SNSで“普通な人”が攻撃的な理由
誰もがもっている普通という感覚の話
「自分は特別だ」と思いたい人と、「自分は普通だ」と思いたい人では、他人との向き合い方が少し違う。
特別だと思いたい人は、上を目指す。もっと知識をつける。もっと上手くなる、もっと結果を出す。自分自身を押し上げることで、「自分は人とは違う」と証明しようとする。
ところが、「普通でいたい」という欲求は少し厄介だ。
自分が普通であることを証明するために、自分自身を変える必要はない。自分より「普通ではない人」を見つければいい。
普通であることは、自分を高くすることではない。
むしろ「自分はおかしくない」
もっといえば「自分だけがズレているわけではない」と確認することに近い。
そのためには、「自分を変えるより」も比較する相手を見つけたほうが早い。
「あの人はおかしい」 「そんなことをするのは普通じゃない」「普通はこうするでしょう」
そうやって誰かを「普通ではない側」に追いやると、自分は何も変わらないまま普通の側に立てる。
それもめちゃくちゃ楽に。
特別になりたい人が自分を押し上げるのだとしたら、普通でいたい人は、ときに誰かを下げることで自分の位置を確かめようとする。
これは、他人の足元を掘るような行為だ。
自分が背伸びをして高くなるのではなく、相手の立っている場所を低くする。
するとどうだ。自分の位置は変わっていないのに、相対的には高くなったように感じられる。
SNSでは、この作業がとても簡単にできる。
誰かの変わった考え方を見つける。極端な発言を見つける。自分とは違う趣味や価値観を見つける。
そして「こんなのは普通じゃない」と言う。
それだけで、「自分はおかしくない」という安心感を得られる。
現代の承認欲求における。お手軽処方薬だ。
十人いれば十通りの考え方があり、時代が変われば常識も変わる。
住んでいる場所が変われば普通も変わる。昨日まで普通だったことが、明日には普通ではなくなることだってある。
それなのに「普通」という言葉を使うと、まるで最初から決められた正解があるように感じてしまう。
しかも、その正解は一つではない。
人によって違う。場所によって違う。時代によっても違う。
それでも「普通」という一つの言葉にまとめてしまうと、自分とは違うものを簡単に「普通ではない」と切り捨てられる。
そう考えると、問題は「普通ではない人」がいることではないのかもしれない。
答えがいくつもあるものを、わざわざ一つの「普通」にしてしまうこと。
そして、その一つの普通に自分を合わせるために、そこから外れた誰かを探し始めることだ。
自分を押し上げる必要もない。何かを成し遂げる必要もない。
ただ誰かを下に置けば、自分は普通の側にいられる。
そうして他人の足元を掘り続けた先で、ようやく手に入れた「普通」は、本当に欲しかったものなのだろうか。
答えはいくつもあるのに、「普通」という言葉に騙されて、その一つに知らず知らず固執してしまう。
その曖昧でいて流動的な、誰が決めたのかも分からない「普通」を手に入れるために、他人を蹴落とす。
そこまでして手に入れたいほど、普通は価値のあるものなのだろうか。
ここまで考えると、SNSで見かける「普通」という言葉も、少し違って見えてくる。
自分と違う人を「普通じゃない」と呼ぶことは、単なる意見の表明ではない。場合によっては、相手を「こちら側」から追い出すための言葉にもなる。
そしてこれは、SNSの小さな言い争いだけの話でもない。
歴史を振り返れば、人種や性的指向を理由に人を差別する際にも、「こちらが普通で、あちらは普通ではない」という線引きが使われてきた。
黒人だから、同性愛者だから、という違いを理由に、「普通」の側から外す。そうして排除する側の基準を当然のものとしてしまう。
もちろん、現代のSNSで誰かを「普通じゃない」と言うことと、歴史的な人種差別や同性愛差別が同じ重さだという話ではない。
ただ、そこには共通する構造がある。
自分たちを「普通」の側に置き、そこから外れた人を作ることで、自分たちの立場を正当化する。
それが武器になっている歴史を、自分たちは絶対に習ってきているからだ。
その時思ったこと「なんでこんなことしてるんだろう」は今も続いている。
普通から外れると普通に戻すことは難しいのだ。
それは、食べ物の好き嫌いと同じくらい簡単に起こってしまう。
食わず嫌いは誰にでもあること、食べてみて美味しいも誰にもあることだからだ。




