第72話 ヴェンツェルの選択
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■1.老技術者の抵抗
ヴェンツェルが、兵士に掴みかかった。
老いた体だ。力では、若い兵士に敵うはずもない。七十を超えた体が、それでも、必死に、遺物を持つ腕にしがみついた。兵士がよろめき、六個目の遺物が、床に転がる。乾いた音が、広間に響いた。
「顧問! 貴様、正気か!」指揮官が、剣を抜いた。
「正気だとも」ヴェンツェルは、床に組み伏せられながら、叫んだ。「正気だからこそ、止めているのだ! 君たちは、何を起動しようとしているのか、分かっていない!」
兵士に押さえ込まれながら、それでもヴェンツェルは、抵抗を続けた。傷んだ膝が、石床に叩きつけられても、叫ぶのをやめなかった。数十年を帝国に捧げてきた男が、今、帝国の命令に、初めて、抗っていた。皺の刻まれた顔に、痛みの色があった。それでも、目だけは、揺れていなかった。
ヴェンツェルは、技術者だった。力で戦う人間ではない。だが、今この瞬間、彼には分かっていた。言葉でも、知識でも、もう間に合わない。指揮官は聞かない。兵士は動く。なら、体を使うしかない。七十を超えた腕の、最後の仕事だ——そう決めた瞬間の顔が、石床に叩きつけられながらも、ぶれていなかった。痛みに歪みながら、それでも、その目だけは、いつか来るべき瞬間を、待っていた。
アリアが、思わず、一歩、踏み出しかけた。セリアが、素早く、その腕を掴んだ。「待って」と、静かに言う。「今は、鍵さんに、時間を渡すことが、大事です」アリアが、唇を噛んで、止まった。二人とも、歯がゆさを、顔に出さないように、こらえていた。
その一瞬の混乱が、鍵に、時間を与えた。
鍵は、石板に集中した。中枢は、まだ迷っている。遺物の「起動せよ」と、鍵の「中断せよ」の間で。ここで、決定的な一手を打てば、天秤は、こちらに傾く。ヴェンツェルが体を張って作ってくれた、数秒の猶予。それを、無駄にするわけには、いかない。
「クロード、中枢の状態は」
「起動処理は、六割で停止しています」クロードが答えた。「あなたの割り込みが、効いています。ですが、遺物がすべてはまれば、この均衡は、崩れます」
残された窓は、狭い。鍵は、次の言葉を、考えた。
■2.皇帝の影
指揮官は、ヴェンツェルを兵士に引き剥がさせ、鍵に、剣を向けた。
広間の赤い光の中で、指揮官の顔は、怒りを通り越して、憎悪に染まっていた。管理者は目覚めかかり、そこに邪魔が入り、思い描いていた栄光が、かすみかけている。長年、皇帝の命を奉じ、大陸を旅してきた男の、溜め込んだ焦りが、今、爆発しかけていた。
「もう、我慢ならん」指揮官の声は、憎悪に満ちていた。「術者、貴様が中枢を邪魔しているな。今すぐ、その割り込みを、やめろ。さもなくば——」
「さもなくば?」鍵は、石板から目を離さずに、聞いた。
「その精霊を、貴様の目の前で、砕く」指揮官は、クロードの光に、剣先を向けた。「陛下は、精霊さえあれば、術者は替えが利くと仰せだ。貴様が邪魔なら、精霊だけ、持ち帰る」
鍵の手が、止まった。
クロードを、砕く。その言葉が、鍵の冷静さを、揺さぶった。二年間、共に歩んできた相棒。ブルーの帳簿を整え、コランの工房で汗をかき、カレンシア城の暗闘を潜り抜けた。データを整え、時に生意気に突き返し、闇の坑道を照らしてくれた、あの光を——それを、壊すと言っている。
『こいつらは、本当にやる。』
だが、鍵は、気づいていた。指揮官のその脅しこそ、皇帝カイゼルの本質だと。力を、道具としか見ない。人も、精霊も、意のままにならなければ、砕いて奪う。それが、帝国の頂点に立つ男の、考え方だった。ヴェンツェルが、以前に言っていたことが、ここで、形になっている。力を持つ者の傍らにいると、いつの間にか、何もかもが道具に見えてくる——その言葉を、今、肌で感じた。
指揮官は、遺物を「鍵」と呼ばず「素材」と呼んだ。コード魔法を「術」と呼ばず「道具」と呼んだ。ここに来てから、指揮官が、人や物の名前を、一度も呼んだことがない、と鍵は気づいた。すべてが、役割でしかなかった。名前のないものは、壊しやすい——それが、帝国の論理なのだと、鍵は理解した。
「クロード」鍵は、静かに聞いた。「怖いか」
「……はい」クロードは、正直に答えた。「ですが、鍵さん。割り込みを、やめないでください。私が砕かれても、中枢が暴走すれば、大陸が、失われます。——優先順位は、明確です」
「明確、か」鍵は、苦く笑った。こんなときでも、クロードは、感情ではなく、優先順位で語る。怖いと言いながら、それでも、正しい選択肢を選ぶ。だが、その冷静さが、今は、何より頼もしかった。取り乱した人間の決断より、順序立てた判断のほうが、命を救う。それを、鍵は、現場で、何度も見てきた。
クロードが、「怖い」と言えることが、重要だった。怖くないふりをしているのではない。怖さを認めた上で、なお、正しい選択をしている。アルヴァには、感情がなかった。だから、矛盾した命令の中で、迷い続けた。クロードには、感情がある。そして、感情があるからこそ、優先順位を、自分で決められる。それが、二つを分けるものだ、と鍵は思った。
