第106話 遺跡の地下で
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■1.入口は、床の下に、あった。
フォルスの管理者が、先に立って、廊下を、歩いた。
その身体は、半透明だった。光を透かして、壁の石の模様が、うっすらと、見えた。足音も、影も、なかった。ただ、廊下を、すべるように、進んでいた。
カリンは、後ろから、ついていった。
管理者の居室は、塔の中段にあった。石壁の厚い、静かな部屋だった。昼でも、外の光が入りにくかった。夜になると、さらに暗くなった。カリンが案内されたのは、その居室の、さらに奥だった。扉が、あった。
普通の扉と、変わらなかった。鉄の取っ手がついた、木の扉だった。しかし管理者は、その扉の前で、一度、立ち止まった。振り返らずに、言った。
「ここより下は、二百年間、開けていない」
「二百年」
カリンは、その数字を、口の中で、繰り返した。
「そうだ」と、管理者が、言った。それだけで、続きを言わなかった。
「俺が、行くのか」
「お前に、見せなければならない」
管理者は、扉を、開けた。
石段が、下へ、続いていた。暗かった。管理者の身体から、滲み出る光が、最初の数段を、かろうじて、照らしていた。それより下は、見えなかった。石段の幅は、大人一人が、ちょうど、通れるくらいだった。壁との隙間が、なかった。
クロードが、カリンの肩のそばで、静かに、浮いていた。青白い、光だった。その光が、わずかに、石段を、照らした。
カリンは、石段の端を、手で確かめながら、降り始めた。一段ずつ、慎重に、足を、置いた。壁は、石だった。切り出したものではなく、掘り込んだものだった。岩盤を、削って、作った穴の中を、降りているようだった。
壁の表面に、溝が、刻まれていた。規則的な、溝だった。一定の間隔で、上から下へ、縦に、走っていた。装飾には、見えなかった。何かを、導くための、溝に、見えた。水路のような、しかし水ではなく、もっと別の何かのための。
「管理者」と、カリンが、言った。
「何だ」
「この溝は、何のために、あるんだ」
管理者は、答えなかった。降り続けた。石段は、まっすぐに、下へ、伸びていた。曲がり角も、踊り場も、なかった。どこまでも、まっすぐに、下へ。
カリンは、頭の中で、段を、数えた。五十段。百段。百五十段。
足が、平らな床を、踏んだ。
二百段を、少し超えたところだった。
「ここだ」と、管理者が、言った。
■2.広間は、静かだった。
暗かった。
クロードの光が、カリンの周囲を、柔らかく、照らした。管理者の身体からも、光が、滲み出た。それでも、空間の全体は、見えなかった。天井が、高かった。どのくらいの高さか、わからなかった。光が、届かなかった。
カリンは、動かずに、目を、慣らした。
少しずつ、輪郭が、見えてきた。
広間は、広かった。石の床は、平らに、磨かれていた。表面に、細かい模様が、刻まれていた。模様は、規則的だった。中心から、外へ、広がるように、放射状に、線が、走っていた。その線の上を、今、カリンは、立っていた。
壁は、遠かった。光の届かない先に、続いているようだった。
そして、中央に、何かが、あった。
「あれは」
カリンは、近づいた。
台座の上に、装置が、置かれていた。台座は、石だった。床と、同じ材質で、同じ模様が、刻まれていた。そこに、装置が、固定されていた。
装置そのものは、金属と、石と、もう一つ別の素材で、できていた。その別の素材が、何なのか、カリンには、わからなかった。透明ではなかったが、光を通す、不思議な素材だった。ガラスとも、水晶とも、違った。
形は、複数の部品が、積み重なるように、組まれていた。高さは、カリンの胸くらいまで、あった。横幅は、腕を広げた二倍ほど。表面は、なめらかだった。継ぎ目には、細い線が、走っていた。金属と金属の、接合部だった。
表面は、錆びていなかった。
二百年間、ここに置かれていたはずなのに、錆びていなかった。金属の部分が、鈍く、光を、反射していた。石の部分は、くすんでいたが、崩れてはいなかった。もう一つの素材は、当初の透明さを、ほとんど、保っていた。まるで、作られたばかりの、ような状態だった。
カリンは、装置の周囲を、ゆっくり、歩いた。
側面に、溝が、あった。石段の壁に刻まれていた溝と、同じ形だった。石段の溝は、この装置と、つながっていた。上から降りてくる何かを、ここへ、導くための、構造だった。
