【卯月原流羽 その二】
「ねえ、ママ、覚えてる? 一年前、上野公園にお花見に行ったこと」
流羽は、持っていた手提げ袋から、枝を取り出す。
先ほど、上野公園で採ってきた桜の木の枝である。
東京のソメイヨシノは今日から満開であり、流羽が今手に持っている枝にも、薄ピンク色の花が咲き誇っている。
余計な小枝はすでに剪定済みである。
「ママはお花が好きだったよね。中でも桜が一番好きだった」
母の枕元には、陶器の花瓶が置かれている。
くびれのない直線的なデザインで、色合いもシンプルな黄土色。
老舗の骨董品店でそれなりのお値段がしたものである。まるでその価値を主張するかのように、持ち上げると、ズッシリと重い。
流羽は、花瓶で咲いていたオレンジ色のフリージアを抜き取ると、手提げ袋に入れ、代わりに花瓶に桜の枝を挿した。
「『のこりなくちるぞめでたきさくら花有りて世中はてのうければ』。桜の花は散るからこそ美しい」
流羽は、十分咲きの桜の入った花瓶を、母の枕元の台に戻す。
花瓶以外には何も置かれていない——置く必要もない——台である。その下は引き出しになっているが、引き出しの中もほとんど空である。
流羽は、顔のほとんどが呼吸のための装置で覆われた母を、見つめながら、言う。
「私はそうは思わない。桜にはずっと咲いていて欲しい」
母が反論できないことを良いことに、流羽はさらに言葉を重ねる。
「『散るからこそ美しい』っていうけどさ、そもそも美しい必要ってどこにあるのかな? 散らなきゃ美しくなれないんだったら、美しさって何? そんなものに価値があるの?」
去年母と行った花見では、流羽は、空を覆うピンク色の綺麗さに感動し、思わず涙を流したほどだった。
しかし——。
今の流羽にとっては、桜の美しさなんて、ちっとも意味がない。
なぜなら、流羽の母は、ずっと目を閉じたままで、もう桜を見ることができないからだ。
流羽の母が脳出血で倒れたのは、仕事中のことだった。
母の人生にはゆとりがなかった。流羽を育てるために働き、流羽を育てるために家事をし、流羽を育てるためだけに食べて寝るような生活を、母は、流羽が物心ついた頃から続けていた。
突発性の脳出血だ、と主治医は言うが、これは決して天から降ってきた不幸というわけではない。
母が倒れることは、とっくに決まっていた。
流羽が三歳の頃に父が死んだ時点で。
否、もっと早くから決まっていたのだ。流羽が生まれた日——東日本大震災の日に、母の人生はすでに壊されていたのである。
流羽は、病室のベッドの上で、仰々しい装置によって生かされている母の顔を見つめながら、そっと目を閉じる。
そして、念じる。
頭に描くのは、再生のイメージ。
荒廃した大地から、緑色の芽がニョキっと頭を出すような、そんな映像。
もしくは、白化した珊瑚礁に新鮮な水が注ぎ込み、元のカラフルさを取り戻させていくような、そんな映像。
それから、流羽はゆっくりと目を開ける。
案の定、流羽の網膜に映るのは、死を待つだけのやつれた母の姿である。
今度は、流羽は、左手に持っていたオレンジ色の花を、視界の母を遮るようにして掲げる。葉先はまだ茶色くなっておらず、これからまださらに花が開くであろうフリージア。
流羽は、目を見開いたまま、このフリージアが一瞬で燃え尽き、この世から姿を消す様子を想像する。
その途端、それは本当にそのとおりになった。
流羽が左手の手のひらを開いても、灰の一つすら落ちやしない。
我ながら、抜け目の無い、見事な魔法である。
流羽の双眸から、冷たい粒が落ちる。
「ママ、ごめん。私にはこんなことしかできなくて」
自殺未遂を行った時、流羽が手に入れたのは、人智を超えた能力——魔法だった。
崖から飛び降りたにも関わらず、一命を取り留めたことも、魔法のおかげだったことは、今となっては疑いがない。魔法によって、流羽は宙に浮かんだのだ。
魔法とは、欲したことを、そのまま実現する力である。
何かを作りたいと思えば、そのとおりになる。
何かを壊したいと思えば、そのとおりになる。
もっとも、魔法には致命的な弱点があった。
なぜか魔法は、一度失ったものを元に戻す能力だけを欠いているのである。
流羽がいくら念じても、母が目を覚ますことはない。
流羽がいくら念じても、ココを生き返させることができなかったのと同じように。
「……魔法って不便だね」
流羽にとって、魔法とは、絶望を覆すものではなく、絶望にさらに説得力を与えるだけのものだった。
それでも——。
流羽は、魔法に縋るしかない。流羽には、魔法しかないのだから。
流羽が自殺するために崖から飛び降りたあの日と比べて、良い方向で変わったことといえば、唯一魔法を使えるようになったことしかないのだから。
流羽は、手提げ袋から、輪ゴムで留められた紙の束を取り出す。すべて『請求書』と題されたもので、一番上に留めてあるのは、つい先ほど、一階の総合受付で発行されたばかりのものだ。
『卯月原さんが厳しい状況にあることは当院も理解しているのですが、さすがにこれ以上の滞納が続くと……』
受付の職員はみなまでは言わなかった。とはいえ、言外のニュアンスは、中学生の流羽にだってハッキリと分かる。
病院は、母を安楽死させることを勧めているのだ。
安楽死といっても、特殊な点滴を母に打つわけではない。単に生命維持装置を外せば良いだけだ。そうすれば、母は、自然と死ぬ。おそらく、苦しみを感じることなく、悲しみさえも感じずに。
しかし、母を安楽死させることは、流羽には許容できなかった。
いつの日にか母が意識を取り戻す……ということを期待しているつもりはない。
ただ、母がこの世にいることだけが、流羽にとっての唯一の救いだったのである。
もしも母が死んでしまえば、流羽が一体どうなってしまうのか、流羽には分からない。
もしも母が死んでしまえば、流羽の心や考えが一体どんな暗い方向へと向かってしまうのか、流羽は恐ろしい。
ゆえに、流羽は、魔法を使って、最後の足掻きをすることに決めていた。
最後の足掻き——それは〈人間〉を作り出すことである。
今日は文フリの準備で、無料配布を大量に印刷しました。1600枚印刷しました。1部につき4枚なので、400セットです。これまでの経験上、本番はこれくらい捌けると思います。
菱川は今回は書き下ろし……ではなく、既作をアレンジしました。なかなかエッジの効いたアレンジだと思いますので、会場にいらっしゃる方はお楽しみに!




