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看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第七章 看板娘は、もう戻れない
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王都再び その4

 王族の端くれなどと言ったところで、その頃の記憶がほとんどないエルシアにとって、貴族の茶会などおとぎ話の出来事だった。


 アルフレッドの先導に従って中庭に出たエルシアは、改めてアイゼンベルグ邸の威容に圧倒されてしまう。これまでの滞在で中庭を歩く機会などなかった。これだけ見事に整えられた花畑など、ここでしかお目にかかれないだろう。

 一応、エルシアだってギルドの中庭でちょっとした花や野菜を育てるくらいはしていたが、そんなものとは次元が違った。一体どれだけ手を掛ければここまでの庭ができるのか、想像もつかなかった。


「お手をどうぞ、殿下」

「いえ、あの……」

「お気遣いいただく必要などございません。どうぞご遠慮なく」


 先導するアルフレッドの様子が、今までと明らかに異なっていることに気付く。態度が洗練されているとでも言おうか。向けられる気遣いは明らかに過剰だ。

 まるで町に年二回やって来る、税収確定の役人になった気分だ。彼らに少しでも良い印象を持ってもらうため、町を挙げておもてなしをするのである。


 そこまで考えたエルシアは、ようやく気付く。

 そうか、どうやらこれがエスコートと言うものらしい。夜会の会場に向かう淑女を連れているようなものだろう。なるほど、美形にこうも微笑まれれば大抵の女性は心奪われても仕方がない。


 だが、エルシアにはときめくことなど全くできそうになかった。まるで獲物に捕食された草食獣の気分だ。

 エスコートするということは、エルシアをそうするべき相手としてとらえていることに他ならない。進めば進むほどに、正体を知られてしまったのだという実感が湧いてくる。


「あちらです」


 アルフレッドの指し示した方を見ると、こじんまりとした東屋(あずまや)が目に入った。豪奢な彫刻の丸屋根の元、真っ白なテーブルと豪奢な椅子が置かれているのを認める。

 そして、そこには一人の淑女が佇んでいた。


 遠目で表情は窺えなくとも、相当の気品が感じられる。

 緩く巻かれた亜麻色の髪を腰まで垂らし、深紅のドレスに身を包むその姿は、まさしく貴族令嬢の貫禄をもってエルシアを待ち受けていた。隣で侍女服を着た年嵩(としかさ)の女性がカートの前でお茶の準備をしている。


「先にお伝えしておきます。この庭園は”影法師(シルエット)”と呼ばれる隠密部隊で囲っております。ここでの会話が外部に漏れることは絶対にありませんので、ご安心を」

「……お、隠密部隊」


 なんだそれは、と聞き返したい気持ちをぐっとこらえた。いきなり随分ときな臭い単語が飛び出してきたものだ。

 今更余裕もへったくれもなかったが、おどおどして相手に主導権を渡すのだけはまずいことくらい分かる。かりそめの気合を入れて、東屋(あずまや)に向かった。


「エレナ、待たせました」


 東屋の屋根の下に入りながら、アルフレッドが微笑んだ。相手の淑女は、貴公子の蕩けそうな微笑みに、ついと眉をあげてみせた。


「全くですわ、アル。他の娘にうつつを抜かしてこの私を待たせるなんて良い度胸をしているじゃない」

「申し訳ありません。……寂しい思いをさせてしまいましたね」

「……馬鹿なこと言わないで頂戴。ちょっとした冗談に口説き文句を返さないで」


 淑女は深々と頭を下げるアルフレッドに眉を下げた後、エプロンドレスの客人に視線を向けた。

 それに応えるように、アルフレッドもこちらを見る。突然自分に視線が集中したことに、エルシアは肝を冷した。


「ご紹介を。こちらが第二王女であらせられます、エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライル殿下でございます」

「……エルシアと申します」


 慌てて頭を下げて短く名乗る。ファーストネーム以外を言う気になどなれず、たっぷり五秒数えてから頭を上げた。

 自分には貴族の作法などさっぱり分からないのだ。相手を不快にさせるような動作をしていないかどうか気になって、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。気を遣う必要などあるものか。半ば開き直って、目の前の淑女をちらりと見る。


 高い鼻、整った顔立ち。ほんのり色づいた頬は化粧によるものだろうか。長いまつげに彩られた、存在感を示すマリンブルーの瞳。手入れの行き届いた滑らかな髪は亜麻色に輝いていた。

