七話 奴隷の物語 売
とうとう関所を抜け人間の街に入ったカンナとシズク
石畳に乗った瞬間、車輪の揺れが細かく変わった。格子の影が床に短く刻まれ、屋根と旗の列が視界の端で流れる。門のしめ縄に似た太い縄飾り、槍先の規則正しい角度、門兵の鎧が朝の光を鈍く跳ね返す。
空気の匂いは道ごとに層を変える。油、鉄、香辛料、濡れた布、焼いた麦、湯気の立つ汁。呼び声と靴音と金具の触れ合う音が波みたいに重なり、檻の外の世界はよく回っている、と言わんばかりに忙しい。なのに胸のなかは急に静かになった。明るさに引かれて、心臓の打ち方だけが浮き上がってくる。
門の脇で緩い検分が行われ、帳面と封蝋の音が遠く届く。馬の鼻息、鞭のひゅっと鳴る音。格子の前に影が二つ寄って、留め金へ手が伸びた。鍵は外から回されたまま、目の前で一拍だけ止まる。見張りが誰かと目で合図し、金具の舌が音を立てる。
子供達の顔も苦渋に歪む中、突如檻が開かれる。
扉が外へ押し出され、金具が板に擦れて嫌な音を引く。槍の石突きが床板を叩いて合図の代わりになる。
「おい、そこの銀と茶髪の娘だけ連れ出せ。あと他のガキどもが逃げださないように見張っておけよ」
磨かれた環が掌の上で鳴り、短い鎖がぶら下がる。首輪の輪は氷みたいに冷たく、手枷は乾いた革の匂いがした。
「いやだ、カンナお姉ちゃん行かないで!」
檻の端から小さな声が重なり、届かない手が伸びる。見張りの槍が横に払われて格子が鳴る。
私は子どもたちへ顔を向け、できるだけ普段通りの声で言った。
「大丈夫、すぐ戻るから。ここで待ってて」
「ほんとに?」
「うん、だからいい子で待ってるんだよ」
冷たい環が喉に嵌り、鎖が短く引かれる。手枷は両手を前で繋ぎ、歩幅は鎖で決められる。見張りはわざと石畳の段差で鎖を鳴らし、歩調を急かす。
「列を乱すな、雑種」
吐き捨てる声と一緒に汗と革の匂いが流れ、陽の熱が鎖に溜まる。私はシズクの肩に軽く触れる。彼女は同じ強さで押し返し、視線を前へ戻す。
門を離れると、街の顔が次々変わった。屋台の布張り、天秤棒、樽の積み上げ。路地に洗濯物がまたぎ、上の窓から女たちの声が落ちる。路肩では鍛冶の火花が流星みたいに散り、黒い犬が片目でこちらを見る。行き交う人は一度私たちを見るが、二度見は少ない。珍しいけれど、日常に溶けた珍しさだ。
曲がり角ごとに匂いは変わり、香辛料通りでは赤と黄の粉が空に揺れ、青竹の市場では湿った木の匂いが立つ。上の方では鐘が数を打ち、遠い塔の影が時刻を引きずる。
視線はある。けれど、私たちの名前を知る者はいない。顔はあって、名前はない。そんな視線の温度を、私は初めて知った。
しばらくして連れて行かれたのは大きな屋敷だった。
門柱には葉を巻いた鉄が絡み、門番は二人、交互に槍の石突きを地に触れさせる。庭には水盤がひとつ、光を受けた水面が天井に揺れを写していた。玄関の石はよく磨かれ、靴底に乾いた音を返す。
通されたのは広い部屋。天井は高く、梁が太い。中央に円形の台座が据えられ、四方は透明な格子で囲われている。どこからでも中が見える。灯りは壁際に等間隔で吊られ、炎は風にあおられない。
「向かい合わせになるように鎖で縛っておけ」
見張りの手が鎖を捌いて、私とシズクは正面で向き合う形に固定された。手枷の間に指を重ね、足幅を揃え、顎の高さを合わせる。逃げの姿勢は取らせないが、互いの目は見える。
近い距離で、シズクの琥珀色が落ち着いて私を映す。指の圧は一定で、そこにだけ熱がある。
