六話 檻中の物語
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揺れる檻の中で私は目を覚ました。
頭の下に、ふにゅりと柔らかくて少し冷たいものがあって、揺れのたびに安心がひと呼吸ぶん戻ってくる。シズクの膝だと気づくまでのあいだだけ、私は夢と現実の境目に浮いていた。頬を上げると彼女の指先がすぐこめかみに触れて、熱を測るみたいに静かに往復する。車輪が規則正しく軋み、天井板の木目が波のように歪み、鉄格子の四隅が朝より濃い影を床に落としていた。
「起きたのね、頭はどう? 吐き気はない?」
「大丈夫。少し重いけど、平気よ。ここは……」
「檻の中よ。ずっと東に向かって進んでる。揺れ方が土から砂利に変わったから、街道に乗ったはず」
身を起こそうとして、両手首と足首に食い込む縄の痛みが体を元の位置へ押し戻した。麻の繊維が肌をこすって、鈍い痛みがじわじわ広がる。
視界の端から馴染みの顔が覗き込み、私と目が合うと慌ててにじり寄ってくる。ハルくんだ。
「カンナお姉ちゃん、生きてた……よかった……」
言い終わらないうちに肩口へ顔を押しつけてくるから、私はうしろへ倒れかけ、シズクの太腿が支えになった。反対側からも二人、三人と小さな体がぶつかるように寄ってくる。手が縛られているから、みんな顔と肩でしか甘えられない。見知らない子もいる。別の集落から攫われたのだろう。床板に擦れる頬の音が、ここにいる全員の“手の代わり”になっているみたいで、胸が詰まる。
完全に調子が戻ったところで私は気になってたことを切り出した。
「皆、村で何があったのか、聞いてもいい?」
訊ねると、皆は瞳に暗い影を落とす、言いたくない、聞かないでくれ、忘れたい。そんな感情が入り混じった怨箱の蓋を私は開けてしまった。それでも子供達は私の願いに応えるようにそれぞれ何があったのかを話し始めた。そして耳に入ったのは腑が煮え繰り返るような惨劇の宴だった
曰く、目の前で父を半殺しにされ、押さえつけられて動けない自分とともに人間後もに姉が犯され破てていく様を見せつけられた
と。曰く、母にナイフを持たせ息子を助けたければと、父を殺させたと。曰く、大好きだった兄が目の前で生きたまま皮を剥がれたと。曰く、手足を捥いだ母のーーにーーを挿入させられたと、曰く、弟の肉を無理やり人間達に食べさせられたと。妹とーーをし、最初にーーさせた方だけ生かしてやると言われーーを強制させられたこと曰く..曰く…曰く….曰く……….そいて使い物にならなくなったガラクタは村の広場で咽せ返るような匂いを発しながら全て焼却されたと。
もし手足が動かせたら目の前に人間に牙を突き立てていただろう、ここに居ない自分の両親もさも当然巻き込まれて居るのだから。直接居合わせなかったカンナでもこの調子なのだ、直接体験したみんなの心情は測りしれない。
子どもたちは言えないところを噛みつぶして、輪郭だけを喉から押し出す。私はそれをひとつずつ飲み込む、飲み込んで、飲み込んで、飲み込むごとに、体の真ん中で人間に対する深い憎悪の種が自分の中に植るを感じた。
ちょうど子供達の話しを聞き終え昼の中盤に差し掛かったころ、格子の向こうから乾いた笑いが転がり込んで、獣脂と酒の匂いが風より先に鼻へ届く。肩に網袋をぶら下げた人間が近づき、片足で馬車の車輪を蹴って揺れを増やしてから、わざとらしく袋を放り込んだ。粉っぽい欠片が板の節目を跳ねて転がり、私たちの足もとでばらばらに止まる。
「ほらよ、餌だ餌。犬みてぇに舐めてろ」
別の影が鉄格子を指で鳴らして、「目ぇ合わせんなよ。雑種ども、斬られてぇか」と下卑た笑いを重ねる。声が近いほど臭いも近くて、古革と汗の酸っぱさが喉に刺さり、子どもたちの肩がひとつ分すくんだ。
「大丈夫だよ、みんな、喉を痛めないようにゆっくりね。順番に食べよう」
シズクが首の角度をひとりずつ支え、縛られた手の代わりをするように頬と肩の置き場を整える。手が使えない子は口でそっと掬い、こぼれた粉は舌で押し当てて拾う。犬なんて言いたくないのに、頬と木が擦れる音が勝手に嫌な比喩を呼んでしまうから、私は落ちた欠片を膝で寄せ、輪の中央に集めて最後の最後まで子どもたちに回す。自然と、私とシズクの分は残らない。残さない。
「水は?」と、年少の子が掠れ声で問う。
すぐ外で水革袋がちゃぷと鳴り、「水ぁ高ぇんだよ。泣き声で喉潤しとけ」と、袋をわざと地面に落として靴の底で転がす音が返ってきた。