 艶やかな朱色の唇が開き、その口から、淑やかさと芯の強さを併せ持つ声が発せられる。


「……そう。あなたが」

「……?」


 エルシアはその顔立ちに既視感を覚えていた。言い表せないもどかしさを感じて、違和感の原因を探ろうと、思わずじっと見てしまった。

 どれくらいの時間見つめ合っていたのだろう。数秒かもしれないし、数十秒動けなかったかもしれない。やがて淑女がゆっくりと腰を折った。


「お目にかかれて光栄ですわ。エルシア」


 ドレスの端をつまんで艶やかに一礼し、目の前の町娘をしっかり見据えて、淑女は名乗った。


(わたくし)は、エレオノーラ・マイロ・エスト・カーライル。この国の第一王女です」


 瞬間、エルシアの体が強張った。目の前の女性をまじまじと見つめ、思わず声が漏れ出る。


「……ま、まさか」


 第一王女。カーライル。その言葉が示すのはただ一つ。


「ええ。(わたくし)はあなたの腹違いの姉ということになるかしら。会えて嬉しいわ、エルシア」


―――


 腹違いの姉。

 

 それを認識した瞬間、エルシアが辛うじて持っていた虚勢は跡形もなく消え去った。腹違いではあっても、血縁関係にある人物。家族ともいえる人が目の前にいることが信じられず、ただ瞬きを繰り返す。


「驚いているようね、エルシア」

「そ、それはもう……」


 思わず素で返してしまってから、慌てて口を閉じた。


「立ったままというのも辛いでしょう。まずは座って?」

「は、はい……」

「ヴァリー、エルシアにお茶を」

「畏まりました」


 丸いテーブルを挟んで、エレオノーラの向かい側に座る。無意識に腰を下ろした椅子には、ふかふかのクッションが敷かれていた。堅い感触が来るものだと思っていたエルシアは、想いもよらぬ沈み込みにギョッとしてしてしまう。

 まずい、かなり動揺している。相手の出方が分からない以上、何が来ても冷静な判断をしなくてはいけないというのに。


 意識して冷静さを保とうとするエルシアの内心に気付いているのかいないのか。エレオノーラは柔らかな微笑みを浮かべて口を開いた。


「あなたとは色々と話をしなくてはいけないことがあるのだけれど、まずは言わせてもらえるかしら。……絶望的な状況の中、よくここまで生き延びたわ」

「え、あ、あの……」

「もしかしたら、あなたは自分の立ち位置を正しく認識できていないのかもしれない。けれども、十三年もの間出自を隠し続けてきたその判断は間違っていないと、そう言っておかなければいけないでしょう」


 怖がるな、呑まれるな。何か言わなければ主導権を取られて終わりだ。


「……立場の認識に自信はありません。私は田舎町の娘として育ちました。王都の情勢も必要以上には知ろうとしませんでしたし、貴女がたが、正体を暴かれた私をどうしようとしているかも見当もつきません」

「……随分と警戒されているみたいね。まあ、仕方ないわ」

 

 淑女が微苦笑する。その脇から、ヴァリーと呼ばれていた侍女が「どうぞ」と紅茶をエルシアの前に置いた。


「あ、ありがとうございます……」


 小さくお礼を言えば、ヴァリーはとても優し気な微笑みを浮かべてエルシアを見つめていた。思いもよらぬ侍女の表情に、思わずのけぞってしまった。


「どうぞ、冷めないうちに飲んで頂戴。ヴァリーの紅茶は中々のものよ」


 エレオノーラも侍女からカップを受け取りながら、エルシアに声を掛ける。声につられて目の前のカップを掴んだ。透き通った琥珀色と共に、嗅ぎ慣れない茶葉の香りが鼻をくすぐった。

 茶を飲むのに作法などあるのだろうか。そんなことを考えたところで、エルシアにマナーなど分かるはずもなかった。諦めてできるだけ静かにカップを口に運ぶエルシアを、淑女は真面目な顔で観察していた。


「さて、時間もないから、早速本題に移るわ」

「はい」

「まず、あなたの今後についてなのだけれど……」


 淑女の言葉に、エルシアは唇を引き結んだ。早速来た。エレオノーラの表情に柔らかさは見ることができず、姉妹というにはひどく気詰まりな空気が流れる。


「現時点で、少なくともこちらは積極的にあなたの存在を(おおやけ)にしようとは思っていない。ここにいる一部の関係者のみで事態を完結させ、元通り第二王女は行方不明のままにしたいの。もちろん、それはあなたの協力次第ではあるんだけれどね」

