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呪文は日本語。IT社員の俺、コード魔法で異世界の壊れた仕組みを全部直します  作者: ノーコードLab


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第29話 アリアの父と初めて会う

■1.訪問前の押し問答


「私は行きません」


アリアの声は静かだったが、有無を言わせない固さがあった。


朝のAIカンパニー事務所。共通フォーマット導入の作業が本格化して四日目。鍵はノートに今日のスケジュールを書き出しながら、昨晩整理した訪問先リストを眺めていた。七商会のうち残り三件——そのなかにソル商会の名前がある。


「アリア、ソル商会は訪問が必要だ。記録の保管場所が他の商会と違う形式で、直接確認しないとマッピングできない」


「わかっています。でも私が行く必要はないはずです。テオさんが同行できる」


テオが書類の束を抱えたまま、少し困った顔で二人を見た。入社して日の浅い若い書記だが、仕事の飲み込みは早い。こういう場面には慣れていないらしく、どちらの顔も見ないようにしながら、さりげなく壁の方を向いていた。


「ソル商会はクライアントだ」と鍵は言った。「私が行く」


「止めません。どうぞ」


アリアは視線を手元の帳票に落とした。それ以上こちらを見ようとしない。ペンが紙の上を走る音だけが、しばらく事務所に響いた。


鍵は少し間を置いた。


アリアとソルの関係については、断片的に聞いている。父と娘。商会と独立。感情のもつれがあること。それ以上の詳細は知らないし、今日聞こうとも思っていない。ただ、業務の都合上、今日ソル商会へ行かない選択肢はなかった。


「テオ、一緒に来てくれ」


「あ、はい」テオが即座に立ち上がった。「喜んで。準備してきます」


テオが奥の部屋へ消えると、事務所に短い沈黙が落ちた。


アリアはペンを走らせ続けている。鍵の視線には気づいているはずだが、顔を上げない。


「夕方には戻る」


「……好きにしてください」


アリアはそう言ったきり、背を向けた。


鍵はノートを閉じ、上着を手にした。


『感情の処理は、本人に任せるしかない。』


それだけ思って、事務所を出た。


■2.ソルの事務所


ソル商会の事務所は、旧市街の広場から二本入った路地に面していた。


外壁の石積みは古いが手入れが行き届いていて、看板の文字も読みやすく整えられている。鍵は建物を眺めながら、商人の性格は店構えに出る、という言葉を思い出した。几帳面で、手を抜かない人間が使っている場所だとわかる。


テオがドアを叩くと、しばらくして老齢の男が顔を出した。


六十代か、それより少し上か。体格はがっしりとして、白髪交じりの髪を後ろに束ねている。目は鋭いが、鍵を一目見た瞬間、表情がわずかにやわらいだ。商人が初対面の相手に見せる、計算でも愛想でもない、素の歓迎の顔だった。


「AIカンパニーの方ですな。お待ちしておりました」


「鍵と申します。こちらはテオ、書記を担当しています」


「ソルです。どうぞ中へ」


通された部屋は、働いている人間の場所だとすぐわかった。机の上には書類が山積みになっているが、乱雑というわけではない。それぞれの書類が何らかの基準で積み上げられ、机の端には羊皮紙の重さを測るための錘まで置いてある。テオが目を丸くして「すごい量ですね」と小声で言った。


ソルは二人に椅子を勧め、自分は机の向こう側に立った。


「娘が面倒をかけているでしょう」


先手だった。鍵は少し驚いたが、顔には出さなかった。


「むしろ助かっています。アリアがいなければ今回の共通フォーマット導入はここまで進んでいなかった」


ソルはそれを聞いて、表情を変えなかった。変えなかったが——何かがわずかに動いた。目の奥の、ごく小さな部分が。


「そうですか」


「今日は記録の保管形式を確認させてください。他の商会と照合するための作業です。三十分ほどいただければ」


「構いません。ただ——」ソルは山積みの書類をちらりと見た。「少し見苦しい状態で申し訳ない。整理が追いついていない」


「拝見できますか」


ソルが頷いたので、鍵とテオは書類に向き合った。帳票の形式、年次の並べ方、欄外への書き込みの癖。一見無秩序に見えて、ソルなりの論理で組み上げられた記録体系だとわかってきた。記号の意味、略語のルール、ページの綴じ方——すべてに意図がある。


テオが書き留めながら、ときどき確認の声をあげる。ソルはそのたびに、正確に答えた。


『几帳面で、記憶力がいい。』


鍵はノートに書き込みながら、そう思った。


■3.父の話


作業が一段落したのは、訪問からおよそ四十分後だった。


テオが写し取った書式の整理をしているあいだ、ソルが湯を沸かして杯を三つ持ってきた。薬草の香りがする、この地方の茶らしい。鍵が受け取ると、ほんのり甘みのある香気が立ち上がった。


「助かりました」と鍵が言うと、ソルは杯を置きながら「いえ」と短く返した。


部屋に、働いていた時間とは違う静けさが生まれた。


「アリアは——」


ソルが先に口を開いた。鍵は手を止めた。


「子どものころから、頭が良かった。記憶力が人並みではなかった」


話すつもりはなかったのかもしれないが、出てきた言葉は止まらなかった。


「十歳のとき、この机に座って帳簿を見ていたと思ったら、『お父さん、ここの計算が合っていない』と言ってきた。私が三日気づかなかった誤差を、初めて見た帳簿で見つけた。たいした子だと思いました」


