鈴蘭灯《すずらんとう》の夕暮れ
はじめまして!
水蕾と申します。
不器用な調理師学校生の郁乃と、サバトラ猫のカルが織りなす異世界冒険譚です。楽しんでいただけましたら幸いです!
「――ニャアァァ!」
背後で、聞いたこともないほど鋭い鳴き声が響く。きらりと、なにかの影が視界をかすめた気がしたと同時に、冷たい真っ白な光が迫っていた。
――そのわずか前、彼女は夕暮れの街を歩いていた。
「はぁ……。 今日の調理実習のオムレツ、うまくできなかったな……」
神田すずらん通りを歩く彼女はポツリと自分にあきれたようにつぶやいた。靖国通りのにぎやかさから一歩路地へと入ると、そこはまるで時間がゆるやかに流れる別世界だ。
どこか奇妙なノスタルジーに包まれている。頭上の鈴蘭灯が、街をじんわりと染めてゆく。
彼女の名は、神保町郁乃、19才。
おばあちゃん、両親が相次いで亡くなり、半年前には、この通りで『ひかり食堂』を守り続けていた光一おじいちゃんも旅立ってしまった。
『郁乃』という名前は、おじいちゃんが特別な願いを込めて名付けてくれた、大切な名前だった。
「郁乃、たくさんのスパイスが調和して生まれる究極のカレーのようにな、……周りの人を魅了し……自然と笑顔にする、郁々たる香りをまとった女性になってほしいんだ」
『郁』という文字には、心地よい香りがただよう、文化や教養が豊かであるという意味があるのだとおじいちゃんは教えてくれた。
けれど、今の自分は調理師学校に通ってはいるものの、要領が悪く、周囲の優秀な生徒たちに比べていつも一歩遅れをとってしまう。そんな素晴らしい香りは少しもまとっていないように思える。
今日から5月、ゴールデンウィークの合間だ。周囲は就職活動で慌ただしくなり始めている。2年生の今年で学校は終わりだというのに、自分には料理の才能なんてないんじゃないか……。
思い出のつまった『ひかり食堂』を続けるだけの実力もお金もなかった。今は、お店があった建物の2階に1人だけで住んでいる。調理実習のオムレツすらまともに巻くことができない。そんな未熟さと情けなさに、胸が痛んだ。
古書のインクと紙のにおいに混ざって、街のどこからか漂う香ばしいコーヒーのにおい。それらを包むような、スパイスと飴色玉ねぎの深い香り。それこそが、彼女にとっての「我が家の香り」だった。
おじいちゃんがいなくなった今、その香りは胸を締め付けるほどに切ない。
「焦るな郁乃。カレーってのはな、じっくり、じっくり『待つ』からこそ、美味くなる」
「スパイスの尖った辛みや酸味を、お肉や野菜の旨味と馴染ませるにはな、じっくり『待つ』時間が必要なんだ。鍋の中でみんなが手を取り合って丸くなるのを、信じて待ってあげる。それがカレーの優しさなんだよ」
店を閉店せざるを得なかった寂しさのなかで、おじいちゃんが口癖のように言っていたこの言葉はいつまでも心に残っていた。
「――にゃあ」
気落ちして歩いていたところに、どこか気品のある鳴き声が聞こえた。声のした方を見ると、銀色の毛並みに、灰色のしま模様が入ったサバトラ猫が座っていた。
そのシルバーグレーの毛並みも美しかったが、何より目を引いたのはその瞳だった。神秘的な宝石のように透き通った、美しいセージグリーンをしている。
「カルちゃん……?」
かつて『ひかり食堂』の窓の外からおじいちゃんの仕事をじっとのぞいていた猫だ。生前、おじいちゃんはその猫の綺麗なセージグリーンの瞳を見て、
「スパイスの女王『カルダモン』を思わせる猫だな。お前の名前は『カル』だ」
と、嬉しそうに『カル』という名前を付けて呼んでいた。
おじいちゃんはプロの職人として、衛生面や猫の安全(猫にとってスパイスや玉ねぎは命に関わる猛毒だ)を考え、厨房のガードを鉄壁にして絶対に中に入れなかった。けれど、その姿を見守る視線は、どこか優しかったのを覚えている。
おじいちゃんが亡くなってから見かけなくなっていたが、また再会するなんて。
「カルちゃん、元気にしていた?」
しゃがみ込むと、背負っていた調理師学校のカバンをくんくんと嗅いでくる。
このカバンには、学校のコックコートとコック帽。朝自宅の水道から汲んだ水入りのマイボトル。お守りがわりのおじいちゃんが使っていた木ベラと調味料のガラス瓶が入っている。瓶はもう空になっているのだけれど……。
「もしかしてカバンのコックコートからオムレツのにおいがする? 今日も上手く巻けなくて……」
「学校では『シェフ、シルヴプレ!』って先生のオーダーのかけ声に、『ウィ!』って返事するだけでも精一杯なんだよね。ただの『はい』って意味のフランス語なのに、すごく緊張しちゃって……」
ふっとうつむき、ため息をついた。
「おじいちゃんの孫なのに、私には料理の才能ないのかなぁ……」
その言葉がわかったのか、「気にしないで」とでも言うように、指先に自分の鼻先をちょんと押し当ててきた。そこから伝わる小さなぬくもりに、胸がじんわりと熱くなる。
「そうだ。約束するよ。いつかお店を復活させたらね、あなたのために、スパイスや玉ねぎを一切使わない、特製のご馳走スープを作ってあげる」
するとセージグリーンの瞳でじっと見つめ、
「にゃあ」
と満足そうに鳴いた。
その後、気分を切り替えようと古書店に立ち寄ってみる。そこで、運命的な出会いを果たす。
棚の隅で見つけたのは、『あなたの知らないカレーのすべて』というタイトルの、少し不思議な古書だった。ページを開いた瞬間、カレーへの深い愛とワクワクするようなレシピが詰まっていて、沈んでいた心は一気に弾んだ。
(私、絶対にあきらめない。もっと勉強して、いつかおじいちゃんの『ひかり食堂』を絶対に復活させる!)
買ったばかりの本をいとおしそうに抱きしめて夕暮れの交差点へと向かう。歩行者側の信号は、鮮やかな緑色。素敵な本を買った嬉しさから、あまり周りを見ずに小走りに駆け出してしまった。
「――ニャアァァ!」
背後で、聞いたこともないほど鋭い鳴き声が響いた。
驚いて振り返ろうとする視界に、交差点を左折して急接近してくる大型トラックが見えた。視界を真っ白に染め上げる、暴力的で激しいヘッドライトの光。耳を突き刺す激しいブレーキの金属音。
(え――?)
きらりと光る美しい影が視界を横切った気がした。まるで、迫り来る巨大な鉄の塊から守ろうとするかのように。
あとは、何もわからなくなった。
買ったばかりの本をぎゅっと強く抱きしめたまま――意識は、深い深い闇のなかへ沈んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回、第2話「スズランの香り、琥珀色の光」では、サバトラ猫のカルが……立ち上がります。
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