ただいま その3
翌日の昼過ぎ。進路を北に変えてから小一時間もしないうちに、一行は森に入った。
カーライル王国の北の端、東西に延びる山脈の麓にある森だ。気を抜けばすぐに方向を見失う場所ではあるが、ブランカの冒険者たちならそんなヘマをしない。
ナッシュに教えてもらっていた通り、一行はすぐに細い山道を見つけた。
あまり人の通らなさそうな、しかし地面の見えるその道を見失わないように気を配る。もちろんコンパスの方向に注意しながら進むのもコツの一つだ。
先頭はガルドスに任せた。
森は視界が遮られる分、魔物の接近に気付きにくくなる。彼は普段から森に入っているから、その経験が大きな助けになるはずだ。エルシアとケトはその後ろだ。
ケトも今日は跳ねまわったりしなかった。キョロキョロとあたりを見回すことはあっても、エルシアの傍にぴったりとくっついて、一所懸命についてくる。
「あ、エルシア」
ふと、ケトが立ち止まった。その視線は木々に隠された前方の一点を見つめて、逸れることがない。
「どうしたの?」
「なにかいる」
エルシアは思わずショートソードの柄に手をかけた。先行するガルドスが、緊張した面持ちで辺りを見回してから、ケトの指す方へ偵察に向かう。極力物音を立てぬよう、茂みの薄い所を選んで進むその背中が、音もなく消えていった。
ケトが何かを察知するのは、これが初めてではない。森に入って既に二回目だ。いずれもかなり遠い距離にも拘わらず、少女はその感覚で魔物を見つけ出している。
案の定、しばらくして戻ってきたガルドスは低い声で唸った。
「オーガどもだ。二匹、この先まっすぐ進んだ所にいやがる」
「こっちに来そう?」
「いいや、丁度この道を横切ろうとしていた。西に向かっているみたいだから、鉢合わせないようにここで少し待とう」
「上手くやり過ごせそうね。お手柄よ、ケト」
エルシアが褒めると、ケトは嬉しそうに笑った。いずれにせよ、今動くのが得策ではないのは明らかだ。オーガは取り立てて鼻が利く魔物でもないし、下手な真似をしなければ問題ない。
念のため剣を抜いたままのガルドスが、小声で問いかける。
「ケト。お前、あの距離で良く気付いたな。どうして分かるんだ?」
「まものは、とおくてもピリピリってするからわかるの」
「ピリピリ?」
「うん、ピリピリ」
恐らく彼女自身、上手く説明できないのだろう。生来の性格か、はたまた単純な知識不足か、ケトの話はとても曖昧で感覚的だ。
「やっぱりわっかんねえな」
ガルドスが苦笑した瞬間だった。
ケトがはっとした顔で森の奥へと視線を向けた。その視線につられて同じ方向をエルシアが眺めたその直後に。
森の奥から、悲痛な叫び声が響き渡った。
「マジかよ……!」
ガルドスが歯ぎしりしながら、声のした方を睨みつける。続けて、どこか遠くから何か重い物が叩きつけられる鈍い音が響く。
間違いなく、先程オーガが向かった方角だった。エルシアの顔から血の気が引く。
「人の声だった……」
「どうする?」
剣を握りなおした大男が、エルシアに問いかける。
オーガは、並みの冒険者であれば二人以上で相手にするのがセオリーの魔物だ。ガルドスのような腕利きならともかく、下手に首を突っ込めばこちらもただでは済まないかもしれない。だが、このまま見殺しにするのも胸糞が悪かった。
「様子を見に行くわ。隙を見て逃げるのを援護する。もし厳しければ、残念だけど逃げるわ」
「お前とケトも一緒にか?」
「……他に魔物がうろついているかもしれないもの。私ひとりじゃケトを連れて逃げることも難しいわ」
「分かった。ギリギリまで見つからないように、迂回して近づこう。二人とも離れるなよ?」
頷いたエルシアは、自分を不安そうに見上げたケトの手をしっかりと握った。
―――
手遅れ。
三人がその場にたどり着いた時、エルシアの頭に浮かんだ言葉がそれだった。
