大人たち、考える その3
「ごめんなさい……」
「ね、ねえ先生……。ケトも反省してるし、その辺で……」
「つべこべ言わない。大体シア、あんたはあんたで叱らなくちゃいけない事が山ほどあるんだから、安心しているんじゃないよ」
久々の休日だと言うのに、孤児院の一室で、エルシアとケトは身を寄せ合って縮こまっていた。向かいに腰かける老女は、眉を吊り上げて、姉妹から視線を逸らそうとしない。
「シアのことだから、ケトをロクに叱ってあげていないでしょう? それじゃあダメよ。何が悪いことか、何がしてはいけない事か。それを知らないまま大人になってしまうのが一番良くないからね」
怒った時の院長先生の話は長い。ケトが誰にも言わず危険な西町に行ったことに対してのお説教は、徐々にエルシアにその対象を変えつつある。
「さて、ケト。私の言ったこと分かったね?」
「はい……。ごめんなさい」
「よろしい。では食堂にお行き。みんなが待っているよ」
「……シアおねえちゃんは?」
おずおずと視線を上げたケトは、げんなりした姉の顔と、にこやかに微笑む院長の顔を視界に入れて、慌てて顔を俯けた。
「シアはもっと叱ることが多いからねえ。これからじっくり反省してもらうよ」
「……お手柔らかに。ケト、先に外でみんなと遊んでいて」
「う、うん。いんちょうせんせい、あんまりシアおねえちゃんをいじめないでね」
ソファから立ち上がった少女はそんなことを言って、ドアノブに手をかける。立て付けの悪いドアが開いた瞬間、廊下から「やばっ」という少年の声と、パタパタという足音がエルシアの耳にも聞こえた。
見なくても分かる。慌てて駆けだしていく後ろ姿はジェスのものに違いない。きっとケトを心配してくれていたのだろう。
「さてと、シア。わかっているだろうね?」
「……はい」
院長の前に取り残されたエルシアは、背筋を伸ばして姿勢を正した。少し無茶をしすぎた自覚はある。甘んじてお叱りを受けよう。だが、その前に。
「先生、その……」
「なんだい?」
「お叱りの前に一つだけお願いが……」
このお願いは火に油を注ぐようなものだろう。だが、エルシアはどれだけ怒られても、院長に言っておかなければならない事があった。
―――
ダリアは、娘を叱りながら考える。
悪いことを悪いと叱ってやる大人。それは絶対に必要だ。
ケンカをしたから。誰にも言わず飛び出したから。危ない場所に行ったから。この間の騒動でケトやジェスのしたことは、叱るべき内容として妥当だろう。
では、エルシアはどうだろう。
ダリアにとってはいつまでも小さな娘の一人だ。だが、彼女はもう一人で物事を考えられる大人でもある。例え酷く拗らせていても、その行動には彼女なりの考えがある。
この間の人攫いの騒動。エルシアがとった行動は、どれも計算し、考えつくされた結果。
それを悪いことだと叱るのが、本当に正しいのかどうか分からない。何も言わず見守るべきでは、と思うこともある。
だが、そこまで考えた上で、院長は娘を叱らざるを得ない。
彼女の行動が、その願いが、驚くほどに一途で悲しいものだから。そんなに切ないことを考えるべきではないのだと。もっと明るい願いを考えるべきではないのかと。その想いを込めて、ダリアはエルシアを叱るのである。
冒険者や町の人の間で、彼女は綺麗で、可愛くて、賢くて、はきはきしていて、心配りのきく娘だととても人気があるそうだ。
けれども、本来の彼女と共に育った者たちは、一様に呆れた顔をする。例えばガルドス。例えばミーシャ。彼らは昔の彼女を知っている人たちだ。
酷く引っ込み思案で、臆病な娘。
孤児院にやってきたばかりのエルシアの評価はそんなものだった。
暇さえあれば、部屋の隅に行って膝を抱えて丸め込む、そんな娘だった。ふと見ると、首から掛けている指輪を取り出しては、じっと見つめていることが多かった。
人の手を借りることを嫌がり、なんでも自分一人でやりきろうとする。その癖彼女はとても不器用で、半泣きになりながら意地になっているところをよく見たものだ。
優しく接しても、怒っても、五歳のエルシアは自分のやり方を意固地に貫き通した。
水汲みをすれば桶から水をぶちまけ、食事の準備をすればお皿をひっくり返す。粗末な木の皿だったから良かったものの、陶器の皿だったら果たして何枚割っていたことか。
別にダリアは驚かなかった。
こういう言い方は良くないが、親を失ったばかりの傷ついた子はよくあること。自分が抱えるやるせなさをどう表現していいか分からないのだ。だから彼らは暴れたり、騒いだり、閉じこもったりする。
やがて自分の中で折り合いをつけ、ちょっとしたひねくれ者くらいに落ち着くのだから、きちんと気をかけてやれば、そこまで心配することでもない。
実際にそれはエルシアも例外ではなかった。
彼女の場合、ガキ大将だったガルドスという少年と大ゲンカしたのが切っ掛けだったか。やがてエルシアはガキ大将の子分となり、少しずつ子供たちの輪に溶け込んでいった。笑ったり、泣かされたり、いたずらしたりして怒られたりする小さな娘は、年相応の女の子の姿そのものであった。
