんて知らないし、まさか、非常階段の扉がタイミング良くいきなり開くなんて思っても見なかった。
「え?」
きゃぁあああああ!!
ドン!ドドドド…。
気がついた時には、さくらの身体は階段の一番下まで転げ落ちていた。
「早乙女さん!」
落ちる瞬間に見た星一つない夜空に浮かぶ三日月のように淡い笑みを浮かべる女の顔が見えた。




