貴族の戦場 その1
この国が誇る、王城カルネリア。
その広大な城の中心はどこかと聞かれたら、ほとんどの人がこう答えるだろう。
”玉座の間”である、と。
その名前の通り、本城の中央を天井まで吹き抜けにした大広間には、国王だけが座することのできる玉座が高みに存在し、数段を挟んで広大な広間に繋がる。
時に謁見の場となり、時に国の行く末を決める会議の場となり、時に夜会の場となるその広間に、その夜、数多の貴族が集っていた。
色とりどりの服に身を包んだ男女の間を、給仕の人間が縫うように歩く。城の貯蔵庫からは何種類ものワインが持ち出され、一角には湯気を立てる料理が煌びやかに積まれていた。
シャンデリアに配されている最高級の蝋燭は、数ある調度品の一つとしてしか機能していない。
魔法起動時の損失として発生する光に目をつけ、最大限に利用した最新式の魔法照明が、天井から昼間のように広間の隅々まで照らしているのだ。
突然の開催にも拘わらず、中々見られない規模の夜会だ。きっと厨房は戦場になっていることだろう。
しかし着飾った貴族たちの関心は、料理にも、互いの近況にもなかった。儀礼的な挨拶を交わし、目の笑わない会話を楽しみながら、今夜の主役の登場を待ち望む。
もちろん各々の反応も見逃せない。内戦が噂されるこの状況で、各家を揺さぶる存在が現れるのだ。誰がどのような腹積もりなのか。ある者はギラギラした目で、ある者は興味のない様子を装いながら。誰もが周囲を観察していた。
やはりと言うべきか、フロアに宰相の姿は見えない。貴族たちの憶測を呼ぶ宰相の休養と不在は、未だしばらく続きそうだった。
今、玉座の奥にしつらえられた大扉が重い音と共に開かれた。楽隊が一際高らかな音を鳴らし、視線が一斉に壇上を向く。
初めに出てきたのは国王ヴィガード。王妃はしばらく前から体調が優れないと、公の場に顔を見せないのもいつも通り。
次に姿を現したのは、王太子ルイスだった。その後から王女エレオノーラが続く。これは王位継承権の順だ。エレオノーラの方が年上ではあるが、現国王は後継者をルイスと公言している。
二人の姉弟は壇上で一礼すると、互いに手を取って歩き出した。エレオノーラ王女の婚約後はめっきり見かけなくなった光景だが、取り立てておかしいものでもない。
「諸君。大義であった」
静まり返った大広間に国王の声が響き渡る。離れていても聞こえるのは、”玉座の間”の構造のお陰だ。下に居ても声は広がらないが、壇上からの声は良く響くように設計されている。職人たちの技術の結晶だ。
「此度は急な知らせにも拘らず、こうして集ってくれたこと、まずは礼を言う。貴殿らの厚き忠義の元で、我が国は更なる発展を遂げるであろう」
いつも通りの美辞麗句。修飾の多い言葉で本題を彩るが、国王自身も貴族たちもそこに何も求めてはいない。上滑りする言葉は長いか短いかの差でしかない。
「さて、こうして夜会を催したのは他でもない。貴君らに紹介したい者がいるのだ」
それこそが今夜の本題である。一気にざわめきはじめた貴族たちを片手で制し、国王は高らかに告げた。
「紹介しよう。我が娘、第二王女エルシアだ」
開いた扉から人影が滑り出して来て、会場がどよめく。誰かが「宰相家のエスコートだ」と呟いた。
豪奢な衣装に身を包み、ゆっくりと進み出てくるのは、筆頭公爵家が子息アルフレッド。その彼に手を引かれて、娘が一人灯りの元へと踏み出した。
壇の中央、玉座のすぐ前までたどり着いたところで、青年が手を離す。数歩下がって恭しく傅いたのは、宰相家もこの娘の存在を認めていることに他ならない。
そして視線は、壇上の娘へと殺到する。
緩く巻かれた亜麻色の髪は父親譲り。血色の良い頬に理知に富む瞳は、従兄であるはずのアルフレッドとどことなく似た印象を与える。深紅のグラデーションのドレスを纏い、同じ色彩の手袋でたおやかな腕を包んでいる。
何より一同の視線を釘付けにしたのは、その胸元に輝く王印に他ならない。
娘はドレスの端をつまんで優雅に一礼すると、凛とした声を張り上げた。
「皆様、ごきげんよう。陛下からご紹介に預かりました、エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライルと申します。本日はこのような場を設けていただいたことに、この場をお借りしてまずは感謝を」
