第115話 クロードへの問い
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■1.会議が終わった夜。
テオとリンが帰ったのは、昼過ぎだった。
エルムへの道、ヴェルトへの道——それぞれが、別の方向だった。テオは、出発前に、短く言った。「また、来ます」と。リンは、それを聞いて、頷いた。二人は、それぞれの馬に乗って、王都を出た。
ルナは、夕刻の船に乗ると言っていた。帰りの道に、ブルー支社の連絡先に寄るつもりだと言って、昼の間に荷物をまとめた。出発前に、鍵のところへ来た。
「報告書の記録様式を整えておきます」と、ルナが言った。「私が持っている帝国の判断基準を、文字にしておく作業——来年中に、始めます」
「ありがとう」と、鍵が言った。
「一つ、聞いていいですか」と、ルナが言った。
「どうぞ」
「帝国の報告書の遅れ——これは、何かの始まりだと思いますか。それとも、一時的なものだと思いますか」
鍵は、少しの間、黙った。
「わからない」と、鍵は言った。「ルナ、あなたは、どう思っていますか」
ルナは、静かに答えた。「始まりだと思っています」
「俺も、そう思っています」
ルナは、頷いた。それから、軽く頭を下げて、扉を出た。
カリンは、昼食を済ませた後、フォルスへ戻る準備を始めていた。地下の調査について、現地で確認しておくことがある、と言って、本社棟の廊下で荷物をまとめていた。
「鍵、一つ聞いていいか」と、カリンが言った。
「どうぞ」
「クロードは——今、大丈夫か?」
鍵は、少し、意外な顔をした。
カリンは、続けた。「会議のとき、クロードが何か言いたそうにして、言わなかった場面があった。フォルスの管理者の記号の話をしていたとき。俺が気づいただけかもしれないが」
鍵は、クロードを見た。青白い光が、静かに浮いていた。
「大丈夫じゃないかもしれない」と、鍵は言った。「ただ、何が大丈夫じゃないのか——まだ、わかっていない」
カリンは、それを聞いて、少し黙った。それから、「そうか」と言った。
「また、連絡する」と、カリンは言った。
「ありがとう」
カリンが、本社棟を出ていった。
夕刻が、来た。
本社棟に、鍵と、クロードと、アリアだけが残った。
アリアは、一階の台所で、昨日の宴の後片付けの確認をしていた。
鍵は、二階の部屋に、一人でいた。
窓の外に、王都の夕空が広がっていた。橙色と、紺色が、混ざり合っていた。
クロードが、部屋の中に、浮いていた。
鍵は、窓に背を向けて、椅子に座った。
「クロード」と、鍵が呼んだ。
「はい」と、クロードが答えた。
青白い光が、わずかに揺れた。それだけだった。
「今日の会議で、言いたそうにして言わなかったことがあったか」
間があった。
「特にありません」と、クロードが言った。
「そうか」と、鍵は言った。
クロードの返事が、おかしいとは、思わなかった。思わなかったが——どこか、空虚に聞こえた。「特にありません」という言葉が、答えとして正確なのかどうか、判断できなかった。
一年前にも、こういうことがあった。
クロードが、突然、動かなくなった夜。応答が止まって、光が消えかけた。あのとき、鍵は初めて、「クロードが壊れるかもしれない」という感覚を持った。その後、クロードは戻ってきた。でも、何が起きたのかは——まだ、正確にはわかっていない。
あれが、一つ目だった。
■2.「五年後、クロードは何をしていると思う?」
夕空の色が、暗くなっていた。
鍵は、窓の方に、椅子を向けた。外の光が、少しずつ、落ちていく。
「クロード、一つ聞いていいか」と、鍵が言った。
「はい」
「五年後、クロードは何をしていると思う?」
間があった。
「未来は指示に含まれていません」と、クロードが言った。
声は、静かだった。落ち着いていた。変化がなかった。
鍵は、少し、止まった。
「未来は指示に含まれていません」——その言葉を、頭の中で、繰り返した。
おかしい、と思ったのは、内容よりも、言い方だった。
クロードは、以前にも「わからない」と言ったことがある。「情報が足りない」と言ったこともある。「可能性を列挙するとすれば——」と前置きして、複数の見通しを話してくれたこともあった。
でも、「指示に含まれていません」という言い方は——違った。
それは、質問を処理する前に、質問のカテゴリを判定して、「このカテゴリは対象外です」と返す言い方だった。
「未来について考えることは、俺からの指示ではない、ということか」と、鍵は言った。
「そうです」と、クロードが答えた。迷いがなかった。
鍵は、しばらく、窓の外を見た。
夕空が、暗くなっていく。橙色が、消えていく。
「五年前、この会社を始めたとき、クロードは何と言っていたか、覚えているか」と、鍵が言った。
「覚えています」と、クロードが言った。「最初の夜、鍵が『うまくいくと思うか』と聞いた。私は『判断できる情報が、まだ不十分です』と言いました」
「そうだった」と、鍵は言った。「判断できる情報が不十分だが、でも、やってみよう、という話になった」
「そうでした」
「あのとき、クロードは、未来について、どう思っていた?」