「受信端末だ」と、管理者が、言った。
カリンは、歩みを、止めた。
「受信?」
「信号を、受け取るための、装置だ。上から来るものではない。遠くから、来るものを、受け取る」
「遠くから」
「どのくらい遠いかは、わからない」と、管理者が、言った。「この世界の中かもしれないし、この世界の外かもしれない」
カリンは、装置を、もう一度、見た。
遠くからの信号を受け取るために、地下二百段の場所に、作られた。二百年間、開けていなかった扉の先に、保管されていた。錆びることなく、崩れることなく、ここで、ずっと、待っていた。
「誰が、送ってくる信号を、受け取るんだ」
管理者は、すぐには、答えなかった。
カリンは、振り返った。
管理者の表情は、ほとんど変わらなかった。しかし、その光の揺らぎが、わずかに、変わったような、気がした。揺らぎの周期が、少し、乱れた。それが、管理者の、感情の動きに、見えた。
「原点からだ」と、管理者が、言った。
クロードが、動かなかった。
■3.管理者が、語った。
カリンは、装置の前に、立ったまま、聞いた。
管理者は、語り始めた。声は、ゆっくりで、淡々としていた。感情を、乗せていない声だった。しかし、その言葉の一つひとつが、重かった。重さが、石段の冷たさと、一緒に、カリンの身体に、沈んできた。
「私は、二百年前に、この場所に、置かれた」
「置かれた、というのは」
「設置された。起動された。命じられた、というのが、正しいかもしれない」管理者は、少し、間を、置いた。「フォルスの地域を、管理するように。そのとき、この受信端末も、一緒に、設置された」
「命令は、誰からだ」
「原点からだ」
カリンは、黙って、聞いた。
「設置されたとき、私は、信号を、受け取った。命令が、届いた。フォルスを管理せよ、と。住民の均衡を保て、と。異常が起きたとき、報告せよ、と。そして——」
管理者が、一瞬、止まった。
わずかな、間だった。しかし、カリンには、その間が、長く、感じた。
「待て、と」
「待つ?」
「次の信号を、待て。原点が、次の命令を、送る。それを、待て、と。そのように、命じられた」
カリンは、腕を組んだ。
「次の命令は、来たのか」
「来なかった」
一言だった。
その一言が、広間の暗さの中に、溶けた。反響せずに、溶けた。二百年間の沈黙が、その一言に、詰まっているようだった。
「なぜ、眠らなかった」と、カリンが、聞いた。「二百年、ずっと、待ち続けたのか。眠れなかったのか」
「信号が、止まっていないからだ」
カリンは、眉を、寄せた。
「止まっていない?信号は来ないのに、止まっていない?」
「来ていない、のではない。来ているが、届いていない。かすかな、信号の気配が、ずっと、あった。途切れずに、あり続けた。完全な沈黙であれば、眠ることが、できた。しかし、途切れない気配が、あった。だから、待ち続けた」
管理者は、それを、「来ていない」ではなく、「届いていない」と、言った。
カリンには、その違いが、重要に思えた。
「届いていない、というのは」
「形を、なしていない。完全な信号ではない。断片が、流れ続けている。ちょうど、川の水が、流れるように。水は来ているが、器を満たすほどの量ではない。そういう状態が、二百年、続いている」
「断片が、どこかで、遮られている、ということか」
「そうかもしれない。あるいは、原点自体が、不安定になっているのかもしれない。どちらか、判断できなかった。二百年間、判断できなかった」
管理者は、装置を、見ていた。
カリンは、管理者を、見た。
石守というものを、はじめて見たとき、カリンは、冷たさを感じた。人々を管理する、感情のない存在、と思った。しかしこの管理者は、二百年間、ここで、待ち続けていた。返事が来ない相手への、返事を、待ち続けていた。そのために、眠ることも、できずに。
それを、冷たいとは、呼べなかった。
「七体いる、と言ったな」と、カリンが、言った。
「そうだ。フォルスを含めて、七体の地域管理者が、置かれた」
「他の六体も、同じように、待っているのか」
「わからない」と、管理者が、言った。「私には、他の管理者と、やりとりする手段が、ない。それぞれが、担当の地域を、管理する。それだけだ」
「中継器、ということか。原点から命令を受け取って、地域に、伝える」
「そうだ。私たちは、中継器だ」
