第95話 石守の弟子
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■1.市場の青年
朝の市場は、賑やかだった。
果物売りの声が、石畳の間を飛び交い、香辛料の甘い匂いが、狭い路地に充満していた。アリアは、細い荷物袋を肩に提げて、野菜の列をゆっくりと歩きながら、一人の青年を、目で追っていた。特に急いでいる様子は、見せなかった。ただの旅人が、市場を眺めているように、見えなければならなかった。
カリン、という名の弟子は、二十歳を少し超えたくらいの、細身の男だった。灰色のローブを肩から羽織り、右脇に何冊かの帳面を抱えながら、薬草売りの前で立ち止まっていた。選ぶ手つきが、丁寧だった。一枚一枚の葉を、指先でそっと触れて、傷のないものだけを、慎重に選び取っていた。売り手の老婆が何か言うたびに、深く頷いて、礼儀正しく答えていた。その様子は、懸命だった。与えられた仕事を、丁寧に、こなしている。そういう人間だということが、遠目にも、伝わってきた。
クロードが、アリアの耳元で、静かに、囁いた。青白い光は、市場の人々には、見えていなかった。
「あの子が、カリンです。幼い頃から塔の膝元で育ち、正式な弟子になって、三年になります。真面目で、疑問を持ちにくいタイプに、見えますが——でも、立ち居振る舞いを見ている限り、何かを、感じてはいる。内側に、抱えているものが、ある。昨日、石守の話が出るたびに、表情が、一瞬だけ、止まっていました」
アリアは、特に表情を変えずに、同じ方向へ歩いた。
接触の仕方は、昨夜のうちに、決めていた。強引にいかない。たまたま隣り合わせになった、見知らぬ旅人として、話しかける。クルトの警告は、まだ耳に、残っていた——「石守は、帝国すら、恐れている力を、持つ。近づくな」。しかし、アリアたちの方針は、すでに、固まっていた。壁を壊すのではなく、内側から変える。そのためには、まず、内側にいる誰かと、話さなければならなかった。壁の外から、いくら叫んでも、届かない声が、ある。
カリンが、薬草の代金を払い終えて、振り返った。アリアは、ちょうどその隣に、立っていた。歩いてきた方向から、自然に、そこへ辿り着いたように。
「ずいぶん、丁寧に選ぶんですね」
カリンは、一瞬、驚いた顔をした。それから、はにかんだように、小さく笑った。
「石守様が、傷んだものを嫌うので……。できるだけ、いいものを持っていきたくて」
その答えは、素直だった。言葉を、飾らない。アリアは、その素直さを、確かめるように、頷いた。二人は、しばらく同じ方向を、歩いた。
■2.二百年の守護者
カリンは、話しやすい青年だった。
アリアが旅人だと告げると、「遠くから来たんですか」と、素直に聞き返した。警戒心が、あまりない——というより、知らない人間に、慣れていない、という様子だった。塔の中で育ったのかもしれない、とアリアは思った。人と話すことは好きだけれど、人との距離の測り方を、あまり知らない。そういう青年に、見えた。
「この街に来たのは、初めてで。でも、石守様の名前は、来る前から聞いていました。二百年も、この街を守っている、と」
カリンの目が、柔らかく輝いた。
「そうです。石守様は、偉大な方です。二百年前の大火も、百年前の疫病も、石守様が結界を張ったから、この街は残ったんです。ここに住む人間は、みんな石守様のおかげで生きていると言っても、過言ではない。私が弟子になれたことを、今でも、誇りに思っています」
それは、暗記した言葉ではなかった。カリンは、本当にそう、信じていた。疑う余地もなく、それが当然のことのように、信じていた。その眼差しは、透き通っていた。
アリアは、頷きながら、次の一手を、考えた。
『急がない。この子は、嘘をつかない。だから、こちらも、正直に話さなければいけない部分がある』
「石守様は、どんな方ですか。お会いになったことは、ありますか」
「はい、何度も。お使いの帰りに声をかけていただいたり、帳面の整理を見ていただいたり。とても、静かな方です。感情を、あまり表には出さない。でも……」
カリンは、少し、間を置いた。
「……お会いするたびに、思うことが、あって」
「何を、思うんですか」
アリアは、追わずに、待った。市場は、賑やかなまま、二人のことなど気にしていなかった。
青年は、視線を地面に落とした。市場の石畳の、古い継ぎ目の上に、目を置いたまま、小声で、言った。
「石守様は……人間なのかな、と思うことが、あります。声が、違う。話すたびに、少しずつ、変わっているような気がして……でも、そんなこと言ったら、失礼かと思って、誰にも、話したことがなかった」
アリアは、その言葉を、黙って聞いた。カリンは、誰かに言いたかったのかもしれない、とアリアは思った。ずっと、一人で、抱えていた。
クロードが、静かに、アリアの耳に、言った。
「……カリンは、薄々、感じています」
■3.帳簿の話
アリアは、その言葉を、正面から受け止めた。
急いで方向を変えてはいけない、と思った。カリンが漏らした言葉は、彼自身がまだ整理できていないものだった。そこに、こちらの論理を押し込めば、扉は閉まる。人は、追われると、戻る。逃げ道を残したまま、待たなければならない。