やがて扉が二つ、三つ。衣擦れの音が層になり、香と革と金具の匂いが加わる。ざわめきは低く、輪は自然に円を作る。高いところからの視線が落ちてきて、ガラスに薄い影が幾重にも重なる。
「先見だってよ」「珍しい髪色だ」「骨格がいい、顎が落ちねえ」
「雑種でも顔が整ってりゃ値はつくさ」「近くで見ろ、目が逃げねえ」
笑い声、鼻先で鳴る音、札をめくる乾いた音。黒衣の司会役が台座の端に立ち、手元の帳面を開いた。
「静粛に。先見を始める。二名、鹿の民。どちらも稀少。構え良し、視線良し。組での出品だ」
円は一段静かになり、靴音は外周を回る。私とシズクは目を逸らさない。互いにだけ視線を置き、外側の物差しを皮膚の外に留める。
数人が近づいて、ガラスへ指を当てる。叩きはしない。指の腹で冷たさを確かめるだけだ。ガラス一枚挟んだ距離は遠い。彼らの匂いは届かない。
金持ち達の鑑賞会が一通り終わると、司会が声を張り上げ商品の紹介を行った。
黒衣の男は喉を軽く鳴らしてから、よく通る声で続けた。
「紹介する。まず容姿。白は雪、銀は光。髪色は稀少、肌は傷少なく、骨格は均整。——なかなかの器量よし」
札が一枚上がり、すぐ下がる。男は間を置かない。
「次に気性。従順で問題なし、長距離の移送中、二人は自らの分を子らに回し、喧嘩を止め、順番を作り、泣く子を介抱した。記録がある。証言がある。体重の変化がそれを裏づける」
「慈善かよ」「無駄だろ、雑種にそんなもの」
輪の外で誰かが鼻を鳴らす。
男は帳面に指を置いたまま、台の縁を軽く叩いた。
「入札開始」
数字が飛ぶ。手の合図が重なる。値は跳ね、沈み、また跳ねる。司会は札の流れを手の高さで整え、小刻みに流れを変える。
私は視線を上げない。シズクの目だけを見る。
二人で吸って、吐く。台座の縁で札が乾いた音を立て、空気が一瞬だけ止まる。
ざわめきが急に一段落ちた。重い靴音が一つ、二つ。新しい影が扉をくぐり、緑の縁取りの外套が輪の端を切る。銀の留め金。周囲の気配が横に割れて道を開ける。
低い声が一つだけ響き、札が一枚、静かに上がる。
黒衣の男が口を閉じ、手の動きを止めた。
「確認する。ジェート領主、ジズルド・オルガー殿の札」
輪が浅く波打ち、いくつかの札が躊躇のあとに降りた。
「他は?」
沈黙。
「落札」
乾いた一打。札が閉じられる音は鈍く、台座の下で小さく響いた。
視線が、はじめて一点に集まる。緑の外套の男は司会と二言三言交わし、近づいてくる。檻の前で足を止め、頭から爪先まで順に見た。視線は均一で、足元の石まで同じ温度。
「検分は後にする。移せ。支払いはここで」
領主の背後で文官が帳面を開き、金具の袋が移る音がした。重さのある音。封蝋の割れる小さな音。
「連れていけ」
透明の格子が引かれ、鎖は解かれないまま、私たちは台座から下ろされた。階段の段差で鎖が一度揺れ、私はシズクの指に力を込める。
「カンナ」
「うん、ここにいる」
「わたしも」
「大丈夫、私はシズクとの誓いを忘れてないよ、二人なら大丈夫。私たちは“決して離れない”。」
廊下はよく磨かれていて、歩くたびに灯りの影が床に揺れる。壁の絵は遠い海と山で、帆と雲の白が青に沈む。窓の外の街の屋根は近く、通りのざわめきが薄く届く。
連れていかれた先は、先ほどより狭い檻。四方ガラス、角に水差し、壁際に布と小さな桶。鍵は外側だけにある。