ざわめく貴族たち。娘を穴が開く程見つめる者、むしろ国王の反応を気にする者、そんな周囲の反応を窺う者。交わされる囁きがうるさい。
その中でも老齢の貴族たちは、こぞって震える口を開いた。
「あれは”女狐”の声だ……!」
―――
疲れる。
必死の思いで挨拶を終えたエルシアは、既に内心でうんざりしていた。
演説の内容は、アルフレッドが書き起こし、ヴィガードが目を通したらしい。家柄のことや行方不明の間のことは一切告げず、右も左も分からぬ若輩者であることと、皆に手を貸してほしいという内容をざっと語ったに過ぎない。
王族の末席にしつらえられた椅子に腰かけると、エレオノーラに小声で声を掛けられた。
「随分とお疲れの様ね」
「それはもう……」
「そんなことでは保たなくてよ? 本番はこれからだというのに」
この後、国王のみが玉座に残って、王子や王女は階下に降りる予定だと聞いている。あの好奇の目線の中に分け入ると思うだけでゾッとした。
「私の婚約者を貸すのです。あなたが選んだ道なのだから、それに相応しい行いをなさい」
張り付けた笑顔の仮面越しに鋭い視線が注がれる。
先程顔を合わせた時から、腹違いの姉はこんな感じだ。あれ程手を貸した隠蔽工作を無に帰されたのだ。きっと怒っているのだろう。無理もない。
それにアルフレッドは今夜、エルシアのエスコートを仰せつかったそうだ。いくら宰相家公認であることを示すためとは言え、婚約者であるエレオノーラには、きっといらぬ噂をもたらしてしまうだろう。
「……申し訳ありません」
「その謝罪にどんな意味があるというの。私は王女としての自覚を持てと言っているの」
そこまで言わなくても。つくづく”家族”に恵まれない人生だと、エルシアは思う。
もっとも、これはエルシアの自業自得だ。姉を責めるのは筋違いだと分かってはいるのだが。
「さあ、歓談の時間よ。アル、エルシアをお願いするわね」
「仰せのままに。後程ぜひ、私とも踊っていただきたいものです」
「喜んで。さあ、行きましょうか、ルイス」
王女が王子の手を引いて壇上から降りる後ろ姿を見送る。やはり自分はお邪魔虫らしい。
早くも後悔が頭をもたげてきたが、さりとてケトを守るための別の方法を思いつくわけでもないのだから、仕方ないというものだろう。
エレオノーラの言葉とは意味合いが違うが、ここからのエルシアの動きが、巡り巡ってケトの人生を左右するのだ。これから自分は権力に溺れた魑魅魍魎の世界に突っ込むことになる。十三年逃げ続けてきた自分の出自に、とうとう向き合わなければならない時が来たのだろう。
「お手をどうぞ、レディ」
伸ばされたアルフレッドの手に、自分の手を重ねて。
「お手柔らかに、お願いするわ」
第二王女は、貴族の戦場へと立ち上がった。
―――
壇上から降りる階段の中ほどで、エルシアは囁く。
「アルフレッド。お願いがあるのだけれど」
「手短にな、従妹殿」
「私は記憶力に自信がないの。これから挨拶する人間の中で、派閥の主要人物がいたらそれとなく教えて。その人だけは絶対に忘れないようにするから」
添えられた手から、かすかな驚きが伝わる。ほんのわずかな沈黙の後、彼は視線を動かさず「仰せのままに」と答えてくれた。
フロアに降りたら、もう休む暇なんてない。
「お初にお目にかかります、殿下」
「エルシアです。どうぞお見知りおきを」
「しかし、突然のお話に驚いたものです。市井での暮らしはさぞやお辛かったことでしょう」
「いえ、決してそのようなことは……」
「王都の風にも慣れていない若輩者です。ご指導いただければ幸いに存じます」
「慣れていらっしゃらないなどとは信じられません。御身を拝見させていただいただけで、その美しさに心打たれたというのに。殿下の麗しさは、まさしく国を傾けかねませんなあ、はっはっは」
「シャンブル伯爵のご子息様でいらっしゃるのですか……?」
「は、はい。父をご存知で?」
「先程ご挨拶させていただいたばかりなのです。この国の法相閣下はとても気さくなお方なのだな、と、そんなことを思っていたのです」
男爵、伯爵のご子息、子爵家のご令嬢、別の男爵とそのご令嬢。三組前の伯爵家のご令嬢の婿。