テオが手を止めて、ソルを見ていた。


「それからは商会の仕事を一緒にやるようになった。数字の扱いも、取引の段取りも——教えれば教えるだけ吸収する。こちらが説明を途中で切り上げても、次の日には自分で調べて理解していた。いずれ商会を継がせようと思っていた」


ソルは杯を両手で包むように持った。


「ところがある日、こう言ってきた。『私は自分で何かを作りたい。お父さんの商売を引き継ぐのではなく、自分で考えたものを形にしたい』」


「いつのことですか」と鍵は聞いた。


「十七か、十八のころです。頭に血が上った。商会を継ぐことのどこが不満なのかと言いました。ここまで一緒に積み上げてきたのに、と。でも——」ソルは少し間を置いた。「あの子は一度決めたことを曲げない。私もそういう性分なので、言い合いになって、そのまま出て行った」


テオが「アリアさん、すごいじゃないですか」と言った。感想というよりは、感嘆が口から出た形だった。


「十歳で帳簿の誤りを見つけて、十七で自分で道を選んで。それってかなりのことですよ」


「そうかもしれません」とソルは静かに言った。否定しなかった。


鍵は杯を持ったまま、ソルを見た。


難しい人物だと思っていた。娘との関係が断絶しているという事実だけを聞いていたので、拒絶的な父親を想像していた。でも目の前にいるのは——娘のことを正確に覚えていて、正確に語れる人間だった。誇りと悔しさが混ざったような、整理のついていない感情を持て余している父親だった。


「今、アリアはAIカンパニーでCOOをやっています」


鍵は言った。


「あなたが思っているより遥かに仕事ができる。共通フォーマットの設計も、七商会との交渉も、全部アリアが主導している。私は技術の部分を担当していますが、業務の流れを作っているのはアリアです。今回、誰もがバラバラだった帳簿を統一できたのは、アリアが各商会の事情を正確に把握して、誰も傷つけずに合意を取り付けたからです」


ソルはしばらく何も言わなかった。


杯を机に置いて、書類の山に視線を移して、それからゆっくりと口を開いた。


「……知っています」


「え?」とテオが言った。


「噂で聞いた」ソルは短く言った。「AIカンパニーというところが商会の帳簿を整えているという話が広がっていた。そこの交渉担当がアリアだという話も。王都の商人仲間のあいだで、評判になっている」


鍵は何も言わなかった。


「驚かなかったかと言えば、嘘になる。でも——」ソルは杯の縁を親指でなぞった。「納得はしました。あの子がやりそうなことだ、と。自分で何かを作る、と言って出て行ったのだから、こういう形になるだろう、とは思っていた」


テオが何か言いかけて、やめた。空気を読んだらしい。


鍵も何も足さなかった。ソルが言い終えた言葉には、続きをつける必要がなかった。


「今日はありがとうございました」と鍵は立ち上がった。「記録の整理について、来週また確認させてください」


「構いません。いつでも」


ソルも立ち上がり、二人を入り口まで送った。戸口で、ふと立ち止まって言った。


「……よろしく頼みます」


それだけだった。


何のよろしくか、は言わなかった。言わなくても、どちらも理解していた。


■4.帰り道


旧市街の石畳を、鍵とテオは並んで歩いた。


広場を抜けると、視界が開けて空が広くなる。夕暮れにはまだ早い、傾きかけた午後の光が路面に落ちていた。石畳の継ぎ目に草が生えている。どこかの軒先から、焼いた肉の匂いが漂ってくる。


テオが何度か口を開きかけて、そのたびに閉じた。最終的に、意を決したように言った。


「ソルさん、アリアさんのこと誇りに思ってましたよ」


「そうだな」


「話し方とか、目の感じとか。怒ってる人じゃなかったですよ。なんか……折り合いの付け方がわからなくなってる人、って感じでした」


鍵は前を向いたまま歩いた。


「うまいことを言う」


「そうですか?」テオが少し照れたように言った。「なんとなくそう見えたので。あと、アリアさんの帳票の読み方とか、数字への向き合い方とか——確かにソルさんと似てましたよ。気質というか」


鍵は何も言わなかった。


似ている、か。言われてみれば、そうかもしれなかった。几帳面で、細かいことを見逃さず、一度決めたら動かない。父と娘が同じ性質を持っていて、だからこそぶつかって、だからこそ今でもそれぞれのやり方で同じ方向を向いている。


『それが伝わることは伝わった。あとは時間の問題だ。』


二人はしばらく黙って歩いた。



その夜、事務所で翌日の準備をしていると、アリアが声をかけてきた。


「……何を話したんですか」


鍵は書類から目を上げた。アリアは帳票を手にしたまま立っていて、視線は窓の外を向いていた。問いかけてきたくせに、答えを聞くのが怖いような立ち方だった。


「仕事の話だ」


「仕事の話」


「記録の形式と、共通フォーマットへの移行手順。それだけだ」


アリアはしばらく窓の外を見ていた。空はすでに暗くなっていて、遠くで夜番の鐘の音がした。


「……そうですか」


それきり何も言わなかった。でもその声は、朝の「好きにしてください」とは、少し違う響きをしていた。


鍵はそれ以上何も言わず、書類に戻った。


アリアも手元の帳票に視線を落とした。


事務所に、夜の静けさが戻った。


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