貴族の戦場 その2
バツの悪い表情を浮かべて、エルシアは立ち尽くしていた。
よくよく考えたら悪手だっただろうか。最近鬱憤がたまっていたのは確かだが、やりすぎたかもしれない。特に最後のワイン。
心持ち顔を俯けて考えにふける王女に、ヴァリーは苦笑を漏らした。
「やはり、途中で戻ってこられましたか」
「……やはりって何よ」
湿らせた布をドレスに当てられながら口を尖らせたエルシアだが、すぐに思索の海に戻っていく。ちなみにアルフレッドはこの場にいない。いくら従兄という間柄とは言え、婚約者を置いて他の女に懸想すると思われたら良くないのだ。扉の傍に佇む騎士にエルシアを預け、会場に戻っていった。
ドレスをもそもそと脱いで、ようやくエルシアはひと心地つく。
「白ワイン、これなら落ちそうですね」
「……そう、なら良かった。弁償なんて言われたらどうしようかと」
「エルシア様、このドレスはあなたのものなのです。お気遣いは無用ですよ。……万一の時に目立たせないために赤にしたのですが、どうやら無用な気遣いでしたね。ロザリーヌ様もそこは気を遣われたのでしょう」
可笑しそうに笑う侍女に、エルシアは首を傾げた。
「赤ワインと白ワインでそんなに差がある?」
「白より赤の方がシミがずっと目立ちますし、落としにくいんです。一応どちらをかけられても目立たないよう、ワインレッドのドレスを選んだのですが」
「……嘘でしょう? それって私がやらかすって想像がついていたってこと?」
眉をへの字に曲げたエルシアを見て、ヴァリーは優しく答える。
「エルシア様は注目を集めるのです。良くも悪くも」
「……くだらないわ。どいつもこいつも他者への牽制と勢力争いしか考えていないなんて」
そこまで口にしたエルシアは、ふと何かに気付いたように「あー……」と声を上げた。
「如何されました? エルシア様」
「私、ロザリーヌ様に赤ワインかけちゃった……!」
侍女の慈愛に満ちた微笑みの中に、少しだけ残念なものを見る色が混じったが、エルシアはひたすら頭を抱え続けた。
色々と考えるべきことがあり、動くべきことも多い。だが、とりあえずまずは疲れた頭と心を休ませてもらいたかった。
―――
「ぶっはははは! こりゃまた、随分なお姿なことで、お嬢!」
「……ローレン、笑っていないで替えの服を用意なさいな」
文字通り、水も滴る女となったロザリーヌは、控室に入るなり見目麗しい長身の従者に渋面を向けた。彼女の視線の先には、きっと誰もが振り返るであろう美丈夫。ただまあ、馬鹿笑いしているその姿を見れば、ときめこうにも無理な話だが。
「ほれ、お嬢」
「まったく……」
タオルを放り投げられたにも拘わらず、ロザリーヌは文句ひとつ言わずそれを受け取った。化粧が崩れるのも構わず、ごしごしと顔をこする。
「だってお嬢。”ワインかけるんだ”って意気込んで行ったのに、かけられて戻って来るなんて笑うしかないでしょ」
「ふん」
ようやく笑いを収めたローレンは、すっと目を細めて主人に問いかける。
「それで? どうでした、噂で持ち切りの”傾国”の姫殿下は」
「……ダメね。全然なっていない」
「ほう?」
「噂通り、田舎のお転婆娘だったわ。精一杯虚勢を張っているようだけれど。あれではすぐに襤褸が出る。放置していたら袋小路に追い込まれて終わりでしょうね。何より……」
ドレスを脱ぎ捨てた令嬢に、気負うことなく護衛が近づく。手に持った替えの服を無造作にひっつかむと、テキパキと身につけ始めた。
「あともう少しで自分が血の海に沈むところだったことにまったく気付いていないのは、本当に滑稽ね」
「今度は何家です?」
「モーリス家、長女のメイヴィスさん」