「……」


 第一王女の言った言葉を咀嚼する。

 油断すればいつ足をすくわれるか分かったものではない。それは痛いほど分かっている。だが、この言い方はあまりにエルシアにとって理想的な言葉ではないだろうか。そう、まるで……。


「……それは、私が今後も自らの出自を隠し通すのであれば、これまで通りの生活に戻っても良いとおっしゃっているように聞こえるのですが」

「正にその通りよ。今のあなたが王家に戻るのは相当の危険が伴うから」

「……理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」


 喜ぶのはまだ早い。姉にあたる女性が言った、”危険”という言葉の意味を考えてみる。

 例えば、エルシアが王位継承権の争いに加わることを危惧しているとか。いずれにせよ、迂闊に回答をだすのは危険だ。


 エルシアは口にカップを運んで時間を稼ぎながら、考えを巡らせた。こちらは十年以上平民として生きてきたのだ。多少の無礼は大目に見てもらおう。

 この国最高峰のお茶を味わう暇など一切なく、エルシアはエレオノーラを見つめる。視線の先で令嬢は何事か思案しているようだった。


「そうねえ……。正直私は迷っているのよ。複雑な話だし、こちらとしても言えることと言えないことがある。あなたがブランカに逃がされた理由にも繋がるから、いらぬ傷を抉ってしまうことにもなりかねない。それでも聞きたいかしら?」

 

 エルシアは思わず目を見開いた。

 エレオノーラはエルシアを指して、「捨てられた」ではなく「逃がされた」と言った。ずっと考えてきたのだ。エルシアにはある程度の推論は立てられても、事実を知っている訳ではない。これを逃せば、機会は二度とないかもしれない。


「であればなおさらです。自分に関わることなら、私は知りたい」

「……アルフレッド、どう思う?」

「信用してよろしいでしょう。エルシア殿下はとても聡明で、自らの信念を強くお持ちの方です。話を聞いたとしても、感情に流されず、冷静な判断をする頭脳をお持ちかと」

「……良いでしょう」


 エレオノーラは呟くと、庭園の花へと視線を逸らした。


「……それでは、どこから話しましょうか」


 エルシアは目の前の淑女をじっと見つめた。

 一言たりとて聞き流してなるものか。当の昔に諦めたとはいえ、自分はずっとこの血の呪いに振り回され、怯えてきたのだ。その謎の一端が明かされると聞いて、平常心でいられるほど図太くはない。


「現国王は、子を二人為したと知られているわ。第一子である(わたくし)エレオノーラと、十四歳になったばかりの第一王子、ルイス。どちらも正妻であるジュリアから産まれた子よ。それとは別に、陛下には隠し子がいるの。市民にはあまり知られていないけれど、王都の貴族たちの間では暗黙の了解になっている。それがエルシア、あなたのことね」


 エルシアは頷いた。この国には王女と王子が一人ずついるのは自分だって知っている。別に知ろうとしなくても、勝手に噂になって耳に入る知識だ。


「さて。ここで貴族の家柄の話をしましょう。私とルイスの母であり、この国の王妃であるジュリアは港町の男爵家出身。元を正せばそれほど高位の貴族家ではないのよ。対してエルシア、あなたのお母様であるリリエラ様は、この国の宰相を務める家柄。筆頭公爵家であるアイゼンベルグ家の人間。貴族の位階だけ見れば、どちらが高位か一目瞭然でしょう?」

「……純粋な血筋だけ見た場合、私が家の方が高位である。すなわち、エレオノーラ様よりも私の方が、家柄として高位であるという見方ができると?」

「ええ。流石、理解が早くて助かるわ」


 エレオノーラは一口紅茶を口に含んで続けた。


「さて、それを前提に、この国の情勢を説明しておくわね」


 そのまま、エレオノーラは気負いのない動作でカップを下ろした。


「一言で言えば、かなり危険な状態なの」

「……危険?」

「ええ、あなた、龍神聖教会(ドラゴニア)という言葉に聞き覚えはあって?」

「はい。もちろんです」


 忘れる訳がない。エルシアにとっては因縁深い相手なのだ。


「そう、なら話は早いわ。国王陛下と龍神聖教会(ドラゴニア)は、それこそあなたが生まれる前から、長い間敵対関係にあるの。しかも、昨年の冬から状況がどんどん悪くなっていて、簡単に言ってしまえば内戦一歩手前と言うところかしらね」

