第二百二十七話 「魔界の刺客」【三人称視点】
──島の裏手。
黒い海に、火の色が映っていた。
燃え落ちる帆柱が海を叩き、油に火が走った。
白いマストが折れ、ぎしぎしと悲鳴を上げながら、巨大な船体がゆっくり沈んでいく。
そしてその炎の明滅を背に、海岸には二つの影が上がった。
「はぁ〜〜……なんでワシらが人族の船なんか壊す仕事せなあかんのでっしゃろ。せっかく遠路はるばる来たっちゅうのに、潮気で羽乾きませんわ」
片方は翼の生えた悪魔。
藍に近い黒の羽根をだらっと垂らし、肩まである髪を指でくるくる弄びながら、気だるげに砂利を踏む。
目は笑っていないのに、口だけが気の抜けた半笑いだ。
「がははッ! だったら今からでも“人族の子らを攫う仕事”に変えてもらうか、ヴェンザル!? あれはただの奴隷集めだけじゃないらしいぞ。勇者になりそうな芽を摘むってのも名目にあるらしいじゃないか!!」
「グラヴォーンの旦那、声がでかいでっせ。波がびびって引いとるやないですか」
もう片方は、上半身が屈強な鬼で、腰から下が馬。
身の丈は三メートルは優にあるように見える。
肩に担いだ斧は、本人の体躯よりさらに長い。
笑うたびに胸郭が鳴り、蹄が砂利を砕いた。
「もしかしたら“強い子供”もいるかもしれんぞ!?」
「まぁ、あんまり期待はしませんけど、強い子ばっかりやったらええですねぇ」
「お前は闘うのが好きだなッ!! 俺もだが!! ガハハハッ!!」
「やっかましいなぁ……」
景観は最悪、しかし会話は茶の間を彷彿とするようなソレ。
この異常が“普通”であると言わんばかりの歩幅で、二体は波打ち際をゆっくり進む。
――だが、二体の言葉はそこで切れた。
音もなく。
二体の間に、ひやりとした寒気が落ちたのだ。
藍色の髪の女が、いつの間にか二体の間に立っていた。
白い仮面に素顔は隠れ、細身の剣を下げたまま、ただ“在る”だけ。
しかしその圧倒的な殺気は、炎の揺らめきよりも真っ直ぐで、二体のぬるい空気を氷みたいに固めた。
「笑ってないで任務を続けなさい。グラヴォーン」
仮面の内側の声は平板で、逆らう余地がない。
女の名は――レイ・シルヴァリア。
煌罪の魔王、ロータス・カールグレイヴの直属。
「ヴェンザルも。余裕を見せるのはいいのだけれど、戦果を上げられなければどうなるか……忘れたとは言わせないわよ」
さっきまで大型の戦艦を沈めていた二体でさえ、肩がぴく、とすくんだ。
「な、なんやぁ、レイの姉御。おったんなら言うてくれたらよろしいのに」
「ナハハハッ、これから本気出すところでしてなぁッ!」
二体の言い訳に、仮面の奥がわずかにため息をついたように見えた。
「……まぁ、いいでしょう。あなたたちは“猊下の黄金錬成”で、魔界から呼び出された産物。たった二体に、どれだけの魂の代償を支払ったか――忘れないことね」
レイの言葉に合わせるように、地の底の話が、海風に混じって滲む。
千年前――女神に封じられた大陸。
今では“魔界”と呼ばれるその地は、大魔王に近すぎるせいで瘴気が濃く、表の世界の魔物とは“質”が違う。
生まれた命は極限まで強く、しかし千年という時間には耐えられず、燃え尽きるように消えていった。
ヴェンザルとグラヴォーンは、その“灰”から作られた。あるいは蘇された存在なのだ。
ロータスの実験――黄金錬成が、死者の魂を代償に、封じられた向こう側へ腕を伸ばした結果だ。
「私は他にやることがある。あなたたちはその為に……ここの邪魔な人族を殲滅なさい。いいわね?」
レイは軽く任務を告げ、そのまま踵を返す。
砂の上に、軽い足跡が点々と続く。
小舟が裏手の入江に揺れ、レイは黙って乗り込むと、櫂も使わず滑るように離岸した。
波紋が闇に溶ける。
「……はぁァ。あの人、いっつもアレですわ」
「ガハハッ! いいじゃねェか! それだけ俺たちを信じてるってことだ!!」
「信じるとか……えらいワシらには似合わん言葉ですわ」
ヴェンザルは苛立ちまじりに足もとを蹴った。
拳大の石が砕け、砂利が火花みたいに散る。
グラヴォーンは斧の石突きで岩をつつき、鈍い音に満足げに笑った。
攻め込むのだ、これから。
この二体はそのためだけに派遣された魔王軍の使者。
――その一部始終を、木陰の向こうから見ている影が二つ。
「見たことのない魔物だな……」
葉の隙間から覗くのは、アベル。
息は浅く、声は糸みたいに細い。
横でセリエスが片膝をつき、視線だけで海と砂浜を往復させる。
「ええ……奴らからも凄まじい力を感じますが……あの仮面の魔族はそれ以上に……」
風向きは海から。
声は乗らない。
悟られないように、気づかれないように――様子を見るだけのはずだった。
だが。
ギロ、と。
ヴェンザルの眼光が、何の脈絡も無く草むらの一点を抉った。
「……隠れてまんなァ」
「あぁ、わかってる」
会話が終わるより早く、ヴェンザルは首だけを二人に傾けた。
瞳孔が、針の穴みたいに細くなる。
次の瞬間、光が線になって突き抜けた。
「──『妖瞳穿光』ッ!」
ヴェンザルの目から放たれた魔力の光線が、一瞬で草むらごと薙ぐ。
空気が焼け、継ぎ目のない白が走る。
地面に一直線の焦げ跡が刻まれ、木の幹が紙みたいに切れて倒れた。
しかし──
「────ッ! 無事か!? セリエス!」
「はいッ!!」
間一髪──瞬時に二人は攻撃に反応し、いなしていた。
地面に身を投げ、光が二人の頭上を掠める。
すぐ後ろで岩がドロリと溶け、熱で直撃していない草まで丸く縮れた。
顔を上げると、ヴェンザルが口角を吊り上げていた。
グラヴォーンは大斧を肩から滑らせ、刃を砂に突き立てる。
「ええ反応や。ほな――」
「“狩り”の始まりだなァ!! ガハハハッ!」
黒い海が、ふたたび音を立てて目を覚ます。
灯台の光が遅れて裏手を撫で、夜が、牙を見せた。