「声が、違う、というのは……具体的に、どういう感じですか」
「うまく言えないんですが」カリンは、頬を掻いた。「低い日と、高い日が、ある、というか。抑揚の、付け方が変わる日がある。でも、外見は、ずっと同じなんです。二十年前の弟子の記録を読んだら、今と同じ顔をしていたって、書いてあって……」
「それを、おかしいとは、思わなかったんですか」
「思いました。でも——石守様は、偉大な魔法使いだから、老いない術を持っているのかもしれない、って、先輩に言われて。それなら、そうかな、と……」
アリアは、頷いた。
嘘ではない、とアリアは思った。誰かが、そう教えて、カリンは、それを信じた。信じたかったのかもしれない。信じた方が、楽だから。疑問を持ち続けることは、疲れることだから。二百年の信仰の前では、一人の若者の違和感など、どれほど小さく見えることだろう。それでも——カリンは今日、見知らぬ旅人に、その言葉を、漏らした。それは、小さな、しかし確かな、一歩だった。
「一つ、聞いてもいいですか。石守様の帳簿——記録のようなものは、誰が管理しているんですか」
カリンの表情が、少し、変わった。
「……それは、なぜ」
「私は、数字を扱う仕事をしていて。旅先の街で、古い帳簿の整理を手伝うことが、あります。もし、許可をもらえるなら——一度だけでいいので、見せてもらえないかと、思って。報酬は、払います。記録を盗みたいとかではなく——数字が、何かを教えてくれることがある、と思っているので」
「石守様の帳簿は、塔の中に保管されています。部外者が、簡単に見られるものじゃ……」
「整理を、手伝わせてほしいだけです」アリアは、遮らずに、静かに続けた。「記録が長く積み重なれば、一人では整理しきれないことも、ある。その手伝いをしたい、ということです。邪魔には、なりません。見たものを、誰かに言いふらすつもりも、ありません」
カリンは、帳面を抱え直した。その仕草が、何かを、整理しているように、見えた。
しばらく、沈黙が続いた。果物売りが遠くで声を上げて、子供が走り抜けていった。風が、二人の間を、通り過ぎた。
「……数字は」
カリンが、呟いた。
「数字は、誰が見ても、同じだから」
その言葉には、続きがあるような気が、した。アリアは、待った。何も、言わなかった。
「……考えてみます」
それは、断りでは、なかった。
■4.クロードの判断
市場を離れて、宿への道を歩きながら、アリアは、肩口の青白い光に、聞いた。
「どう思いましたか」
「カリンは、動きます」
クロードは、静かに、断言した。
「あの子は、すでに、疑問を持っている。ただ、それを言葉にすることが、できなかった。今日、アリアがその言葉を引き出した。数字は誰が見ても同じ——あの一言は、カリンが自分に言い聞かせた言葉です。石守に対する疑問を、感情ではなく、論理で向き合おうとしている。それは、揺れている、証拠です」
「でも、裏切りになる、と怖れているはず」
「はい。だから、急いではいけない。カリンが動くとしたら——彼自身が、その意味を、自分の言葉で理解したときです。外から押してはいけない。今日のように、待つことが、大事です」
アリアは、宿の入り口の前に立って、空を見上げた。今日の空は、高かった。冬の、薄い青が、街の屋根の上に、広がっていた。遠くで鳥が鳴いて、それきり、静かになった。
「石守が本当に——何かに、乗っ取られているとしたら。二百年という時間の間に、何がすり替わったのか。記録を見れば、その断絶が、見えるかもしれない」
「見えます」クロードは、言った。「記録は、嘘をつかない。ただし、記録が残っていれば、の話ですが」
「残っていると思いますか」
「カリンが帳簿の存在を知っていた。管理している、という言い方をしていた。ならば、まだ、消えてはいない。誰かが、保管している」
アリアは、目を閉じた。
『この街は、二百年分の記憶を、持っている。石守が何者であれ、その記憶は、数字の形で残っているはずだ。そして数字は、嘘をつかない』
「カリンが来てくれたとき——私たちは、何を最初に見ればいい?」
「収支ではなく、日付と署名です」クロードは、答えた。「人間は、何百年も、同じ筆跡では書けない。筆跡が変わった場所に、断絶がある。そこに、何があったかを、調べる。それが、最初の手がかりになります」
アリアは、頷いた。
夕暮れが、近づいていた。市場の喧騒が、遠くで静かになっていくのが聞こえた。明日、カリンが来るかどうかは、まだわからない。しかし、あの青年の瞳に、一瞬だけ、何かが光ったのを、アリアは、確かに、見ていた。
数字は、誰が見ても、同じだから——と、カリンは、言った。その言葉は、石守への信仰ではなかった。自分自身に向けた、静かな、宣言だった。疑問を、論理で裏打ちしようとしている、若者の、決意だった。
扉が、少しだけ、開いた。
『(第96話へつづく)』
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