第38話 農務大臣のサボタージュ
■1.データが来ない
試験運用が始まって、2週間が過ぎた。
鍵はオフィスの作業台——石造りの部屋に持ち込んだ木製の大テーブル——の前に座り、広げたノートを眺めていた。ヴェルト王国農業改革計画、フェーズ1。最初のマイルストーンは「今年の作付け記録の収集と整理」だった。農地面積、作物種別、収穫予測。これが揃わないと、次の分析が何も始まらない。
ミナが部屋に入ってきた。16歳の見習い書記官で、今回の試験運用ではデータ受け取り担当を任せている。
「また来ませんでした」
「農務省からの書類?」
「はい。今日で3回目の催促になります」
鍵はペンを置いた。
1回目の催促は5日前。2回目は3日前。どちらも「現在取りまとめ中」という返答だった。3回目の返答は——来なかった。
「催促の書面は残してあるか」
「はい、控えが全部あります」
「よし、持ってきてくれ」
ミナがすぐに書類を取りに走った。鍵はノートに状況を書き出す。データ未着。催促3回。返答遅延。こういうときに「遅れている原因」をすっ飛ばして感情的に動いても意味がない。まず現状を整理する。理由は後から判明する。
「クロード、農務省の書類発行にかかる標準的な時間ってわかるか」
傍らに立っていたクロードが答えた。
「この国の行政文書の平均は3日から5日です。作付け記録は各地方農協から集約する必要があるため、最長でも10日と聞いています。現在14日経過しています」
ミナが小声で言う。
「これって……意図的に遅らせているんでしょうか」
鍵はしばらく考えた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
ただ、確認はしに行かなければならない。
■2.農務省へ乗り込む
農務省の庁舎は王城から馬車で半刻ほどの場所にあった。石造りの威圧的な建物で、入口には衛兵が二人立っている。
鍵はアリアと並んで正面玄関をくぐった。
「大臣に面会を求める。国王陛下の試験運用承認のもと、農業改革推進室の者だ」
衛兵が顔を見合わせ、奥の担当者を呼びに行った。待つこと10分。案内されたのは3階の応接室だった。
クロス大臣は椅子に深く座り、鍵たちを部屋に通してからもすぐには口を開かなかった。60代半ば、厳しい目つき、白髪交じりの頭。農務一筋で30年を生きてきたという顔だった。
「……改革推進室の方々ですか」
「はい。先日来ご連絡を差し上げていた作付け記録の件で伺いました」
「記録ね」
クロス大臣は短く繰り返した。視線が鍵の手元のノートに止まる。
「農務省の記録は農務省が管理するものです。その扱いについては、我々の判断で行います」
「国王陛下の承認がある試験運用です。その実施に必要なデータ提供については、大臣にもご協力いただく旨、書面でお伝えしているはずですが」
「書面はいただきました」
大臣は微動だにしない。
「ただ、書面に『試験運用の実施を承認する』とあっても、実行するのは私の部下です。証拠もなく効果も未知数の計画のために、現場の仕事を止めるわけにはいかない。それが私の判断です」
「証拠が不十分、と?」
「現状では」
アリアが横で小さく息を吸うのが聞こえた。反論しようとしているのだろう。鍵は軽く手を挙げて制した。
大臣と言い合っても何も動かない。
重要なのは、大臣が何を守ろうとしているか、だ。
■3.本音を引き出す
「少しよろしいですか」
鍵は姿勢を変え、正面から大臣を見た。
「今の農業改革案への反対理由として、大臣がおっしゃったのは『証拠が不十分』です。でもそれは表の言葉で、本当にお困りのことは別にあるんじゃないかと思っています」
「……どういう意味ですか」
「大臣は30年、農務一筋でやってこられた。この国の農業の現状を誰より知っている人間が、データの分析や効率化に原理的に反対するとは思えない。反対するには、別の理由がある」
クロス大臣が初めて、わずかに表情を動かした。
「あなたが守りたいのは何ですか」
部屋が静かになった。
アリアが隣で息を詰めているのがわかる。クロードは気配を消すようにして壁際に立っている。
クロス大臣は長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……財源だ」
鍵はノートを広げた。聞く姿勢を示すために。
「農業改革で土地の農業転換を進めるとなれば、これまで農地に隣接した鉱山を運営してきた業者への補償が発生する。灌漑工事で水路を変えれば、上流の採掘業者が影響を受ける。その補償金の財源が、現状の王国財政には存在しない」
「鉱山業者への補償、ですね」
「あなた方の計画では、農地拡大と水路整備が主軸です。それは正しい。だが正しいことをやれば、損をする者が出る。その損を誰が埋めるのか。そこへの答えが、試験運用の書面のどこにもない」
大臣は机の上に両手を置き、やや前のめりになった。
「農務大臣というのは、農業だけを見ていればいい役職ではないのです。鉱山業者も、林業者も、水利権を持つ地方貴族も、みんな農務省の傘の下にある。一つを動かせば、必ず別の何かが揺れる。その揺れを吸収する手当てがなければ、私は動かせない。動いてはいけない」