「……内戦、ですか?」


 ふと、オーリカの言っていた”物騒な話”を思い出した。教会の根城近くに陣取る騎士団の話を。

 

「そう。国王陛下と、教会の長である枢機卿との間には、二十年以上対立していてね。火種がどんどん大きくなっていって、今はいつ燃え上ってもおかしくない。さて、そんな教会が、王家から捨てられた忌み子の存在を知ったらどう思うかしら。しかもその忌み子が、血筋だけ見れば次期国王候補者よりも高貴な人間だとしたら?」

「……!」

「まあ、(わたくし)なら多少荒っぽい手を使ってでも、手に入れようとするでしょうね」


 エレオノーラが嘆息した。


「王都できらびやかな生活を送るはずだった娘。しかし現実では幼少期の軟禁状態に始まり、食べ物に事欠き、寒さに凍えてきたであろう王女。甘い言葉で復讐心を煽れば、味方につけることも容易だと思われても仕方ないでしょう?」

「……まさか! いくらなんでも、それは……」


 聞けば聞くほどくだらない話に、エルシアは呆れてしまった。

 

 復讐心?

 王家という存在に、復讐心など持つ余裕なんかなかった。日々を生きるのが精一杯と言う人間に向かって、お前には権力があるはずだった云々を言ったところで、そんな寝言の前に食い物を寄越せとあしらって終わりだ。

 表情に出したつもりはなかったが、エレオノーラはエルシアの気持ちを読んだように「馬鹿げた話でしょう?」と笑った。


「でも、それが現実。今の国内は、国王一派と教会一派に二分されている。もしあなたが第二王女として生きるのであれば、彼らとの関わりは避けて通れない。誰もがあなたを(そそのか)し、本人の意思に関わらず王位につかせようと、もしくは引きずり落そうと画策するでしょうね」


 事もなく言われたエルシアには、その意味を理解するまでに時間がかかった。整理するように、「つまり」と、一つ一つ口に出して見る。


「もし私が王城に行けば、私がどう考えようと、王位継承の争いに巻き込まれることになる。それは王城の貴族の方々に始まり、今の緊張状態と絡むことになって……」

「内戦への動きが加速するでしょう。教会は長年少しずつ力をつけて、開戦の機会を窺っている。第二王女の存在は、彼らに火をつける理由足り得るのよ」


 自分の存在のせいで、戦争が起こるかもしれない。まとめてしまえば、そういう話だ。アルフレッドやエレオノーラが、第二王女にブランカへ戻ることを進めるのは当然だ。

 黙り込んだエルシアに、エレオノーラは気の毒そうな視線を注いだ。


「リリエラ様、……あなたのお母様があなたを王都から逃がしたのは、正しい選択だったわ。あの人の事だもの、今の状況も予想がついていたのでしょうね……」


 未だ状況を整理しきれないエルシアは、母の名前を聞いて目を瞬かせた。そう。それも聞きたいことの一つだ。


「……母は、私のことを”捨てた”と言っていたはずです」

「それはそうよ。”逃がした”なんて言って見なさい。伝手を辿るなり襲うなりして、すぐに足取りを追われるじゃない」


 「その様子だと、やはり何も知らされていなかったみたいね」と、エレオノーラは表情を暗くした。

 ヴァリーがすかさず紅茶を注ぐ。深紅の輝きにミルクが混ざるのを見下ろしながら、彼女は言った。


「もう一度確認させて。あなたはリリエラ様のことを、自分が捨てられた時のことを知らない。この認識に間違いはない?」

「はい。五歳の時の記憶なんて、エレオノーラ様にもないでしょう?」

「そうね。無粋なことを聞いたわ。では、あなたはあなたの立ち位置を知っておく必要があるわね」


 エレオノーラの言葉に、エルシアは一つ頷いた。


―――


 ここから先は、大半の貴族の認識だ。そうエレオノーラは前置きをした。


「十三年前のある日、城の”六の塔”に賊が侵入した。侵入者はいずれも手練れで、全員を取り逃がしたわ。その正体は今をもってして分かっていないとされているの。ま、実際に手引きし、正体を隠すため圧力をかけたのは、教会に組する貴族たちだったのでしょうけれど」