同年代のご令嬢、三人組、ご夫妻。男、男、女……。
厳しい。
ケトと違ってあくまで凡人の記憶力しか持たないエルシアでは、一言二言のやり取りで相手を覚えられる訳もない。それでも、それとなく教えてくれるアルフレッドの助言に助けられながら、笑顔の仮面を張り付け続ける。
そんなエルシアの前に、やがて一人の男が姿を見せた。
「ご機嫌麗しゅう、エルシア王女殿下」
「……騎士団長様、いえ、ここではフラジェール侯爵閣下とお呼びすべきですね」
「”閣下”などと。不要です。グレイとお呼びください」
目の前の壮年の男を見上げる。やはり随分と体が大きい。
グレイ・バッセル・フラジェール侯爵。王国騎士の頂点に君臨する武官の長。いち早く、ケトの力に目をつけた男だ。
「以前は大変な無礼を働いてしまったこと、お詫びさせていただきたかったのです。よもやこのような形でお目にかかるとは、人生、何があるか分かりませんな」
「グレイ騎士団長、その節は……」
小声でそう呟くと、グレイは苦笑して、首を横に振った。
「仕方のないことです。思うところはありますが、殿下がお気に病まれることではありません。……しかし、私も耄碌したものですな。ご尊顔を拝見しておきながら、ついぞ気付くことはなかったのですから」
「そのようなこと……」
「きっと殿下とも長い付き合いになりましょう。今の王都は必ずしも安全とは言えません。何かあればすぐに駆けつけましょうぞ」
次の瞬間、その場がざわめいた。一歩後ろに下がったグレイが、第二王女にひざまずいたのだ。忠誠を誓う礼をしながら、彼は厳つい顔に微笑みを浮かべた。
「我が騎士団はこの国を守る剣であり、あなたはその象徴たる王女殿下であらせられます。どうか、その御手にキスをする栄誉をお与えいただけますか?」
まさか年の一回り離れたおっさんからキスをねだられるとは。ギョッとする内心を隠し、エルシアは震えそうになる手を差し出す。
騎士団長が手袋越しに口づけを落とすと、どこかの令嬢だろう。人込みの中から黄色い悲鳴が上がった。
「……随分と、大胆な真似をなされる」
その間を割ったのは、アルフレッドだった。彼もまた柔らかな微笑みを向けながら、立ち上がった騎士団長に言葉を掛ける。
「自らが仕える主人に敬愛の情を捧げるのは当然のことでしょう?」
返すグレイもどこか口調が固い。それまで目を瞬かせていただけのエルシアは、素直に手を差し出した迂闊さにようやく気付いた。
今のはデモンストレーションだ。
騎士団長が手を取ってキスをする。すなわちそれは王国騎士団そのものがエルシアを王族の一員として認めたということに他ならない。
つまるところ、エルシアに手を出せば、騎士団を敵に回すのだというアピールなのだ。裏で糸を引いたのは、果たして国王か。もしかしたらアルフレッドという線もあるかもしれない。
この場にいるであろう、教会に通ずる貴族への牽制。もはや、疲れたなどと言っている場合ではない。隙を見せたら足元を掬われる。ここはまさしく戦場に違いなかった。
―――
手に持ったワイングラスにはほとんど口をつけず、貴族の間を練り歩く。
元よりエルシアはこの国の人間にしては珍しく、酒にあまり強くない。喉は渇きを訴え初めていたが、この状況で飲めるほど図太い精神はしていないのだ。
先程から妙な女性が付いて来ている。深い色の黒髪にモスグリーンのドレス。エルシアと同年代のご令嬢だ。
挨拶する機会を狙っているのか、それともこちらの動きを観察しているのか。似たような人はいくらでもいるが、彼女は右手の動きが何とも不自然だ。注意しておくべきだろう。
フロアを回ることしばし。そしてエルシアは視線の先にあるものを見て、驚愕することになる。それはもう、酒が入っていたら思い切り戻してしまいそうなほどの衝撃だった。
「ア、アルフレッド」
「如何されました、殿下?」
「あれは、何故ここに……?」
二人の先に、白ローブを纏った老人がいたのだ。そのローブは見まごうことなく、信仰を誓った者の証。龍神聖教会の修道着に間違いない。
シンプルな白いローブは装飾も何もなく、一般的な教徒と言われても信じてしまいそうな姿だが、周囲を見渡しても同じ服を着たものは一人たりとていない。
「近づいてはなりませんよ。あれは教会の教皇です」
