第40話 リンをヴェルト支社長に任命する
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■1.成果報告
王都の謁見室は、六ヶ月ぶりだった。
天井の高い石造りの部屋。窓から差し込む午前の光が、石畳に長い影をつくっている。六ヶ月前にここへ来たとき、鍵は手元に仮説しかなかった。今日は数字を持ってきた。
「六ヶ月前に約束した試験運用の結果を、ご報告に参りました」
鍵は羊皮紙の束をテーブルに置いた。アリアが隣で姿勢を正し、クロードは少し後ろで静かに立っている。
謁見室の正面には国王ブレインが座っていた。白髪交じりの顎髭、穏やかだが鋭い目。その表情は、六ヶ月前と大きく変わっていない——どっしりと構えて、何でも受け止める用意がある顔だった。そのとなりには財務大臣クロスがいる。腕組みをして、試験運用が始まった日から変わらない懐疑的な顔のままだった。
「数字を見せてもらいましょう」
ブレインが先に言った。
鍵はノートを開き、クロードに目配せした。
「ヴェルト国内、五村での試験期間の集計です」クロードが静かに述べる。「収穫量の平均増加率は、試験前比較で+17.8パーセント。鉱山採掘効率は+12パーセント。ヴェルト国庫への試算上の利益換算は、年間で金貨2,140枚相当。双方に利益が出る構成です」
数字を聞いた瞬間、クロス大臣の腕がわずかに動いた。ほどけかけて、また組み直した。
「……内訳を聞かせてください」
声に、六ヶ月前とは違う何かがあった。批判ではなく、確認だった。大臣は今日、反論するために来ているのではなかった。
鍵はページをめくった。
「収穫予測の精度は、最終的に誤差1.8パーセントまで改善しました。これはリン——ヴェルト地区の記録担当が、五年分の農地データを手作業で整備してくれたことが大きい。鉱山については、採掘ルートの最適化提案をクロードが毎週更新し、現場の責任者が採否を判断する形で運用しました」
「つまり、魔法任せではない」とブレインが言った。
「はい。データを読む人間が現場にいて、判断するのは現場です。クロードは処理と提案をする。それだけです」
ブレインはしばらく羊皮紙を手に取り、数字を目で追った。謁見室の中はしばらく静かだった。
クロス大臣が口を開く。
「……数字は、正直でした」
ぽつりとした言葉だった。
認めたくない何かを飲み込んで、それでも言わなければならないと判断した人間の声だった。六ヶ月前、試験運用に反対したクロス大臣が今ここでそれを言う。それは反論より重い言葉だと、鍵は思った。
「ありがとうございます」
余分なことは言わなかった。
「正式採用としましょう」ブレインが言った。「今後も継続して、収穫予測と採掘管理への技術提供を続けてもらいたい。費用については改めて協議を——」
「ありがとうございます」と鍵はもう一度言った。「ただ——今日はもう一つ、提案があってまいりました」
■2.継続体制の提案
「今回の成果を継続するには、現地にデータ収集担当が必要です」
鍵は新しいページを開いた。
「六ヶ月、私たちがヴェルトに通いながら運用しました。月に数回、農家を回り、鉱山を訪ね、データを集めてクロードに渡す。それはそれで機能していました。でも正直、限界があります」
「どういうことですか」とブレインが聞いた。
「季節ごとに変わる農地の状態、鉱山の微妙なコンディション変化——それを外から見に行くのと、現地に根を張っている人間が毎日記録するのとでは、データの質が根本的に違う。それがこの六ヶ月でわかりました。今回の精度が出せたのは、現地で動いてくれた人間がいたからです」
クロス大臣が眉を動かした。
「ヴェルト常駐の担当者を置く、と」
「そういうことです。ただの記録係ではありません。AIカンパニーのヴェルト支社長として、現地の窓口と判断をすべて担う人材を置きたい。農家との関係構築、データの取捨選択、月次報告の取りまとめ。王都との連絡は、私たちが定期的に確認します」
「費用は」
「支社長の報酬は、AIカンパニーが持ちます。国に追加負担は発生しません」
