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呪文は日本語。IT社員の俺、コード魔法で異世界の壊れた仕組みを全部直します  作者: ノーコードLab


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第41話 リンと一緒にヴェルト全域へ展開する

毎日20時、更新予定です!

■1.リンの1ヶ月


「先週、川上村と川下村に行きました」


リンが話しはじめたのは、午前の打ち合わせが終わって間もなくのことだった。テーブルの上には彼女が自分でまとめた手書きの記録が広げられている。字は丁寧で、数字に下線が引いてある。村の名前、訪問した日付、話した相手の名前と役職、そして気になった点が箇条書きになっている。


「二つの村は水の取り合いをしていたんですが——」


「聞いたことある」鍵は言った。「毎年秋に揉めるやつだろ」


「そうです。長年の慣習で、上流の村が優先的に使えるという話になっていたんですが、実際は誰も量を測っていなかったみたいで。今回、どちらの村も帳簿をつけてみたら、取水量がほぼ同じだって分かったんです。均等に調整できるって、初めて数字で見えた。それで村長同士も話し合いやすくなって」


リンは少し照れたように視線を下げた。


「解決したのは自分たちで、私はほとんど帳簿の付け方を教えただけなんですけど」


「それで十分だ」


鍵は彼女の記録に目を落とした。川上村、川下村、それから先月訪れた丘の上の小さな集落。三つの村の名前と、それぞれの帳簿の状況、わかった問題点、次にやること。手書きだが構成はしっかりしている。鍵が何かを言うより前に、リン自身が整理して書き出している。


「三つ、自分で回ったのか」


「はい。馬を借りて。少し怖かったですけど」


「怖かったのは馬か、村人か」


「どちらも」


リンが小さく笑った。


就任して一ヶ月、この子は確実に変わっている。最初に会ったとき、彼女は鍵の後ろを黙ってついてくるだけだった。名前を覚えるのも精一杯で、帳簿と聞けば首をすくめていた。今は自分で馬を借りて、見知らぬ村に乗り込んで、長年解決しなかった水争いの話を帳簿一冊で整理している。


「川上村と川下村、次は何をする予定?」


「月に一度、どちらかの村長が帳簿を持ち寄って、一緒に確認することにしました。私が毎回行かなくてもいいように」


鍵は思わず手を止めた。


「……それ、自分で考えたのか」


「はい。毎回私が行くのは無理ですし、そもそも彼らが自分でできるほうがいいと思って」


『そういう判断が、自然と出てくるようになったか。』


ヴェルトに来て最初の一ヶ月は、クロスとの綱引きと収穫予測の試験で終わった。二ヶ月目は数字が実際に当たることを見せた。そして今、三ヶ月目で、現場を動かす人間が育ちはじめている。


鍵はなにも言わず、リンの報告書にゆっくりと目を通した。


■2.「俺がいなくても回る」


その夜、宿の食堂でアリアが温めたスープを口にしながら言った。


「リン、すごく変わりましたね」


「そうだな」


「最初は自分から話もしなかったのに、今日は一人で三つの村を回ったって。しかも帰ってきて、ちゃんと記録にまとめてある」


鍵はパンをちぎりながら「一ヶ月でそうなった」と答えた。


「鍵さんが教えたんですか」


「教えたのはほとんど何もない。帳簿の見方と、数字で考える癖だけだ。あとは自分でやった」


アリアがスプーンを置いた。


「また新しい場所に行くんですね」


「そういうこと」


「もうちょっとここにいてもいいんじゃないかって、思わないんですか」


鍵は少し考えてから言った。


「俺がいるうちは、みんな俺に聞く。それが普通の反応だ。でも俺がいなくなると、自分で考えるしかなくなる。リンが今日話してくれたこと——村長同士で月に一度確認する仕組みを作ったこと——あれは俺がいたら出てこなかったかもしれない」


アリアはしばらく黙っていた。


「つまり、いなくなることも仕事のうち?」


「最初から、それが目的だ」鍵は言った。「自分なしで動ける体制を作ること。それが終わったら次に行く」


「それって……寂しくないんですか」


「寂しくはないな」


嘘ではない。きちんと機能しているものを見届けて去るのは、むしろ気持ちがいい。工場のラインが正常に稼働しているのを確認してから帰るときの感覚に似ている。自分がいなくても回っている——それが一番の完成だと思っている。自分が戻らないと止まる仕組みは、まだ完成していない。