「ああ……」
「ドレスに妙なスリット開けて、そのあたりでずっと手がフラフラしているの。右足にダガー仕込んでること、多分姫は気付いていなかったのでしょう。わざわざ近づいて行った時には肝を冷やしたわ」
不審な動きに気付いた時点からずっと、ロザリーヌはメイヴィスという名の令嬢の後をつけていたのだ。深い色の黒髪に、モスグリーンのドレスを身にまとった令嬢を。
とうとう刃物を取り出そうとしたその時を見計らって、ロザリーヌは第二王女にワインをかけた。その場の視線は第二王女に集まり、結果的に刺客は手を出すタイミングを失った。先程の騒動、蓋を開ければそれが真実だ。
王城も既に安全な場所とは言えない。
どれほど警備を厳重にしようと、それ自体が意味をなさない場合も多い。そもそも裏口を使って検査を受けさせず闊歩できる裏口がいくつも存在するのだ。
どれほど黒幕を追ったところで、いずれかの貴族が立ちはだかる。政治的な圧力、恫喝。有力者が横やりを入れることの現状が、この城では既に出来上がってしまっている。
その被害に遭った者の様子を、ローレンが問いかけた。
「そういや、宰相閣下のご様子はどうなんです?」
「ああ、そう言えばあなたには伝えていなかったわね」
手袋を身に着けながら、令嬢は何事もなかったかのようにさらりと口にする。
「亡くなったわ。一昨日」
「わぁお。そういうことは早く言ってくださいよ」
流石に予想外だったのだろう。美形が目を丸くした。
「例の”傾国”のせいで、私も忙しかったのよ。エレオノーラ様に会いに行くのも一苦労なんだから。……解毒剤、もう少し早ければ間に合ったのにね」
宰相であるアイゼンベルグ筆頭公爵家当主、リチャードが毒に倒れたのは半年前。そこから昏睡したまま、結局意識が戻ることはなかったらしい。
「……王妃殿下の休養に続き、これで宰相も不在、ですか」
「陛下はますますの苦境に立たされる。その上例の姫のせいで、王家はもうガタガタ。教会一派の暗躍を押さえきれなくなるのも時間の問題よ。もちろん表向きは、だけど。陛下はわざと泳がせて、その時を待っているのでしょう」
本当に今更の話だ。
二十年前に発した小さな火種。それが長い時間をかけ少しずつ大きくなり、いつの間にか国すら燃やす大火に成長しつつある。
元を正せばロザリーヌが生まれる前の話だ。それで割を食うのは勘弁してほしいと、令嬢は遠い目をする。そんな主人を、従者がニヤニヤしながら見つめていた。
「何よ」
「いえ、愚痴ばかり言いつつ、何だか楽しそうなんで……」
「まったく……」
本当に食えない男だ。感情は表に出していないつもりだったのに。
「あの田舎娘……」
「殿下と呼んでおいた方が良くないですか?」
「うるさいわね。……あの人、何かやらかしてくれそうな気がするわ」
そう言うと、ローナンは意外そうな顔をした。
「あれだけボロクソ言っておいて?」
「確かに王女としては三流以下よ。でも、今の国にとって規格外なのは間違いない」
令嬢は微笑んで、ワインのシミがついたドレスを眺めた。
「あの人、私たちにはできない何かを成し遂げてくれそう」
その時、果たして自分の敵に回るか、味方につくのか。それもこれから次第。とりあえず、夜会の失態の謝罪という名目であれば、王女との面会の機会も持てよう。次の手に繋げることができるはずだ。
「さて、夜会に戻るわよ。ローレン」
「仰せのままに、レディ」
しかしあの女、自分が命を救われたことにも気付かず、ワインをひっかけやがった。
「しかも、よりによって赤よ、赤ワイン! 煽りにしても幼稚に過ぎるわ!」
「いてえ! お嬢、俺に八つ当たりするのやめてくれませんかねえ……!?」