彼女が本格的に捻くれはじめたのは思春期に入ってからだ。
きっとエルシアが彼女自身のことを理解するようになったからだろう。
元々器用な娘だった。気付いた時には社交的になり、自身のなさは鳴りを潜め、隅っこではなく部屋の中心で子供たちを引っぱるようになった。
今のエルシアはその延長線上にいる。冒険者ギルドの職員と言う役職は、まさしくエルシアにとって天職だと思う。
だが、ダリアは知っている。
エルシアのその振る舞いこそ、自分の身を守るために身に着けた武器なのだということを。
本来の彼女は、ガキ大将の子分として、服の裾を掴んで回っていた臆病な少女のままなのだから。
―――
「シア、よく分かった?」
「……はい」
「ちゃんと反省してるでしょうね?」
「も、もちろんよ!」
長い長いお説教もようやく終わりにかかる。彼女をここまで怒ったのは、ダリアにとっても久しぶりだった。
シュンとしているように見えるエルシアだが、どこかで余裕を持って聞いているようにも窺える。それはこのお説教が、ただ単に怒っているのではなくエルシアを思っての言葉であることを、彼女自身がよく知っているからだろう。曲がりなりにも親代わりだったのだ。それくらいのことを察するのは容易い。
きっと彼女はこう考えているはずだ。やっぱりこのタイミングでの”お願い”は悪手だっただろうか、とか何とか。
だが、そんな彼女の余裕を、ダリアの次の一言が消し飛ばした。
「それから、さっきの”お願い”。あれは却下ね」
「え……!?」
エルシアの表情が劇的に変わる。
信じられないという感情をありありと浮かべ、思わず身を乗り出した彼女に心が痛んだ。
きっと彼女の頭の中では、思考が高速で回転し始めているはずだ。
なぜ断られた、そこまで怒っているのか、どうしよう。
エルシアは考えずにはいられない。それは彼女の癖となって、身についている。そう、彼女はその思考力を武器に、ここまで生き残ってきたのだ。
だが、こればかりは、いくら考えたところで彼女に答えを出すことなどできない。そんな論理的な思考では出せる答えではないはずだ。
「ど、どうして? 理由は? やっぱりあの子だから? それとも私のせい?」
「落ち着きなさい、シア」
「大丈夫、落ち着いているって。ねえ先生、これだけは他の人には頼めないの。先生に断られてしまったら私……」
「シア」
「ごめんなさい、今回やりすぎた自覚はあるの。でもそれはケトが攫われて頭真っ白になっちゃって……。ねえ、どうしたら許してくれる? もし許してくれるなら、罰当番でもなんでも……!」
「シア、深呼吸」
「え……? あっ……」
真っ青な顔をしてまくし立てていたエルシアはそこでギョッとして口を噤んだ。
ダリアの言葉に従って深く息を吐くエルシアを見つめる。彼女はいたたまれなくなったように肩を縮こまらせた。
心を許した人に、彼女はとことん弱い。
それは寂しさを隠している子が持たざるを得ない依存心、執着心の表れだ。本人にもその自覚があるから、彼女は親しい人を積極的に作ろうとしない。
「落ち着いた?」
「うん……」
意気消沈してこくりと頷いた娘に、院長は肩をすくめながら笑う。
「そんなに驚くとは思わなかったよ。ちょっと悪いことをしたねえ」
「……ねえ、なんで?」
小さな声で問いかけられ、ダリアは柔らかな微笑みを浮かべた。木の椅子から立ち上がって、エルシアの隣へ。おんぼろソファに腰かけて、俯くエルシアの横顔を見つめた。
「シアのお願いは、ケトのことばかりで、自分のことを何も考えていないじゃないか。そんな悲しいお願いは聞けないよ」
「それは……。だって……」
思わず言い淀んだエルシアの頭に、院長はゆっくりと手を伸ばす。癖のついた髪を優しく撫でてやる。エルシアはこれに弱いのだ。それも良く知っている。
暫し無言の時間が流れた後、エルシアはぽつりと呟いた。
「だって、私のことはどうにもならないから……」
「……確かにそうかもしれないね」
「でしょ?」
自信のなさそうな、消え入りそうな声。全てを知っている院長の前で、エルシアは普段の猫が被れない。叱られているときよりもずっと落ち込んだ表情のエルシアを、院長は優しく見下ろしていた。
「何度も言ったでしょう? あなたは少しでも幸せになる努力をするべきよ。なんでもかんでも無理だと割り切っていたら、いつか本当に一人になってしまうよ」
「……」
「大丈夫、今は頷くことはできないけれど、本当にどうにもならない時が来たら、シアの心配がないようにすると約束するよ」
「……本当?」
「あんたも可愛い娘の一人さ。そんな娘のお願いだ。悪いようにはしない。だから心配せずに、まずはあの子と幸せな日々を過ごすことを考えなさい」
俯いたままのエルシアは、院長の言葉を噛みしめているようだった。院長の皺だらけの手の感触を感じるように、やがてコクンと頷く。
先程まで叱られていたはずが、いつの間にか慰められている。それが何だかおかしくなったのだろうか。エルシアはようやく少しだけ微笑みを見せてくれた。