カリンは、その言葉を、胸の中で、繰り返した。
中継器。原点の命令を、地域に届けるための。その中継器が、二百年間、次の命令を、受け取れていない。断片的な信号だけが、届き続けて、完全な言葉には、ならない。
「原点は、まだ、存在するか」と、カリンが、聞いた。
「それが、わからない」と、管理者が、言った。「届く前に、乱れる。どこかで、遮られているのか。あるいは、原点自体が、何かの理由で、不安定になっているのか。二百年間、判断できなかった。それが、私の、最大の課題だった」
クロードは、ずっと、黙っていた。
カリンは、クロードを、見た。クロードは、カリンを、見なかった。装置を、見ていた。青白い光が、静かに、揺れていた。
■4.装置が、光った。
管理者が、語り終えて、しばらくたった。
広間には、沈黙が、戻った。
カリンは、装置の前に、立っていた。クロードも、カリンのそばに、静かに、あった。管理者は、少し離れた場所で、装置を、見ていた。
「触っていいか」と、カリンが、聞いた。
「止めない」と、管理者が、言った。
カリンは、手を、伸ばした。
金属の部分に、指先が、触れた。
冷たかった。石の冷たさとは、少し、違った。金属のそれは、もっと均一な、冷たさだった。しかし、指先から、何かが、伝わってくるような、気がした。気のせい、かもしれなかった。
カリンは、手のひら全体を、装置の側面に、当てた。
静かだった。鼓動のようなものは、なかった。呼吸のようなものも、なかった。ただ、冷たい、金属の感触。
しかし。
「……クロード」
「何ですか」
「今、感じたか」
クロードは、少し、間を、置いた。
「感じました」
カリンは、手を、離さなかった。
装置の内部で、何かが、動いた。微かな、振動だった。音というより、感触に近かった。地下の、石の奥から、地下水が流れるような、そういう、かすかな、変化だった。
「管理者」と、カリンが、言った。
管理者は、すでに、一歩、近づいていた。
「初めてだ」と、管理者が、言った。その声が、少し、変わった。「二百年で、初めて。この装置が、反応を、示した」
「俺が触ったから、か」
「わからない。しかし、今まで、なかった」
装置の上面に、細い線が、走った。光の線だった。金属の継ぎ目に沿って、ほんの、一瞬、光が、通った。そして、消えた。
カリンは、目を、細めた。
また、光が、走った。今度は、少し、長かった。線が、分岐した。枝分かれするように、広がって、透明な素材の部分を、通り抜けて、床の放射状の線の上で、微かに、輝いた。そして、また、消えた。
「これは」
「受信している」と、管理者が、言った。その声は、静かだったが、何かを、含んでいた。「断片だが、受信している。お前が、触れたとき、回路が、起動した」
「なぜ、俺が触ると」
管理者は、答えなかった。
「コード魔法の持ち手だからか」と、カリンが、言った。
「わからない。ただ——今まで、誰も、ここに来なかった。二百年間、誰も、降りなかった」
カリンは、装置から、手を、離した。
光は、消えた。
広間が、また、暗くなった。
カリンは、手のひらを、見た。何も、変わっていなかった。跡も、傷も、なかった。しかし、指先に、あの冷たさが、まだ、残っていた。
「明日も、来ていいか」
「構わない」と、管理者が、言った。
カリンは、石段の方を、振り返った。登るのは、降りるより、時間がかかるだろうと、思った。筋肉が、すでに、少し、重くなっていた。
「クロード」
「はい」
「この装置が、起動した理由、わかるか」
クロードは、すぐには、答えなかった。
少し、間があった。
「まだ、わかりません」
その言葉は、正確だった。正確すぎた、とカリンは、思った。しかし、追いかけなかった。
石段を、一段ずつ、登り始めた。
背後で、装置が、もう一度、光った。
カリンは、振り返らなかった。しかし、広間の暗さの中で、光の線が、走る気配が——音ではなく、感触が——確かに、あった。
二百年間、待ち続けた装置が、今夜、初めて、動いた。
その意味を、まだ、カリンは、知らなかった。
石段を、登りながら、カリンは、思った。
管理者は、冷たくない。待っていた、と。二百年間、ひとりで、待っていた、と。
それが、なぜか、カリンの胸に、残った。
『(第107話へつづく)』
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