茂みに身を隠しながら近づく間に、叫び声も地響きも聞こえなくなっていた。戦闘が終わったのだろうか。エルシアにはあまり良い予感が持てなかった。
生い茂った葉をかき分けてこっそり様子を窺ったガルドスが、手招きしてエルシアを呼ぶ。彼の隣から、そろりと顔を出して辺りを見渡した。
「……!」
そこには激しい戦闘の後が残されていた。
穿たれた大穴に、焦げ跡のついた地面。倒れたオーガの巨体の傍らに、動かない人影が一つ見える。どちらもピクリとも動かない。
「……遅かった」
「相打ちだったのか? さっきは二体いたのに、もう一体が見えねえ。油断するなよ」
小声で声を交わす二人を交互に見やって、ケトが「どうなってるの……?」と首をかしげていた。流石にこの惨状は説明したくない。
「……ケト、ちょっとだけ、ここで待ってて?」
ケトを茂みに潜ませたまま、なるべく音を立てないよう茂みから這い出す。オーガの様子を確認しはじめるガルドスを横目に、エルシアは倒れている男の元へ歩み寄った。
遺体は、こと切れているのが一目で分かるほど酷い有様だった。うつ伏せの体を転がし、顔を確認する。
「……知らない顔ね」
絶望に見開かれた目を閉じてやりながら、エルシアは呟く。傷だらけの遺体の傍らに転がる剣を見ながら体を震わせた。森の中でオーガに鉢合わせるなんて本当にぞっとしない。
別の町の冒険者だろうか。もしそうなら身元を調べて連れ帰ってやりたい。どこかにこの男の帰りを待っている人がいるかもしれないのだから。
「あれ……?」
血に濡れたハードレザーを確かめようとしたエルシアは眉を寄せた。
鎧の下に冷たい金属の感触を感じる。男が革鎧の下に鎖帷子を着ていることに気づいたのだ。
山を歩くにしては、鎧が重すぎないだろうか。少なくともブランカの冒険者で鎧の重ね着なんかする者をエルシアは一人も知らない。カバンを探るが、ギルドカードの類は見つからない。
代わりにくしゃくしゃになった紙を探り当てたエルシアは、その中身を見て眉を寄せる。
「なにこれ、地図? ……っ!」
地図に向けた意識が、かすかな物音のせいですぐさま他に移った。慌てて剣を握り直し、音のする方へ振り向く。
「ガルドス!」
短く呼ぶと、大男が何も言わずに駆け寄ってきた。受付嬢の指し示す方向へ剣を構え、腰を落とす。
「あれ、中身何だと思う?」
「分かんねえ。けど、見るからにヤバそうな感じだ」
視線の先に、地面に放り出されたズタ袋があった。倒れ伏した男から少し離れたところに、あちこち汚れた大袋が転がっている。
ずいぶん大きな袋だ。口が厳重に縛られたその中身が、もぞもぞと動いているのが見える。
「援護を」
「任せろ」
短く言葉を交わしてから、エルシアはショートソードを構えて前へ出る。袋に近付くと、ガサガサという音の他にくぐもった唸り声が聞こえるのが分かった。
間違いない。中に詰められているのは生き物だ。
袋の口を閉じている荒縄を見て、腰の後ろのダガーを引き抜く。エルシアは膝をついて縄を切りにかかった。段々と胸騒ぎが大きくなる。どう見てもまともではない。
「……まさか、人攫いとかじゃないでしょうね」
唸った瞬間、縄が切れて地面に落ちた。中の唸り声がひときわ大きくなるが、怯むことなく袋の端を掴んで引っ張ると、中身がゴロンと転がり出てきた。
「うわっ!」
「おいおい……!」
慌ててその場から飛びのくエルシアに、驚愕の声を上げるガルドス。転がり出てきた袋の中身は、二人が想像すらしないものだった。
「オーガの、子供……!?」
「こいつは、人攫いよりタチが悪いぞ」
青白い肌に、毛の一本も生えていない頭。そして太く短い手足。手足を縛られ地を転がる魔物は、まさしくオーガに違いない。
特筆するとすれば、目の前の魔物が記憶の中にある巨体とは程遠く、ケトより少しだけ大きい程度の背丈しかないことだろう。きっと子供に違いない。
エルシアはじたばたと暴れる魔物をじっと見つめる。魔物の子を見るのは初めてだった。もしかして、先程男達を襲っていたオーガは、この子を取り返そうとしていたのだろうか。