「見ろ見ろ、目ぇうるうるだ。ほら、もっと泣け。泣けば雨も降るかもな」
「やめなさい」
シズクは格子の向こうを見ない。視線は子どもたちだけに向けて、背中を撫で下ろしながら言葉を置く。「大丈夫だからね、私とカンナがついてるから」
「カンナ、食べてない」
ハルくんが眉を寄せる。
「平気。私のおなかは大きいから、みんなの分をいったん預かっておくの。あとで返すから、利子つきで。ほら、ハルくんの利子は二倍ね」
泣き笑いの顔でこくりと頷く彼を見て、シズクが横目で私に小さく笑いを零す。叱りながら甘やかすときの、息だけの笑いだ。
夜が来ても車輪は止まらない。松明の光が格子越しに細い線になって流れ、調子の外れた唄と下品な囁きが交互に混じる。意味を持たない節。遠くで狼の声。縄の食い込みは熱に変わり、痺れと痛みが席を譲り合う。
「眠っていいよ。わたしたちで見張りを回すから」
「うん……でも目が冴えちゃって」
「じゃあ、鹿をさぞ得るの。三十まで、三十の手前で、カンナは眠るから」
彼女の指を探して絡める。指が触れたところだけ体温が強くなる。
「大丈夫、私はシズクとの誓いを忘れてないよ。二人で行こう、私たちは“決して離れない”」
「知ってる」
目を閉じたまま彼女が応えて、私の額を指の背で軽くなぞる。
数を数えるあいだに眠りは浅く破れ、破れた先にも同じ揺れが続く。唄は罵りに変わり、罵りはまた笑いに戻る。笑いの合間に、鉄の先で格子をつつく「チ、チ」という嫌な音が混ざり、私は子どもたちの肩に自分の肩を押し当てて、音の位置を遠くへ追いやる。
明け方の冷気が格子から染み込み、背中の汗が急に冷える。子どもたちの肩が一斉に竦むと、シズクは衣の端を裂いて小さな肩掛けを拵え、私は体を寄せる順番を決め、交代で背中を温め合う。昼は見張り役、夜は眠り役、役目を回すと不安が均されるのだと、子どもたちが自分で覚えていく。
投げ込まれる食べ物は日を追うごとに粗く少なくなり、塩気が強く水が減る。私とシズクはそのぶんを子どもたちへ回し続け、二日、三日、口に入れていない軽さと重さが同時に体を作る。膝の力が抜けたときには、シズクが肩を差し出して私を抱きかかえる。
「交代しよう。今度は私が——」
「いらないわ、カンナの体温で温まるから」
その言葉は私を熱し温めるには十分すぎるものだった。
ある夕暮れ、馬を繋ぎ直す音と一緒に、近くの火のはぜる音、粗い笑い、そして会話。
「おい、あと三日だってよ、関所まで。紋の照合? へっ、見せるもん見せりゃ通るさ」
「通る通る。文句言う奴がいたら、耳ぇ削いでやりゃ静かになる。なぁ?」
「それよりこっちの“荷”、軽くしとくか? 重てぇと馬がもたねぇ」
「馬に文句言わせとけ。金が喋るんだよ、世の中はよ」
“紋章”“照合”。胸当てに揃いの印はなく、肩当てはちぐはぐ、歩調も号令も合わない。酒と脂と古革の匂いが渦を巻き、笑いは夜風より低くて汚い。——騎士じゃない。ただの野の徒だ。
もし最初に出会ったのが別の人間だったなら、違う道筋があっただろうか、と一瞬だけ考えて、胸の奥で芽がみし、と鳴る。答えは遅れて来る。けれど今、ひとつだけは言える。不運だったのは彼らのほう。あの笑い声は、私の中に芽吹くはずのなかった芽に水をやってしまった。
日が二つ、三つと落ちる。揺れは変わらないけれど、格子の隙に藁を噛ませて少し弱める。泣きそうな子どもたちを抱きしめ、お腹が空く子には隠していた食糧をわける。そうして、震えはゆっくりと収まっていった。
「カンナ、ねえ、レレンは……」
ハルくんが恐る恐る訊く。
「会えるよ。すぐじゃなくても、必ず。だって私、約束してるから。ね、シズク。私たち、二人で行くんだもん」
「ええ、二人でね、絶対」
そのやり取りを子どもたちが口の中で真似して、言い切りの形が小さな柱になる。揺れても、折れない。
やがて、空気が変わった。砂の乾きが薄れ、湿った土と鉄の匂いが強まる。遠くで鐘が鳴り、車輪の揺れ方が細かくなる。
ここから先は地獄になる、そんな予感がする。シズクもいつもよりも私に体を抱き寄せる、そんなシズクを安心させるために言葉を紡ぐ。
「大丈夫、私はシズクとの誓いを忘れてないよ。二人で行こう、私たちは“決して離れない”」
私が囁くと、彼女はもっと私に身を寄せてきた
馬車は列に紛れ、槍の森の前で速度を落とし、旗の影をくぐる。格子越しに見える門の石は水を吸った色で重く、向こう側から涼しい風が一帯へ流れ込んでくる。
そしてとうとう人間の街の関所を通過した。