ブレインが静かに頷いた。「その人物に、心当たりがあると」
「います」
鍵はノートを閉じた。
「この試験期間、私が一番信頼を置いた人間が、ヴェルトにいます。農村の出身で、農家のことがわかる。帳簿が書ける。データを読むことを、この六ヶ月で自分の力で身につけた。そして何より——誠実に記録できる人間です」
アリアが隣でかすかに微笑んでいた。
「名前は」とブレインが聞いた。
「リンといいます」
■3.リンへの打診
ヴェルトに戻ったのは、三日後だった。
収穫前の農地は黄金色に変わりかけていて、風が穂を揺らすたびに日差しが跳ねた。六ヶ月前、鍵がここへ来たとき、畑はまだ夏の緑だった。それがこんな色になった。季節が変わった。データが積み重なった。
リンの家は村の中程にある。木造の小さな家だが、軒先に干した野菜が几帳面に並んでいた。
「鍵さん、アリアさん」
リンが顔を出した。麻の前掛けに、インクのしみが残っている。帳簿をつけていたのだろう。
「少し話せますか」
三人で縁台に腰掛けた。農地の向こうに山が見え、鳥が鳴いた。集落のどこかで子どもが笑う声がして、また遠くなった。
「正式採用が決まりました」と鍵は言った。
リンの目が丸くなった。「本当ですか」
「ブレイン国王も、クロス大臣も、数字を見て認めた。この六ヶ月の成果は本物です。リンが整備したデータが、全部の基礎になっている」
「よかった……」リンが息を吐いた。「本当に、よかった」
その声に、六ヶ月分の緊張が滲んでいた。初めて農地データを渡してきたときの、緊張した手。「こんなものでも役に立ちますか」と聞いてきたときの目。それを鍵は覚えていた。
「もう一つ、お願いがあります」
鍵はリンをまっすぐ見た。
「ヴェルト支社長になってほしい」
リンが固まった。
風が吹いて、穂が揺れた。遠くで誰かが草を刈る音がした。
「……支社長」
「AIカンパニーのヴェルト拠点の責任者です。現地のデータ収集、農家や鉱山との窓口、毎月の報告書の作成。王都への定期連絡もお願いしたい。決定権を持つのはリン自身です」
「私は」リンがゆっくり言った。「農家の娘で——帳簿を手伝っていただけで——」
「農村のことがわかる。それがまず一つ。数字が読める。これが二つ目。そしてこの六ヶ月、あなたが整備してくれた農地データがなければ、収穫予測は半分以下の精度でした。それが三つ目です」
「でも、支社長なんて大げさな——私に務まるかどうか——」
「誠実に記録できる。それだけで充分です」
リンが下を向いた。指がわずかに前掛けの裾を握っている。風が穂の波をつくって通り過ぎていく。
「……いきなりでは、答えられないです」
「当然です」と鍵は言った。
「一晩、考えていいですか」
「いくらでも」
アリアが口を添えた。「迷うのは当たり前だよ。私もエルム支社を立ち上げたときのテオのこと、今でも覚えてる。彼も最初は『自分で本当にいいんですか』って聞いてた」
「テオさんが」リンがわずかに顔を上げた。
「そう。農家の息子で、計算が好きなだけの若者だって思ってた。でも今、エルムで一番頼れる人間になってる。数字を読む力と、現場を知ってることと、誠実さ——それが全部あれば、肩書きなんて後からついてくる」
リンはまた下を向いた。しばらく、風の音だけが続いた。
「……少し、考えさせてください」
「待ちます」
鍵たちが立ち上がろうとしたとき、リンが一度だけ顔を上げた。その目には、迷いとは別の何か——真剣な火のようなものが、小さく灯っていた。
■4.リンの決断
翌朝、まだ日が低いうちに声がした。
宿の扉をノックする音。鍵が開けると、リンが立っていた。麻の前掛けではなく、きちんとした外出着を着ていた。手に小さな包みを持っている。村の果物を包んだものだった。「朝食の前でしたら」と差し出してくる。
鍵は受け取り、リンを部屋に招き入れた。
「やります」
それだけだった。
余計な言葉はなかった。昨夜どれだけ悩んだか、どんな逡巡があったか、そういうことは何も言わなかった。決断した人間の言葉というのは、だいたいこういうものだ。