アルフレッドに耳打ちする。
「いや、反乱間近なんでしょう? どうしてここにいるのよ」
「……自らの信奉者すら纏め上げることのできなかった、ただの憐れな抜け殻ですよ、あれは」
「抜け殻……?」
「まともな信者なら、この場に姿を見せることなどしません。身内からも見捨てられた老人です。数年前から人質代わりに、ここへ」
その丸まった背中は、すぐに人込みに紛れて消えた。彼に話しかける者はおらず、彼自身誰にも話しかけることもなかった。
何か声を掛けて情報を探るべきだっただろうか。いや、それこそ貴族たちにいらぬ憶測をもたらせかねない。
「……行きましょう」
どこの世界にも、鼻つまみ者がいる。そのことに、何となくもやもやしてしまう。
喉の奥でため息を一ついなし、エルシアは頭を切り替えた。いい加減あの妙なモスグリーンのドレスの女性に声をかけてみようか。そう思って踵を返した時だった。
「あぁら、ごめんなさいね」
掛けられた言葉のすぐ後で、ビシャリと何かが音を立てて、エルシアの体にぶつかった。それはすぐに布にしみ込んで冷たい感触へと変わる。
「え?」
思わず呆けた顔をして、ドレスを見下ろす。濡れた服を確かめてから、エルシアは声のした方へと振り向いた。
そこには一人の令嬢が立っていた。エルシアと同じくらいの年だろうか。勝気そうな瞳に、吊り上がった口元。明るい茶髪をぐるぐると巻き、紫のドレスを身にまとっている。
その手に空のグラスが握られていることに気付いた後で、ようやく誰かが、エルシアの代わりに「きゃあ」と鳴いた。
ワインをかけられた。濡れた感触に唖然とする。
なぜ? 自分は何かやらかしただろうか。
ボケっと突っ立ったままのエルシアに、グラスを持ったままの令嬢が近づく。
「あら、私ったらなんてことを! 大変申し訳ありません。殿下がそんなところにいるとはついぞ思わず、手が滑った拍子にこのようなこと。本当に何とお詫びすれば良いか!」
なんだこれは。流石のエルシアも驚きを隠せない。
これ見よがしに笑う令嬢にも。群衆の中から聞こえるくすくす笑いにも。
「私、ロザリーヌ・ロム・ロジーヌと申します。ロジーヌ伯爵家が娘にございます」
いけしゃあしゃあと、自己紹介された。
相手の考えが読めない。これはケンカを売られているのだと考えてよいのか。それともこういう場合の行動を試されていると考えるべきか。
果たして王女として最適な行動はなんだ。アルフレッドにちらりと視線をやってみたが、彼は何も言わず佇んでいるばかりだ。
これくらい、自分で対処しろということなのか。やはり、肝心な時に頼れない男だ。
ふむ、と思案に終止符を打つ。いつまでも考え込んでいても埒が明かない。
ここはただオドオドしているだけの女ではないことを知らしめてやろう。王女としても、弱気な態度は良くないだろう、多分だけど。
「……エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライルです。どうぞ、お気になさらず」
「お噂はかねがねお伺いしておりますわ。エレオノーラ様も、今日は婚約者様を取られてしまってお寂しそうでしたし、アルフレッド様もあちこちに気を遣われたのではなくて? 子は親に似ると言うけれど、殿下もよもや同じ轍は踏むことはないよう、気を付けられた方が良いのではなくって?」
ワインを浴びせたことを棚に上げ、勝ち誇った様子でそんなことを言われた。
ううむ、どうやら本当にケンカを売られている認識で問題なさそうだ。何故か分からないが、ロザリーヌとかいう令嬢は自分のことを目の敵にしているらしい。
いや、理由なんて分かり切っている。存在そのものが他者に不利益を与える。エルシアはそういう人間なのだ。
現に、周囲から漏れる笑いが揶揄の色を含んでいることに、エルシアはちゃんと気付いているのだ。
よく考えろ。言葉の裏を探れ。下手に出たなら舐められる。
ようやく口を開こうとしたアルフレッドを左手で押しとどめた。微笑みながら、エルシアは声を上げる。
「そうね。でも、ご心配はいらないと思いますよ? 先程玉座の傍で、お二人はそれはもうこちらが赤面してしまうほどの睦言を交わしていましたもの」
ロザリーヌが少しだけ意外そうな表情を見せて、ピクリと片眉を上げた。間髪入れずに畳みかける。