「ここを使え。検分は暮れ時だ。それまで体を汚すな。汚すなら内側で」
合図で扉が閉まり、鍵が掛かる。足音が遠ざかると、箱の中に静けさが戻ってきた。
鎖が短いせいで、互いの間合いは自然に近い。私は思わず笑ってしまう。
「近いね」
「ええ。助かる」
「どこが?」
「あなたの顔が、よく見えるところ」
笑って、指を握り直す。水を少しずつ分け合い、喉を湿らせる。床の布の端に腰を下ろすと、石の冷たさが腰から上がってきて、緊張で固まった筋肉がやっと現実の重さを思い出す。
「検分って、何をするんだろう」
「わからない。でも、あなたの体をあなたのものとして扱わないやり方は、わたしたちが拒めばいい」
「拒める?」
「うん」
暮れの前に一度、若い従者が来て、紙と墨と小さな秤を運び込んだ。
「記録だ。名前、年、傷の有無、癖、特筆」
紙の上で筆が走り、私たちの輪郭が文字に変わっていく。体温や鼓動は書かれない。書かれるのは数字と単語だけ。
「立って、向きを変えて。髪はそのまま、顎を落とすな。——よし」
従者は事務的で、目に感情はない。記録が終わると、秤の錘を布に包み、紙を巻いて封蝋を押す。封の印は麦の穂。
「暮れ時。鐘が三つ。呼ぶまで待て」
鍵が閉まり、足音がまた離れていく。
待ち時間は長い。長いほど、体の内側の音がよく聞こえる。喉の渇き、腹の空き、胸の速さ。
「眠れる?」
「すこし」
「じゃあ、わたしが数える。軋みじゃなくて、鐘を待つ数」
「うん。……一、二、三」
手首の草の輪がきしみ、ほどけない結び目がそこにあると確かめさせる。ほどけないで、お願い。
目を閉じると、昼の騒がしさが薄まり、街の遠い鐘の数だけが残る。外の廊下を誰かが通り、布の擦れる気配が一瞬、檻の内側を掠めた。
鐘が三つ。扉の外で鍵が回る。
「時間だ」
黒衣の男と、屋敷の従者。それから先ほどの緑の外套。
「領主のご意向で、先に確認が入る。騒ぐな」
私はシズクを見る。シズクは私を見る。
「行こう」
「ええ、二人で」
立ち上がると、鎖が短く鳴る。廊下は静かで、外の庭の水音だけが続いている。
別室は狭く、窓はなく、天井の灯りが一つ。台と椅子と帳面。
「名」
「カンナ」
「シズク」
文官が筆で紙に書き、黒衣が読み上げる。
「傷、なし。髪、稀少。視線、安定。気性、理に従う。——以上」
緑の外套の男は頷きもしないし、笑いもしない。眼差しは均一で、物差しのようにまっすぐだ。値踏みの視線は、私たちの指の結び目にだけ止まらない。
「よろしい。処置は後刻。——下げよ」
短い命令で、私たちはふたたび四方ガラスの檻へ戻される。
夜が来る。灯りは壁で増え、庭の水音は冷たくなる。街のざわめきは少し遠のき、代わりに車輪と靴音が伸びた影のように長くなる。
私はシズクの肩へ額を寄せ、彼女の吐く息の数に自分の息を合わせる。
「シズク」
「いるよ」
「——大丈夫、私はシズクとの誓いを忘れてないよ。二人で行こう。私たちは“決して離れない”。」
「ええ。決して」
夜更け、遠くの塔が七つ鳴って、庭の風が一度だけ強く揺れた。見張りの交代の靴音が二つ、廊下を往復する。鍵の束が触れ、また静かになる。
眠りは浅く、揺れはないのに身体は揺れているみたいだった。目を閉じるたび、石畳の粒の衝撃が記憶から戻ってきて、指の結び目の温度でやっと止まる。
夜の底で、私は誰にも聞こえない小さな声で言う。
「レレン」
胸の鈴は鳴らない。鳴らないままでいい。名前は、ここにある。