「信じらんねえ……。オーガの子供を攫ったのか? 一体何考えてんだよ……」
ガルドスが思わず呟く横で、看板娘はこの魔物をどうしようかと悩みながら、じっと観察していた。
「……この子、酷い怪我してる」
「早い所ここを離れた方が良いぜ。さっき見かけたもう一体が近くにいるはずなんだ。仲間を呼びに行ったのかもしれない」
「そうね」
放っておけば、オーガ達がこの子を見つけるだろう。その時にエルシア達が近くに居でもしたら、目も当てられない。子を連れ去った人間と勘違いされた挙句、男の代わりに襲われるのがオチだ。
しかし、随分と愚かな真似をしたものだ。倒れた男への同情心が一気に薄れるのを感じながら、エルシアは一歩後ろに下がった。
「……どうしてこんな真似を」
どうにも違和感を感じる。
密猟にしては、あまりに杜撰な手口。これほど酷い怪我では、オーガの子だって弱ってしまうだろうに。あんな様を仲間のオーガが目にしたとすれば、居合わせた者だけでなく、怒り狂って近くの村を襲ったっておかしくない。
報復が来ることを考えていない、周囲を巻き込むだけの自傷行為とも言えるのだ。
無意識に力がこもった手の中で、藁紙がくしゃりと音を立てた。そうだった。先程、男のポケットから見つけた地図を持ったままだった。
何の気なしに目線を落とすと、随分と正確な地図の中にポツポツと印がつけられていることに気付いた。点と点の間隔がかなり狭いが、野営の予定地か何かだろうか。
やるせない気持ちで地図上の点を目でなぞったエルシアは、そこでふと気付いた。
「……あれ?」
「エルシア?」
思わずあげた声に大男が視線を向けるのが分かったが、エルシアには返答する余裕はなかった。再度、手の中の地図を食い入るように見つめる。
「……まさか、ね」
点の一番端。このあたりで一番大きなオーガの巣の辺りではなかろうか。ギルドの受付をやっているだけあって、エルシアは詳しいのだ。でもそうすると、この地図は。
「……そんなバカな話、ある訳ないじゃない」
目的は何だ? 何のためにこんなことをするのか、エルシアには見当もつかない。しかしこの状況だけ見れば、気づいたことを否定する要素が見当たらなかった。
もしこの推測が正しければ、このまま立ち去るのは悪手かもしれない。
「……まずい」
「どうしたんだよ、いきなり」
小さな声にガルドスが反応した。
どうすればいい? 頭の中で整理しながら、エルシア背中の荷物を乱暴に下ろす。
「悪いけど、説明は後よ。ケトをこっちに呼んで来て。あの子の感覚なら、周りに魔物がいればすぐに分かるはず。それからガルドスはその男の荷物を探って。何か連中の正体の手掛かりがあるかも」
「うっそだろ、逃げるんじゃないのか?」
「そのつもりだったけれど、予定変更よ」
ガルドスが露骨に嫌な顔をする。当たり前だ、そんな追い剥ぎの様な真似を進んでしたがる人間はいない。
だが、彼はすぐに踵を返し、ケトの潜む茂みに向かった。お互い良く知る仲だ。エルシアが何の意味もなくこんなことをしないと悟ったのだろう。
エルシアはカバンから薬の小瓶と清潔な布を引っ張り出す。本当は煮沸消毒すべきなのだろうが、そこまでは時間が許してくれないだろう。
「お、おいおい、魔物を治療するのか?」
茂みの前で振り返ったガルドスが驚きに目を見開いている。当たり前の反応だろう。人を襲う魔物をわざわざ治療するなんて、普通では考えられない。
「間に合うか分からないけれどね……」と唸りながら、ゆっくりと魔物の子供に近付く。傷ついたオーガが、鋭い目でエルシアを睨みつけていた。こちらを相当警戒しているのがよく分かった。
「大丈夫、怖くないよ」
怖いのは自分の方だと、エルシアは汗ばんだ手を握った。子供とは言え魔物は魔物。言葉の意味を理解してくれる訳がない上、エルシアの細い首など簡単にへし折るくらいの力もある。