「ご忠告痛み入ります。私はかつて”傾国の娘”と呼ばれた子。自らの立ち位置は分かっているつもりです。本当、お邪魔虫になるような真似は慎まなくてはいけないわね」
くるりと振り向き、アルフレッドにも声を掛ける。
「貴方にも、謝っておかなくてはいけないわ。こんな女に振り回されて、さぞや迷惑だったことでしょう?」
呆気にとられた顔の青年から視線を映し、周囲に聞こえるように声を張り上げた。
「でも、しばらくは付き合ってもらうわよ。アルフレッドだけではなく、エレオノーラ様にも、皆様にも、ね。だって私、この王都では右も左も分からないんですもの。きちんと作法を身に着けるまで、誰かに手伝ってもらわないと困ってしまうわ」
「……あら、随分とはしたない声を出されますわね。皆様びっくりされてしまうのではなくて?」
この期に及んで突っかかるロザリーヌに思わず苦笑が漏れた。王女は声のトーンを元に戻して、優雅な微苦笑へと変えてみせる。
「まさか。私の育った場所でもそうそうこんな大声出しませんよ。それでもね、私はそれが必要なら、喚ぶなり、叫ぶなりすることに抵抗はないの。ロザリーヌ様、良い教訓になりました。礼を言うわ」
中身が並々と入ったグラスを片手に、先程ヴァリーから習ったばかりのカーテシー。そのままくるりと振り向こうとすれば、ワインを吸った深紅のドレスがふわりと靡く。
その拍子に、エルシアは、うっかり手を滑らせた。
「あら」
パシャリと小さな音。周囲から上がる悲鳴。
呆然と立ち尽くすロザリーヌの顔から、ワインが滴った。吊り目を真ん丸に見開いたロザリーヌを見てから、手元のグラスに視線を落とす。グラスの中の深紅のワインが、その量を半分ほどに減らしていた。
流石に度肝を抜かれたのだろう。周囲の人間が口をぽかんと開けていた。「なんてこった……」という呟きがアルフレッドの口から漏れたような気がした。
少しだけ慌てた風を装って、ハンカチを取り出す。自分に掛けられたワインのせいで湿っていたが、まあ何もないよりマシだろう。近くへ寄って、声を掛ける。
「ごめんなさい! これで拭いてちょうだい?」
「……な、な!」
赤い紅を塗った唇をパクパクさせるロザリーヌ。その手を取ってハンカチを渡しながら、エルシアは声のトーンを少しばかり落としてやった。
「……ああ、もしかしてお化粧崩れちゃうかしら。それはちょっと宜しくないかもしれないわね」
調子に乗りすぎているだろうか。だが、自分に手を出せば報復が待っているのだというアピールにはなったはずだ。流石にこれ以上事を荒立てることなくこの場から去るべきかもしれないが。
一歩離れて、エルシアがそんなことを考えて注意を逸らした瞬間。
「……随分と、面白い人ですわね」
目の前の令嬢から、底冷えするような、落ち着いた声が響いた。さっきまでキャンキャン喚いていた女性とは思えない程に、素直な声色だった。
呆気にとられたエルシアに、今度はロザリーヌから距離を詰める。
「良いことを教えてあげるわ、エルシア殿下」
「え……?」
「あなたに、王女は、相応しくない」
「……!」
他の者には聞こえない程の、小さな囁きだった。一語一句区切るように発せられた言葉にギョッとしたエルシアの視線が、令嬢の目と合う。そこに見え隠れする思慮深い輝きに、王女は息を飲んだ。
一瞬の間に、ハンカチを持った令嬢が体を離していた。恭しく膝を折り、元の煽り立てるような声色で言う。
「数々のご無礼、お詫び申し上げますわ、エルシア様」
「え、あ……。いえ、こちらこそ失礼を」
「それでは、御機嫌よう」
令嬢が踵を返して入口へと向かうのを呆然と見送ったエルシア。その肩に、アルフレッドが手をかけた。
「……行きますよ」
「え、アルフレッド?」
「いくら何でもやりすぎです。……あれではロジーヌ嬢が可哀想だ」
最後の言葉は、ほんの小さな呟きだった。もしかしたら独り言だったのかもしれない。
「ど、どこへ行くの?」
「……そのお召し物を変えなくてはならないでしょう。まったく、ヴァリーに準備させておいて良かった」
会場の入り口となる大扉に向かいながら、アルフレッドは酷く疲れた声で言ったのだった。一同の視線が集中する中、エルシアは好奇の視線を突っ切って、扉をくぐり抜けた。




