王都再び その3
トントンと、ドアを叩く遠慮がちな音。
院長室の外にいるのが誰かなんて分かり切っていたから、ダリアは優しく呼びかけた。
「どうぞ」
建て付けの悪い孤児院の院長室のドアの向こうに、娘の姿が見える。予想通りの客人の訪問にダリアは微笑んだ。
「おかえり、シア」
「……うん」
「そんなところに立ってないで、ほら」
「うん」
エルシアがケトやガルドスと共に、王都からブランカに帰って来た、その翌日のことだった。町を駆けまわっていた子供たちから彼女がブランカに戻ったことは聞いていたし、朝食が済んだ後「ケトとエルシアさんが来た!」と、すぐ子供たちが騒ぎ出したのだ。
ダリアにとっては、長年面倒を見てきた、いわば我が子と言ってもいい娘だ。エルシアが扉を叩くだろうという確信を持っていた。
さぞや怖かったことだろう。さぞや疲れたことだろう。
エルシアにとって王都や貴族というものが恐怖の対象だということは、ダリアも嫌と言うほど知っている。それでも彼女が怯まずに王都に向かったのは、ひとえにケトを守り抜くという目的のためだということも分かり切っていた。
エルシアは母親に似て、とても頭が良い。
確かに孤児院に拾われた直後、ふさぎ込んだ我儘なお姫様だった時期もあった。だがひとたび自分の境遇を理解してからは、彼女がその環境に自分を適応させるのも早かった。自分を守る盾を作るために、昔から影に日向に動いていることを、育ての親であるダリアが知らない訳がない。
けれども同時に、ダリアは素の彼女のこともよく知っているのだ。
とても臆病で、非力で。その癖何でもかんでも一人で抱え込んでしまう、そんなか弱い娘を。
だから、戻ってきたら心から安らげるように、労わってやるつもりだった。
一人も欠けることなく、ケトとガルドスを連れて帰って来た。それはすなわち、エルシアが彼女の戦いに勝ったということ。
そう思っていたのに。
その時、ダリアはエルシアを見て心底驚いた。目の端に大粒の涙をためて、今にもくずおれてしまいそうな彼女が、そこにいたのだ。
こんな表情を見るのはいつぶりだろう。まるで、母親の姿を追い求めて毎日泣き暮らしていた、五歳の彼女に戻ってしまったようだった。
「……せんせい」
耐えきれなくなったように涙が一粒零れ落ちたのを見て、ダリアは慌てて立ち上がった。ボロボロの彼女に多くの言葉は要らない。彼女が求めているのが優しく包み込んでくれる温もりだということをダリアは良く知っている。
彼女を来客用の長椅子に座らせ、自分もその隣に腰かけて両腕を広げた。
「おいで、シア」
「う、うう……」
エルシアは昔のように、大声で泣き喚いたりしなかった。ただ肩を震わせて、育ての親に縋りつく。
「うう……どうしよう……。ひっく……。先生、どうしよう……」
「……シア」
胸にうずめた口元から、嗚咽と共にくぐもった呟きが漏れる。彼女が抱える痛みも恐怖も肩代わりしてやれないもどかしさを感じながら、ダリアには背中をさすってやることしかできなかった。
「辛かったねえ……。いいさ、沢山泣きなさいな……」
何が起きたのかは分からなかったが、安易に「大丈夫」と言えない自分が情けない。
エルシアが抱える問題は、それほどまでに根深い。一孤児院の院長程度では、匿うことはできても、根本をどうにかできるものではなかった。彼女は一生をかけてそれと向き合わなければいけない。エルシアにとって、それはもはや呪いや宿命の類と言っても過言ではなかった。
「……ごめんなさい、先生」
「何を言っているのさ、シア。あんたはもっと泣いた方がいいくらいよ」
しばらく後、泣き止んだエルシアに微笑んでやると、彼女は赤くなった目元に弱々しい微笑みを返した。
「……ケトの前では泣けなくって」
そう言ってから、彼女は微笑を消した。
「気付かれたわ。私のこと」
彼女の様子から想像していたとはいえ、血の気が引くのを止められなかった。「……そう」とだけ答えて、彼女が話し始めるのを待つ。
「相手がいつ知った分からないけれど。ケトの処遇が決まったと、アルフレッドに呼び出された時に、ね。……ケトに関しては、概ね上手くいったわ。力を使いさえしなければ、ブランカで、これまで通りの生活を送って良いと確約をくれた。それだけが救いなの」
そこでまで言って、エルシアは俯いた。
「……だけど」と絞り出す声が震えている。肩を抱き寄せる腕に少しだけ力を込めて、ダリアは癖のある髪を優しく撫でる。
しばらく経って、彼女はぽつりぽつりと語り出した。
「その後にね、アルフレッドに呼び出されたのよ。お茶会にどうかって」
―――
エルシアは、先を歩くアルフレッドに声を掛けた。
「あの、アルフレッド様。私には作法など分かりません。もしかしたらご気分を害されるかも……」
「安心してくれ。茶会と言っても、当家の庭で行う私的な物だ。特にうるさく言う者もいない、ただ雰囲気を楽しんでもらえれば十分だからな」
翌日に控えた王城でのグレイ騎士団長との謁見。その打合せを終えたばかりのエルシアは、ケトやガルドスと分かれ、庭園へと向かっている最中だった。