明け方、空の色が白へ寄るころ、館の奥で短い笛が鳴った。揃える合図だろう。使用人の足音が早くなり、扉の影が一度だけ動く。朝餉の匂いが一瞬、廊下を渡る。
私たちには別の匂いが来た。革と油と、乾いた麻。鎖を扱う匂いだ。
「立って」
短い言葉で、朝は始まる。
金具が冷たい。けれど、私たちは吸って、吐く。
「カンナ」
「うん」
「今日は、昨日よりも綺麗に立てる」
「できるよ。だって私たち、二人で行くんだもの」
日中、屋敷の中はよく動いた。階下で荷車の音、庭で水を汲む音、遠くで馬が鼻を鳴らす音。檻の前を通る足音は多く、けれど誰も立ち止まりはしない。見張りは二交代。昼の見張りは饒舌で、夜の見張りは黙る。
「お前ら、運がいいな。上が買ったんだ。下手な家に行くよりゃ身の置き場はある」
「口を慎め」
短い叱責で、靴音が離れる。
運。
たしかに、運は回る。どちらへ回っているのかは、まだ誰も知らない。
夕方、再び台座の部屋へ。
黒衣の男は淡々と帳面をめくり、紙を重ね、封をし、文官は脇で印を押す。
「受け渡しの手続き、完了。以後は館の規律に従うこと」
規律。言葉は短く、内容は長い。廊下で止まらない、食器を倒さない、声を荒げない、名を偽らない、目を逸らさない。
「質問は?」
「ない」
答えると、黒衣は頷き、文官は帳面を閉じる。緑の外套の男は一言だけ落とした。
「後は任せる」
その一言で、周囲の空気の向きが変わる。館の中の見えない川筋が、私たちを奥へ運ぶつもりで動き出したのがわかった。
夜、再び四方ガラスの檻。
水差しは朝より軽く、布は少し湿っている。外の灯りは数が減り、庭の水音は一定。遠い塔が九つ鳴って、廊下の足音が静まる。
「寒くない?」
「少し」
「寄って」
鎖が短く鳴り、私たちは互いの肩を枕にする。
「眠る前に、言って」
「うん。——大丈夫、私はシズクとの誓いを忘れてないよ。二人で行こう。私たちは“決して離れない”。」
「ありがとう」
眠りはやっぱり浅い。浅くて、でも、十分だった。
翌朝。
鐘が二つ鳴り、館の奥で短い号令が重なる。私たちは立ち、息を合わせる。
今日も、昨日より綺麗に立てる。そう思う。
廊下の向こう、緑の外套が一度だけ揺れ、銀の留め金が光を拾う。それは返事の代わりにはならない。けれど、合図にはなった。
合図は少ないほうがいい。私たちには、合図が足りている。
吸って、吐いて。目は落とさない。指は離さない。
そして今日も、台座の部屋へ。
金持ち達の鑑賞会が一通り終わると、司会が声を張り上げ商品の紹介を行った。
昨晩と同じ手順で、昨晩よりも短く、昨晩よりも高く。数字は昨日の終わりから始まり、いくつかの札は最初から降りた。
「繰り返す。二人は組。片割れ入札は不可。心中で割れば良い」
黒衣は手際よく帳面を繰り、文官の封蝋は迷いなく押される。輪の中にため息は少ない。ため息をつく暇のない速度で、手続きは動く。
緑の外套が一度、わずかに揺れた。
それで十分だ、と私たちは理解する。
そして、今日の落札も同じ名で終わる。
二人を買ったのはこの都市、ジェートの領主、ジズルド・オルガーだった。彼は早速奴隷商に多額に金銭を渡し、カンナとシズクを下卑た眼差しでいやらしく見つめるのだった。
——視線は、値段の重さに似ていた。
冷たく、均一で、重い。
私たちは互いだけを見る。
「カンナ」
「いるよ」
「わたしも」
「大丈夫。二人で行こう。私たちは“決して離れない”。」