「父に相談しました」
リンが続ける。「昨夜、全部話しました。データのこと、収穫予測のこと、支社長の話。父は最初、黙って聞いていて——最後にこう言ったんです」
「なんと言いましたか」
「『お前は昔から、記録するのが好きだった』と」
風が宿の廊下を通り抜けた。
「子どもの頃から、村の出来事を書き留めるのが好きで。どの畑で何が採れたか、今年の雨はどれくらいだったか。父は、そのノートを全部とってあったんです。二十年分」
鍵は何も言わなかった。
「見せてもらいました。子どもの字で、びっしり書いてある。父が言うには、私が初めて帳簿をつけた日のことを今でも覚えているって。村の古い収穫記録が読めなくなりそうだからって、全部書き写し始めたのが十歳のときだって」
「それを見て」
「見て、父が言いました。『やってみろ』と」
シンプルだった。
テオが「やります」と言ったときも、こういう感じだった、と鍵は思い出した。長い逡巡があって、しかし言葉は短かった。ためらいは消えていて、残っているのは意志だけだった。
「わかりました」
鍵はリンに手を差し出した。握手は異世界ではなじみのない仕草だったが、リンは一瞬だけ戸惑って、それから両手でしっかりと握り返してきた。
「よろしくお願いします、支社長」
リンが——ほんの少し、目を細めた。泣くのをこらえているのか、それとも笑っているのか、どちらともつかない顔だった。窓の外で朝の光が農地を照らし、黄金色の穂がゆっくりと揺れた。
「よろしくお願いします」
■5.支社設立・次へ
「AIカンパニー ヴェルト支社、正式発足です」
アリアが羊皮紙に署名し、リンに渡した。リンはそれをしばらく見つめてから、丁寧に折りたたんで胸のポケットにしまった。これが自分のものになる実感が、まだついてきていないような手つきだった。
クロードが空中に光の板を展開した。
「組織図を更新します」
エルム支社の下に、新しい行が加わった。
AIカンパニー ヴェルト支社——支社長:リン。
「処理キューを再配分します」クロードが言った。「エルム支社の農地データとヴェルト支社のデータを並列処理する形に変更します。収穫予測の計算速度が向上する見込みです」
「相変わらず仕事が速いな」と鍵が言った。
「定義が明確でしたので」
リンが光の板を見上げた。自分の名前が浮かんでいる。じっと、長い間、見つめていた。
「鍵さん」
「なんですか」
「これ——本物ですよね」
「本物です」
リンがゆっくりと頷いた。六ヶ月前、収穫前の不安を抱えながら帳簿を差し出してきた農家の娘が、今ここに立っている。数字を読み、データを整え、冬を越え、春を越え、そして今日、自分の名前が組織図に刻まれた。それはリンが積み上げた六ヶ月が、形になった瞬間だった。
「わからないことがあったら、聞いてください」と鍵は言った。「エルムのテオとも連絡を取れるようにします。先輩支社長として、色々教えてくれるはずです」
「テオさんに」リンが少し笑った。「ぜひ」
鍵はノートを開いた。
次のページには、すでに書き始めていた文字がある。
海洋都市ブルー——調査事項。
「次はどちらへ行かれるんですか」とリンが聞いた。
「ブルーです。港町で、漁業と貿易の記録管理に課題があると聞いています」
「ミナさんから手紙が来てます」アリアが懐から取り出した。封蝋には碇の紋章。「『いつでも来てください。ただし、海は揺れますよ』だそうです」
鍵は少し笑った。
「そういう前置きをする人間は、大抵ちゃんとしてる」
ヴェルトの農地が、朝の光の中で金色に輝いていた。穂の波が風に揺れる。リンがその景色を振り返り、それからまた鍵を見た。深呼吸して、背筋を伸ばした。さっきまで迷いがあった顔が、少しだけ変わっていた。
「頑張ります」
「任せました」
AIカンパニーの組織図に、二つ目の支社名が刻まれた日。鍵は次の目的地に向けてノートを閉じ、アリアが碇の封蝋を割った。
海への旅は、もう始まっていた。
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