文官の正装を靡かせるアルフレッドは「それに」と続ける。
「あなたとは一度、ゆっくりと話をしてみたいと思ってな。庭に準備をさせているから。王都に来た記念だと思ってくれたらそれでいい」
彼は整った顔に柔らかな笑みを浮かべ、そう言った。
改めて見ると、彼は本当に美しい青年だった。エルシアの好みからは少し外れるし、そもそも従兄に当たる人間だからそういう対象として見たことはないが、きっと女性にも人気に違いない。服装も相まって物語から出てきた王子様のようだと、思わずその笑顔に見惚れてしまった。
ケトの件が上手くいっているからだろうか、それとも町歩きの時のガルドスの言葉が効いているのだろうか。後から考えれば、少し油断していたのだろう。元より拒否する立場にないのだからと、深く考えず頷いてしまった。
「……それでは、お言葉に甘えさせてください」
その時のエルシアは、呑気なことに気付いていなかったのだ。この時点で不穏な空気に気付けていたら、少しは抵抗できたのに。
結果的に、エルシアは何の準備もなく茶会の場に飛び込んでしまい、それに気付くことすら遅れてしまったのだ。
―――
青年の後について、廊下を歩く。ケトの元に戻れるのはいつになるだろうか。彼女にはガルドスがついているからきっと大丈夫だろうが、あまり離れたくはないのも本音だった。
ガルドス。
夕日に照らされた彼の顔を思い出してしまった。
幼い頃から何度も見てきた幼馴染の顔。彼に恋情を抱き始めたのはいつからだろう。彼は気付けば隣にいて、何かと気を遣ってくれて、ガキ大将だったころの考えなしな行動はいつしか鳴りを潜めて。代わりに見せる頼もしさに何度救われたことか。
幼い頃は、彼の後をついて歩いた。
いつしか、彼の隣にいることが、日常になっていた。
いつからか、彼の顔を見ると、ドキドキするようになった。
自分の気持ちなんて、とっくの昔から気づいていた。これを恋と言わずして、何と言うのだろう。
彼は分かりやすい。彼の気持ちにだって気付かない訳がない。そのことに心から喜んでしまった。それは本当に嬉しくて、幸せで。
しかし、それに目を向けてはいけないことをエルシアは良く知っている。
自分の気持ちに素直になることなんて、ガルドスの気持ちに答えることなんて、エルシアにはできやしない。それは自分の血の呪いに彼を巻き込むことに他ならない。万一子供ができてしまったら? その子は自分と同じく、この国への禍根になりうるのだ。
それは彼の幸せを壊すことに他ならない。きっと愛しいのであろう我が子にとっても呪いにしかなり得ない。それなら一生一人でいた方がまだマシというものだ。
そうは言っても、ときめいてしまう心は抑えようがなくて。彼に大切にされていることに気付けば嬉しくなってしまって。
「エルシア嬢?」
「……っ。は、はい」
いけない。物思いにふけってしまった。
前を歩く青年が、訝し気にこちらを見ていた。気付けば庭園へと繋がる扉の前に立っている。いくら何でも気を抜きすぎた。
お茶会などやったことがないが、もしかして庭で行うものなのだろうか。
「すみません、ぼうっとしてしまって……」
慌てて頭を下げると、アルフレッドはにこやかに笑った。
「いいえ、どうか頭を上げてください」
言われた通り頭を上げると、目の前の青年の瞳と目が合った。エルシアと同じ、栗色の瞳だ。
柔らかい表情のまま、こちらの全てを見透かしていそうな瞳で、彼は言った。
「むしろ、謝らなければいけないのはこちらの方なのですから」
「謝る? 何をですか?」
エルシアは、彼の口から発せられた言葉に首を傾げた。アルフレッドはそんな彼女に笑みを深め、一言一言区切るように言う。
「……あなたには、お分かりになるはずですよ?」
その微笑みを見た瞬間、ぞわりと背筋が泡立つ。全く予想にしていなかった言葉に、嫌な予感がポツリと浮かぶ。
「あの、何を?」
直後、筆頭公爵家の長男が、ギルドの受付嬢の前に膝をついた。深々と頭を垂れ、エルシアの前にひざまずく。
「これまでの数々のご無礼、どうかお許しを。謹んでお詫び申し上げます」
「……ア、アルフレッド様? ど、どうされたんですか、突然?」
驚いて声を上げれば、下から見上げる貴公子と目が合った。微笑みの欠片も残っていない視線を浴びながら、エルシアは凍り付く。
彼の言葉が理解できないはずなのに、彼の行動の意味が分かってしまった気がした。
頭の中に、まさか、という思いが浮かぶ。まさか、そんな。あり得ない。
「私を呼ぶのに”様”は必要ありませんよ」
「な、何をおっしゃっているんですか? お立ちになってください」
認めたくない。それ以上言わないでほしい。どうか私の勘違いであって欲しい。
「……あなたには、私の言葉の意味がお分かりになるはずです。それとも、こうお呼びした方がよろしいでしょうか?」
アルフレッドは真剣な表情を浮かべ、エルシアをまっすぐに見据えた。その口が動き、秘密を暴き出す。
「エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライル殿下、と」
知られた。
真っ白になった頭にその一言だけが浮かび、エルシアは呆然と立ち尽くした。
何か言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。
急げ、何か弁明の言葉を。何か、何かあるはずだ。自らの出自を誤魔化す方法が。
正直、油断していた。今までのやり取りから、それなりに知恵の回る町娘を演じられていると思っていたし、事実王都の人間だって、誰も気付いた素振りなど見せなかったではないか。
「な、何をおっしゃるのです? ”殿下”? それは王家の方々にしか使わぬ敬称ではないですか。私のような田舎者に使って良い言葉では……」
「あなたがただの町娘ではないこと、ご自身が一番ご理解されているのでしょう?」
「突然何のお話ですか? 私はただのエルシアです。ブランカのギルドの職員です……!」
「では何故、今も王印を身につけられているのですか?」
襤褸が出ないようにと必死に言葉を紡ぐエルシアの表情が、ついに凍り付いた。
「……ッ! な、何故それを!」
「調べる方法はいくらでもありますから。御名を内側に記した、黄金の指輪。王家の一族が生まれた時に作られる、王族の証明。それをあなたはずっと身に着けていらっしゃる。そうでしょう?」
口に出してしまった自分に失望する。否定しようとしても、墓穴を掘っている気がしてならない。
目の前の青年は自分の言葉を確信しているようだった。
エルシアは、ついにどうにもならないことを悟った。今の自分には、事実を揉み消すだけの論理を展開できない。
アルフレッドは黙り込んだまま、ただこちらを見つめていた。その視線に耐えきれず、蚊の鳴くような声で呟く。
「……いつから? いつ、気付いて」
青年が、頭を垂れたまま答える。
「殿下が、ケト嬢のことで私に交渉を持ち掛けてきた時に。そのご慧眼を不思議に思い、秘密裏に調べさせました」
「あの時……? そんなに前から……」
確かに、王都に来る途中で彼に詰め寄った。お付きの護衛がいなくなったところを見計らって、興味を引かせた。ケトの処遇に口を挟めるように、自分にある程度の価値をつける必要があった。
あの時にやりすぎたのか。あれがいけなかったのか。
意思に関係なく、指先が震えだす。目を大きく見開いてアルフレッドを見つめることしか、彼女にはできない。
「……ご安心ください。現在このことを知っている人間はごく一部に限られています。私の方で情報を抑えていますから」
「で、でも私の存在を知ったと言うのなら、ここでそれを私に伝えるということは……。私をどうにかするつもりなんでしょう……?」
真っ青な顔をして「……これまで通りではいられないんでしょう?」と続けたエルシアに、貴公子は片眉を上げてみせた。
「……これまで通りに、戻りたいのですか? 元の貧しい町娘に?」
「もちろんです! 忌み子の私が王女の立場に祀り上げられてみなさい、どう考えたって良いように利用されて終わりでしょう? 下手をしたら、母のように殺されるかも……! 私にとってこの血は呪いでしかありません。もし本当に王族になりたいなら、もっと前に動いていました!」
思わず一歩を踏み出しながら言う。動転して声色に気を遣う余裕はなかったが、それを聞いたアルフレッドはかすかに目を見開いた。
「……既に殿下が、そのような認識をお持ちだとは思いませんでした。調べさせていただいた中には、その結論に至るまでの情報を手に入れる術はないと思ったのですが」
「……貴方の言う通り、私が持っている情報なんてほとんどないに等しいんです。だから考えました、必死で。王族であることを隠して生きるというのは、自分なりに身を守ろうとした結果なんです……!」
自分の正体を知られてしまった際にどうすれば良いか、エルシアは幼い頃からずっと考えてきた。
結論はいつも変わらない。エルシアにはどうにもならない、だ。それでも、必死に言い募る。
「ですが、そうであれば話は早い」
心臓をバクバクさせ、冷や汗をかくエルシアを見た青年は、しかし落ち着いた声で返した。
「……流石に、このまま何事もなかったかのようにお帰りいただくには、あなたは危険すぎます。ですが、殿下の意思と我々の思惑がかみ合えば、第二王女としてのエルシア様の秘匿に、協力できるかもしれません」
「貴方の思惑……?」
「我々の、です。エルシア様」
「……貴方以外に、私のことを知っている人がいるのね」
「はい。その方にお会いいただくために調整した茶会ですから」
目の前の青年の顔は真面目そのもので、エルシアは拒否などできないことを悟った。覚悟なんてできていないが、それでも行くしかないのだ。
「どうぞこちらへ」
宰相の息子が、自らの手で扉を開ける。差し込む午後の日差しが、自分の秘密を暴き立てたような気がして、エルシアはふるりと震えた。