 少し傾き始めた日に、エレオノーラは目を細める。


「その騒ぎの中で、女性二名が殺されたと、表向きにはそう公表されているわ。宰相家令嬢リリエラ・アリアスティーネ・アイゼンベルグ。そしてその娘、エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライル。それが公表されている犠牲者の名前」

「それは……」


 無意識に、声が震えた。目を見開いたエルシアに向かって、腹違いの姉が静かに告げる。


「そう。あなたが王都を離れた日のことよ。先程の話もあくまで表向きで、実際は違った。当時、リリエラ様の遺体はすぐ見つかったのに、エルシアの姿はどこを探してもなかった」


 朧げな記憶を探る。胸を一突きされた母の姿。床に広がる血。扉の隙間から、それをただ見つめる自分。その後は? 倒れ伏す母に駆け寄ることすらできず、すぐにその場を離れたはずだ。


「その事実を知った者は一人残らず恐怖したわ。教会に洗脳されて、復讐に取りつかれた第二王女が、彼らの手先になってこの国を壊しに来るってね。だけれど、現実はそうならなかった。事件からいつまでたっても、何も起こらなかった」


 当たり前だ。エルシアは今こうして生きているのだから。


「エルシア王女が姿を消して数か月。事態が動いた。かつてリリエラ様のお付きで、事件の際に第二王女と行方不明になっていた侍女の一人が、ひょっこり王城に顔を出したの。彼女は言ったわ。リリエラ様の命により、エルシア王女を捨てたのだと」

「かあさまの、命令……」


 次から次へと明かされる事実に、翻弄される他よりなかった。驚くことに疲れてしまいそうだ。


「すぐに侍女は捕らえられ、王都から捜索隊が派遣された。侍女の証言に基づいて山の中を探し回ったそうよ。……結果はご存知の通り。彼女は見つからなかった。王家の醜態にもなるから、大々的に探すこともできなくてね。第二王女、エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライルは行方不明のまま、やがて人々の記憶から消えていった。これがあなたの今の立場よ」

「……」


 エレオノーラの後ろに控えていた侍女が唇を噛みしめていた。ヴァリーと呼ばれた年嵩(としかさ)の女性、その仕草から、彼女も関係者なのかと、胸中に呟く。

 そしてなにより。


「なぜ、かあさまは私を逃がしたの……?」


 ポツリと呟いた言葉。エルシアの素朴な疑問だ。

 それに答えられるものはこの世にはいない。それが分かっていてもなお、エルシアは言わずにはいられなかった。


「その理由を知る術は、残念ながらもうないの。推測もできるけれど、それはあなたに伝えられない話よ。あなたが、……ごめんなさい、こういう言い方は良くないのだけれど、所謂(いわゆる)忌み子だったから、という理由が、一番納得できるかもしれないわね」


 なんとも歯切れの悪い回答だ。

 なるほど、これからも町娘として生きていく以上、エルシアには話せない内容なのだと、朧げながら察した。

 エレオノーラの視線に憐憫(れんびん)の情が混じる。


「いずれにせよ、エルシア第二王女の生存を知らしめれば、確実にこの国は混乱に陥る。あなた自身、様々な勢力から狙われることになるでしょう。その混乱は何としても避けたい。だから、あなたには出自を隠し通してほしい」


 そこまで言い切ったエレオノーラは、カップを手に取った。冷め始めた紅茶を口に含んで、ほうと息を吐く。


「……気を悪くしないで欲しいのだけど。正直に言えば、今のこの国にとって、あなたは在ってはならない存在よ。どうか、私たちの願いを聞き届けてもらえないかしら?」

 

 エルシアはカップの中の紅茶に視線を落とした。透き通る紅色に映った、忌々しい癖っ毛をじっと見つめる。

 亜麻色の髪という点は同じであっても、エレオノーラと自分では、髪の色つやに雲泥の差がある。それが姉と自分の違いだ。きっと枝毛で悩んだりしたこともないのだろう。どこまで行っても、この姉妹は住む世界が違う。

 目の色も違うのだなと、令嬢のブルーの瞳を見つめて、そんなこと場違いなことを思ってしまった。


「……お話は、分かりました」


 胸中の混乱を押し隠し、エルシアは顔を上げた。

 ここで結論を出すのは危険だろうか。少し考え、諦める。

 いくら悩んだところで結論は出ないことも分かっているのだ。


 今自分が優先すべきことは何か。それをエルシアはよく心得ていて、だからエルシアは決心したのだ。

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