アリアはスプーンを持ち直して、スープをすくった。


「……面白い仕事ですね」


「そう思うか」


「思います。でも私には無理かも」


「なんで」


「情が移りすぎる」


鍵は少し笑った。アリアらしい答えだと思った。情が移ることは欠点ではない。ただ、仕組みの設計はその感情とは別のところでやる必要がある。でも両方できる人間もいる。


「リンは?」


「リンは……できると思います。あの子、ちゃんと考えてますよ。情もあるし、でも数字も見える」


『そうだな。だから支社長に向いている。』


鍵はスープを飲み干して、そろそろ引き継ぎの段取りを考えようと思った。


■3.引き継ぎ


翌日、鍵はリンを呼んで正式な引き継ぎの話をした。クロードも同席した。


「困ったことがあれば、クロードに聞いてください」


リンがクロードを見た。クロードは普段と同じ穏やかな顔をしている。


「クロードさんは、遠くにいてもつながってるんですか」


「声が届く範囲なら」


「じゃあ、王都に戻ったら聞けなくなるってことですか」


クロードが少し間を置いた。


「……週一で定期報告を設定しましょう」


鍵は吹き出すのをなんとかこらえた。リンが真顔でうなずいている。


「じゃあ月曜の朝にしましょうか」


「はい、それで」


「あと、急ぎの時は?」


「……月曜を待ってください」


「そんなに待てない時は?」


「では緊急用に水曜も」


「じゃあ、週二回ですね」


「……そうなりました」


クロードの顔はいつも通りおだやかだったが、鍵には心なしか疲れたように見えた。リンはというと、すでにそのスケジュールを手帳に書き込んでいる。ペンを走らせる音が食堂に響いた。


「帳簿のつき方で分からなかったことがあったら聞いてもいいですか」


「もちろんです」


「収穫予測モデルのこともですか」


「それも」


「じゃあクロスさんのこともいいですか。あの人、今でもちょっと怖くて」


クロードが真顔で答えた。「農務大臣は基本的に帳簿の数字に素直に従います。数字を持って話しかければ大丈夫です」


「数字を持って……」


「根拠のある数字であれば、あの方はちゃんと聞いてくれます。それはリンさんも経験したはずです」


リンがゆっくりうなずいた。「そうでした。最初にデータを見せた時、表情が変わりましたよね」


「ええ。あれが大臣の本来の仕事の仕方です」


それから鍵は、支社としての基本的な運営の話をした。帳簿の管理方法、国王への定期報告のタイミング、クロスとの連携のとり方、村に行くときに持っていくべき書類の一覧。リンは全部、手帳に書き留めた。途中で「質問していいですか」と言いながら確認する。「これは今すぐやることですか、それとも状況を見て判断することですか」と聞く。その区別をするようになったのも、この一ヶ月の変化だと鍵は思った。


「近隣の村、あと何ヶ所回る予定ですか」と鍵が聞いた。


「地図を見たら、似たような規模の村がヴェルト周辺に六つあって、そのうち二つはまだ帳簿もありません。まずそこを、年内に」


「年内に二つ」


「多いですか」


「いや、妥当だ」


鍵は引き継ぎ書類の最後のページを閉じた。


最後に鍵は言った。


「ヴェルトはリンに任せた」


リンが顔を上げた。


「……本当にいいんですか」


「本当に」


「私で、大丈夫ですか」


「川上村と川下村に自分で行って、月一回の確認の仕組みを作った人間が、大丈夫じゃないはずがない」


リンはしばらく黙っていた。窓の外でヴェルトの朝市の声が聞こえる。野菜を売る声、荷物を運ぶ音、子どもが何かを叫ぶ声。三ヶ月前、鍵が初めてここに来たときも同じ音がしていた。それから、ゆっくり言った。


「わかりました。やってみます」


「困ったら週二回クロードに聞け」


「はい」


クロードがそっと「それで解決しない場合は鍵さんに連絡してください」と補足した。


鍵は「それは週二回の後で」と答えた。


■4.別れ


出発の朝、荷馬車の前でリンが立っていた。


空は曇っていた。ヴェルトの秋は日が昇るのが遅い。街の石畳が朝露でうっすら濡れていて、馬の息が白く流れた。


馬車には大した荷物はない。もともと鍵たちが持ち込んだものは少ない。クロードは助手席に座っていて、アリアが荷台に上がって荷物の固定を確認している。クロスが宿の入口から腕を組んで見ていた。農務大臣らしくない、すこし柔らかい顔をしている。鍵と目が合うと、小さく頷いた。言葉はなかったが、それで十分だった。


「次はどこに行くんですか」


リンが聞いた。


「海の都市だ」


「海……」


リンが少し遠い目をした。ヴェルトは内陸の農業都市で、海はずっと南にある。ここで生まれ育った人間には、遠い話だ。


「見たことないです、海」


「俺も、この世界では初めてだ」


「どんなところなんでしょう」


「知らない。行ってみないと分からない」


リンがうなずいた。それから、思い出したように言った。


「見てきたら、教えてください」


鍵は馬車のステップに足をかけながら振り返った。


「報告する」


「楽しみにしてます」


リンが笑った。一ヶ月前には見なかった種類の笑顔だと鍵は思った。何かを待っている人間の顔ではなく、自分の仕事がある人間の顔だ。次の月曜、クロードに報告することが頭にある。年内に回る六つの村のうち残り四つのことが、すでに視野に入っている。そういう顔をしている。


馬車が動き出した。


街道を少し進んだところで、アリアが後ろを振り返った。


「リン、まだ見てますよ」


「そうか」


「手、振ってあげないんですか」


「振った」


「振ってないですよ」


鍵は黙って前を向いた。振らなくていいと思っている。あの子はもう、後ろを向く必要のない仕事の中にいる。


馬車はヴェルトの街を出て、南の街道へ入った。


馬車の揺れが、徐々に規則的になっていった。


遠くに、まだ見えない海がある。


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