鍵はノートに素早く書き留めた。
「なるほど。つまり大臣が止めているのは、農業改革そのものではなく——補償財源の手当てがないまま進めると、後で収拾がつかなくなるからだ、ということですか」
大臣が少し間を置いて、頷いた。
「私はこの国の農業行政を崩したくない。問題があれば言い、解決できれば認める。それだけのことだ」
鍵はペンを置いた。
頭の中で整理が動く。補償財源がない。鉱山業者が損をするから反対できない。だとすれば——鉱山業者が損をしない方法を作ればいい。いや、それだけじゃない。鉱山業者の利益を増やしながら、採掘量を抑える方法。そういう提案なら、補償の必要がなくなる。
「大臣、一つ確認させてください」
「何ですか」
「鉱山業者が困る理由は、採掘量が減って収益が落ちるからですよね」
「そうです。水路整備で採掘ルートが変わる鉱山もある。事業縮小になれば補償が必要になる」
「では、採掘量を下げながら収益が上がる方法があれば——補償の問題は起きない、ということになりますか」
大臣が目を細めた。
「理論上はそうなります。が、採掘量を下げて収益が上がるというのは、どういうことですか」
「採掘効率の改善です」
鍵はノートに図を描き始めた。
「今の鉱山業者は、採掘ルートの最適化を感覚と経験でやっています。坑道の選択、掘削のタイミング、運搬経路。これをデータで管理すれば、同じ労力でより価値の高い鉱石を選んで採掘できる。量を減らしても、取れるものの品質が上がれば収益は維持できる。場合によっては増える」
アリアが横から口を挟んだ。
「効率化というのは、少ない資源で同じ成果を出すことですが、少ない採掘量で同じ——あるいはそれ以上の収益を出すことも、同じ話です」
「それに」鍵が続けた。「採掘データを整理することで、今まで見えていなかった鉱脈が発見されることもある。実際、私が以前に関わった別の事例では、データ整理だけで2割の収率改善が起きました」
異世界での話ではない——前の世界での話だ。が、論理そのものは変わらない。
「……本当にできるのですか、そんなことが」
「やってみないとわかりません。でも農業改革と同時進行で、鉱山の採掘データを収集して分析する提案をすることはできます。鉱山業者にとっても悪い話ではないはずです。効率が上がれば、彼らの利益も増える」
クロス大臣は腕を組み、視線を窓の外に向けた。
長い沈黙だった。
鍵は急かさなかった。こういうとき、相手が考える時間を奪うと逆効果になる。
「……」
大臣がゆっくりと視線を戻した。
「それなら話は別だ」
声のトーンが、最初から変わっていた。
「農業データと同時に鉱山効率化を進める。その提案を書面でまとめてもらえますか。鉱山業者への根回しも含めて、段階的な計画があれば、私は農務省として協力できる」
「書きます。1週間でまとめます」
「……結構」
大臣は初めて、かすかに口元を緩めた。
「あなたは変わった人間ですね。反論しにきたのかと思ったら、別の話を持ってきた」
「反論しても状況は変わらないので」
「そうですか」
大臣は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「農務省として、協力を検討します」
■4.突破口
翌朝。
オフィスに戻った鍵が書類の整理をしていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「来ました!」
ミナが両手で大きな書類束を抱えて飛び込んできた。顔が赤い。
「農務省から! 今年の作付け記録、全部です! 地方農協のデータも全部入ってます!」
アリアが書類を受け取って中身を確認し、目を丸くした。
「昨日の今日で……」
鍵はノートから顔を上げた。
「部数は?」
「17冊です。3年分の比較データも添付されています」
「ありがとう、ミナ。テーブルに広げてくれ」
ミナが嬉しそうに書類を並べ始める。クロードが静かに寄ってきて、データの確認を始めた。
アリアが鍵の横に立って、小声で言った。
「……クロス大臣って、守旧派の人だと思ってました」
「違った」
「財源のことで動けなかっただけ、ですよね。悪者じゃなかった」
「大臣は実務家だよ。現実の制約の中で動いていた」
「でも昨日まで、すごく難しい人に見えてました」
「対立してたんじゃなくて、言い方の問題でした?」
アリアが確かめるように言った。
鍵は少し考えてから答えた。
「そういうことが多い」
組織の中で「反対している人間」に見えるとき、その人が守りたいものが見えていないだけのことは珍しくない。反論を押し通すより、何を守ろうとしているかを聞いたほうが早い。鍵が業務改善をやってきた年数の中で、何度も確認してきたことだった。
ミナが広げたデータを見ながら声を上げた。
「この数字……南部の麦の収穫量、3年連続で落ちてますね」
「そこから始めよう」
鍵はノートを持ってテーブルに移動した。
データがある。ここからが本当のスタートだ。
窓の外では、朝の光がヴェルト王城の石畳を白く照らし始めていた。
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