できるだけ優しい声を出しながらゆっくりと近づく。威嚇するように牙を剥いたとしても、両腕両足を縛られた上、猿ぐつわをかまされた子供にできることは何もないはず。いずれにせよ、拘束を解くのは最後にした方が良さそうだ。
「怖くないよ……、怖くない、怖くない……」
オーガの隣にひざまずき、骨ばった肩のあたりにそっと触れる。人間よりもずっと堅い、ごつごつした皮膚の感触におののきながら、怪我の具合を確かめた。
「グウウウウウウ!」
「うわっ、大丈夫だって、暴れないでって!」
「だ、だいじょうぶ?」
「え、ええ。大丈夫よ、ケト。苦しんでいるのはこっちの子なんだから」
茂みから出てきたケトが、少し離れたところから心配そうに見つめていた。流石に近づく勇気はないようだ。
少女の力なら、その気さえあれば簡単に抑え込むことができるだろうに、こういうところは年頃の子供らしい。たとえ冷や汗が止まらなくても、保護者としてあまりみっともない姿は見せたくないと、看板娘は虚勢を張る。
実際に確かめてみると、魔物はかなり酷い怪我を負っていることが分かった。両肩の骨が脱臼しているせいで腕が動かせない上、あちこちに殴打の跡が見て取れる。
駆除しようとして負う怪我ではなく、苦しめるためにつけた傷と言った方がしっくりくる。エルシアは思わず顔を歪めた。耳をそぎ落とすなんて、とても人のやることとは思えない。
「ごめん、少しだけ我慢して……!」
「グウウウウウウ!」
真水をかけて傷を洗うと、オーガは激しく体を動かした。手足を縛りつけている縄がギシギシと軋み、彼女を睨みつける黄色い目が、エルシアへの怒りを露わにする。
「……仕方ないじゃない、こうしないと膿んじゃうって。そんな目で見ないでよ、手が震えるから」
ブツブツと文句を言いながら、布に軟膏をたっぷりつけて魔物の耳にあてがう。またしても体をびくつかせたオーガだったが、やがておもむろに動きを止めた。
「ほら、少しはマシになったでしょう?」
布に塗ったのはマグワートから作った軟膏だ。
ついこの間までケトが集めていた薬草は、簡単に手に入る薬草にしては効果が大きい。煮詰めて使えば化膿を防げるし、一時的な鎮痛作用まであるから、冒険者達の間でも重宝されるのだ。
流石に魔物に使うのは初めてだったが、人と変わらず、きちんと効果を発揮してくれたようだ。
再びこちらを見た黄色い目が、戸惑ったように震える。オーガに表情筋がないからよく分からないが、どうやらこちらが傷つけようとしているわけではないことだけは伝わったようだった。
「あの男、ギルドカード持ってねえな。冒険者じゃないかもしれない」
「毛布や食器は持ってた?」
「いんや、その辺は何も。……ああそうか、何か妙だと思ったら、あいつ旅道具を何一つ持ってねえんだ。て言うか、後でちゃんと説明してもらうからな」
ガルドスが手をはたきながら寄ってきて、オーガを治療するエルシアの隣に膝をついた。気負いなく魔物に近付くガルドスを見て安心したのだろう。ケトが大男の影に隠れながら、魔物の子を見ようと首を伸ばす。
「もちろん説明するわよ。でも、他の魔物がこの子を探しているはずだから、さっさと治療して、ここを離れた後でね。……肩の骨はめるから、ちょっと手伝って」
「全く、人遣いの荒い……」
ぶつくさ言いながら、ガルドスはオーガの肩を抑える。脱臼した肩が痛むのだろう。再び暴れはじめた魔物を動かないように固定するのは、エルシアの細腕ではできない芸当だ。
「いいぞ、一気にやれ」
「せーの!」
嫌な感触と共に響く、ゴキリという鈍い音。痛みにのたうち回るオーガの子を必死に押さえつける。
「もう少しだけ我慢して!」というエルシアの声が聞こえているのかいないのか、魔物が手も足も滅茶苦茶にばたつかせた。濡れ布巾を当てながら、先程の軟膏を塗り込んでやる。後はもう、早いところ薬の効き目が出てくるのを願うばかりだ。いいから早く落ち着いてくれと、エルシアはひたすらに願った。