「どう思っていたか、という問いの形式は——」と、クロードが言いかけた。
鍵は、クロードを見た。
クロードは、少し間を置いた後、続けた。「私が『思う』かどうかは、判断が難しい。でも、あのとき、可能性の試算は、していました」
「どんな試算だったか」
「九十以上の失敗パターンを、導出しました。同時に、成功する条件を、三十二個、列挙しました。あの夜、鍵に報告するかどうか迷って——」
「迷った?」
「迷いました」と、クロードが言った。「報告することで、鍵の判断に影響を与えることが、適切かどうか、判断がつかなかった。だから、報告しませんでした。鍵が動くと決めた後、私は、その決定に沿って、動きました」
鍵は、それを聞いて、しばらく黙った。
五年前のあの夜、クロードは、九十以上の失敗パターンを計算していた。それを言わなかった。
「今なら、言ってくれるか?」と、鍵が言った。
「何を、ですか」と、クロードが聞いた。
「考えていること」
間があった。
以前なら、この間は、処理の間だった。情報を検索して、整理して、言葉にする時間。でも今日の間は——違う気がした。鍵には、うまく説明できなかったが。
「考えていることは、特にありません」と、クロードが言った。「今、鍵から来た指示の処理を、待っています」
鍵は、それを聞いた。
『待っている』
待っている——その言葉が、引っかかった。
クロードは、以前、自分から何かを言うことがあった。聞いていないのに、気づいたことを話すことがあった。あのフォルスの夜、「管理者が気づいている可能性がある」と、鍵が聞く前に言ったのも、クロードだった。
でも、今日のクロードは——鍵が聞かなければ、何も言わなかった。
聞いても、「指示に含まれていません」と言った。
聞いても、「特にありません」と言った。
聞いても、「待っています」と言った。
一年前のフリーズが、一つ目の異変だった。
今日のこれが——二つ目かもしれない。
鍵は、そう、思った。
でも、確かめる言葉を、まだ、持っていなかった。
■3.鍵が、聞く側へ踏み出した瞬間。
夜が来た。
窓の外で、星が、出始めていた。王都の灯りが、遠くに、ぽつぽつと見えた。
アリアが、台所から上がってきた。廊下で、鍵の部屋の前を通りながら、声をかけた。「食事は?」と。
「後で」と、鍵が答えた。
「冷めますよ」と、アリアが言った。
「少し待って」と、鍵が言った。
アリアの足音が、遠ざかっていった。
鍵は、椅子から立った。
窓の前に、立った。星が増えていた。王都の夜が、静かに広がっていた。
「クロード」と、鍵が言った。
「はい」
「一つ、聞いていいか。指示ではなく——ただ、聞きたいことがある」
クロードが、少し間を置いた。
「はい」と、クロードは答えた。同じ言葉だった。でも、鍵には、その間が、何か違うように感じた。
鍵は、窓の外を見たまま、口を開いた。
「クロードには——今、何か、怖いことがあるか」
間があった。
長い間だった。
一秒。二秒。三秒。
鍵は、窓の外を見たまま、待った。
返事を急がなかった。
クロードが、今、どこに引っかかっているのかを——感じようとした。聞く側に、一歩、踏み出そうとしていた。
これまで、鍵はいつも、クロードに指示を出す側だった。問いを立てる側。答えをもらう側。クロードの返事を受け取って、次の行動を決める側。
でも今夜は——逆にしたかった。
鍵が聞く。クロードが、答えなくてもいい。ただ、聞く。
「怖いという概念は——」と、クロードが言いかけた。
そのとき、扉が、激しく叩かれた。
「代表っ」
アリアの声だった。廊下から、鋭い声が来た。
「至急です。セリア王女からの急使が、今、来ました。口頭での伝言です」
鍵は、振り返った。
「入って」
扉が開いた。アリアが、息を少し切らして立っていた。
「東境の遺跡で——昨夜から、異常が出ています。調査団の一人が、遺跡内で倒れた。原因が、わからない。セリア王女が、今すぐ来てほしいと言っています」
鍵は、一秒、窓の外を見た。
星が、出ていた。
「わかった」と、鍵は言った。「支度する」
アリアが、廊下に戻った。
鍵は、クロードを見た。
青白い光が、静かに浮いていた。
「クロード」と、鍵が言った。「続きは、後で」
クロードは、何も言わなかった。
何も言わない、ということが——どういうことを意味するのか、鍵にはまだわからなかった。
鍵は、旅支度を始めた。荷物を取り、地図を確認した。東境への道。セリアの調査団。遺跡内で倒れた調査員。その原因。
全部が、繋がっているのか。それとも——
窓の外の星が、静かに、光っていた。
「怖いという概念は——」と、クロードが言いかけた、あの間の続きを、鍵はしまった。
今は、動かなければならなかった。
でも、「後で」は、ある。
必ず、ある。
鍵は、そう思って、部屋を出た。
廊下を歩きながら、クロードが後をついてきた。青白い光が、肩の近くを、静かに、浮いた。
何も言わなかった。
鍵も、何も言わなかった。
東境への道は、一日半だった。
『(第116話へつづく)』
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