■3.断る力
その言葉が、鍵の迷いを、断ち切った。
クロードは、断ることができる。矛盾した選択の中から、正しい優先順位を選べる。「自分を守れ」という願いと、「大陸を守れ」という使命。その二つを天秤にかけて、迷わず後者を選んだ。アルヴァには、決してできなかったことだ。アルヴァは、すべての命令を受け取り続けた。矛盾が生じても、優先順位を決められなかった。だから、壊れた。
クロードは、違う。壊れることを、自分で、拒むことができる。
鍵は、一瞬、この二年間を思い返した。最初に出会ったとき、クロードは、ただ、指示を待つ精霊だった。言われたことを正確にこなし、求められたことを正確に返す。それで十分だと、どちらも思っていた。だが、今は違う。クロードは、迷い、考え、怖いと言い、それでも選ぶ。それがいつから始まったのか、鍵には、はっきり分からない。気がついたら、そうなっていた。共に歩いた時間が、どちらをも、変えていた。
「分かった」鍵は、頷いた。「お前を、信じる」
鍵は、脅しに屈さず、石板に、次の指示を書き込んだ。指揮官の顔が、怒りで歪む。
「愚か者が!」指揮官が、クロードに向かって、剣を振り上げた。
その刹那——ヴェンツェルが、再び、動いた。
床に転がされ、押さえられていた老人が、兵士の手をすり抜けた。転がっていた六個目の遺物を、枯れた腕に力を込めて、拾い上げる。鍵は、その動きを、目の端で追った。ヴェンツェルが、何をするか、直感した瞬間——
老人は、渾身の力で、それを広間の奥の、深い縦穴へと、投げ込んだ。
遺物が、闇に消える。
硬い物が、遠くへと落ちていく音が、長く、続いた。壁に当たり、弾み、また落ちていく。やがて、途絶えた。そして、静寂が、戻った。
ヴェンツェルは、その静寂の中で、床に手をついた。老いた体が、ようやく、力を使い果たした。膝が、震えている。息が、荒い。それでも、顔を上げた。
「これで、二割どころか、揃うことは、二度とない」ヴェンツェルは、肩で息をしながら、言った。「君たちの計画は、今、終わった」
■4.裏切りの代償
指揮官の顔が、憤怒で、真っ赤になった。
「オルグレン……! 貴様、帝国を、裏切ったな……!」
広間に、沈黙が落ちた。兵士たちが、互いの顔を見た。長年、帝国の技術顧問として仕えてきた人物が、今、帝国の計画を、自らの手で、葬った。その事実の重さが、全員に、のしかかっていた。
「裏切ってなど、いない」ヴェンツェルは、静かに、しかし毅然と答えた。「私は、帝国を、破滅から救ったのだ。いつか、分かる日が来る」
「陛下は、決して、貴様を許さん」
「構わない」ヴェンツェルは、微笑んだ。老いた顔に、憑き物が落ちたような、穏やかさがあった。「私は、長年、間違った忠義に、縛られてきた。正しさより、命令を優先してきた。そのことを、ずっと、分かっていながら——今日、ようやく、それを、断つことができた」
鍵は、その姿に、クロードを重ねた。断る力。従順であることをやめる勇気。それは、精霊だけでなく、人にとっても、身を守り、世界を守る力なのかもしれない。アルヴァが持てなかったもの。クロードが持っているもの。そして今、ヴェンツェルが、人生の終盤で、ようやく手にしたもの。三つの存在が、同じ問いへの、それぞれの答えを持っていた。
中枢の光が、ゆっくりと、鎮まっていく。遺物が永遠に欠けたことで、起動の均衡は、完全に、停止へと傾いた。赤く渦巻いていた壁の光が、少しずつ、青白さを取り戻していく。
誰も、声を出さなかった。広間全体が、静寂の中に、落ちていく。勝利の声も、安堵の声も、出なかった。そういう気分では、なかった。ヴェンツェルが、床に手をつきながら、小さく、息を吐いた。それが、この場にいた全員の、本音だった。失われたものの重さが、勝利の実感を、上回っていた。
だが、鍵は、油断しなかった。
指揮官は、まだ、広間にいた。剣を手に、それでも、動けずにいる。遺物を失い、管理者は眠り続け、王国の補助部隊がいつ来るかも分からない。その状況が、彼の行動を、縛っていた。それでも、その目に、諦めはなかった。ここで、次を打てばいい——そう思っているのが、顔に出ていた。
鍵は、指揮官の顔を、正面から見た。この男は、今後、諦めない。帝国が諦めない。今日の出来事は、帝国の計画を止めただけで、帝国の意志を止めてはいない。それを理解した上で、鍵は、次を考え始めていた。
「まだ、終わっていない」鍵は、中枢を見つめた。「起動は止まった。でも、二百年前のエラーは、まだ、あそこに、残っている。——中枢を、本当に、安全にするには」
『封じなければ、ならない。』
ヴェンツェルが、鍵の横に立った。膝が痛むのだろう、わずかによろけた。それでも、彼は、中枢を見据えたまま、口を開いた。
「案内しましょう」ヴェンツェルは、静かに言った。「中枢への道は、私が、知っています」
鍵は、頷いた。そして、歩き出した。
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