ただいま その1
町から見える山脈の雪も、すっかり解けて久しい。
ブランカに、一年で最も過ごしやすい季節がやってきていた。
今日も良い天気だ。まさしく旅日和といったところ。朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、エルシアは家のドアに錠を下ろした。
「忘れ物はないわね?」
「うん!」
ケトがぴょこんと跳ねると、旅装束がふわりと靡く。
エルシアと一緒に繕ったお下がりも、ついにお披露目だ。ブーツだってベルトだって、革でできた頑丈なもの。ガルドスからもらったお下がりのカバンには、隅に子猫の刺繍が縫い込まれていた。
昨日はなかったカバンの刺繍に、少女が気付いたのはつい先ほどのこと。
ああっ! と大きな声を上げたケトは、それからというものの「ねこさんねこさん」と大はしゃぎだった。やっとのことで腰にいつものダガーを括り付けさせ、最後に外套を羽織らせれば、準備完了である。
「おそろいだね!」
「ふふっ。ええ、そうね」
ケトが着ているお下がりも、エルシアが今身に着けている旅装束も、どちらもエルシアが作ったものだからかどことなく雰囲気が似ている。もちろんエルシアの着ている服の方が大人びたデザインだが、ケトは似たような服を着られたことが嬉しいようだった。
「よし、じゃあ行くわよ?」
「ぼうけん!」
ケトと二人、家を背にして歩き始める。前を行くケトは初めての遠出とあってはしゃいでいるようだ。スキップしながら進む少女の姿にエルシアは微笑んだ。
ここに来たばかりのころに比べて、随分打ち解けたものだと思う。はじめは借りてきた子猫の様にピリピリしていた少女だが、今は表情も雰囲気も大分柔らかいものになっている。
「ガルドス!」
「おう、おはよう」
北門の前で待っていたガルドスと挨拶を交わす。
彼はいつものハードレザーの上からマントを羽織っていた。背中には大きなカバン。ロングソードを腰に携え、ぴょこぴょこ跳ねる少女を迎えた。
「懐かしい服着てるな、ケト」
「なつかしい?」
「ああ、昔エルシアがやんちゃしてた頃に着てた服だ」
やんちゃ? と聞き返したケトは興味津々で身を乗り出している。人の恥ずかしい過去をほじくり返すのはやめてほしい、とエルシアは目を吊り上げる。
「ああ。例えばだな」
「ちょっと! 何言いだす気よ」
ニヤニヤしながらエルシアを一瞥した大男は、ケトの方を向いて語りだす。
「ガキの頃、森に罠を仕掛けたことがあったんだ。ま、ただの落とし穴なんだけどな」
「ねえ、ホント何教えてるのよ。やめなさいってば」
「さんざん葉っぱかけて穴隠した後に、エルシアのやつ、そのことをすっかり忘れてさ、自分の掘った落とし穴に嵌ってやんの。みんなで目印までつけたっていうのに、穴掘った本人が忘れてるんだぜ?」
エルシアはガルドスに肘鉄をくらわせた。ケトはクスクス笑っている。
「ほら! 馬鹿な事言ってないでさっさと行くわよ!」
ずんずん歩くエルシアと、懲りずに看板娘の武勇伝を語るガルドス。後に続くケトはケラケラ笑いっぱなしだ。
のんびりした雰囲気で、ケトの大冒険が幕を開けたのだった。
―――
北門の先、スタンピードで荒らされた畑を越えれば、その先はなだらかな丘陵地帯が広がる。
そのまま北に向かえば小一時間で森に入るのだが、今回ばかりは、ただ森をふらつけば良いという訳でもない。
常連さん達の情報を基にした地図の写しを元に、一行は西に進路を取った。目指す村まで遠回りになるが、森を分け入り、道なき道を進むよりずっと良い。
「ふわああ! ちょうちょ!」
ケトは楽しそうに先頭を駆けていく。そういえば薬草採りの時、ケトは大抵は北にまっすぐ進んでいたから、こちらに来るのは初めてなのかもしれない。はしゃぎすぎてバテなければ良いのだが、とエルシアが苦笑する。
「ケトのやつ、ずいぶん明るくなったな」
エルシアの前を歩くガルドスは、あちこち跳ねまわるケトを見ながら呟いた。
「きっとあれが素なのよ。馴染みのない町に独りぼっちで怯えてたんでしょう」
ガルドスはエルシアを何の気なしに見やって、普段あまり見ない表情に目を見開いた。
頬を緩め、まるで我が子を見つめるような大人びた微笑み。まるで聖母の肖像画として描けそうなその表情に、思わず視線を引き寄せられる。
そんな自分に気付いた彼は、慌てて首を横に振った。
「……お前だって、最近楽しそうじゃないか?」
「え、そうかな……? そうかも……」
エルシアは微笑みを苦笑交じりのものにする。何故か浮かべる憂いを帯びた表情に、大男はまたしても目を奪われてしまった。
昔から可憐な容姿の幼馴染だった。そんな彼女も、成長するに従ってふとした拍子に色気を感じさせることが多くなったように思う。今だって、厚手の旅装にマントという洒落っ気とは無縁の格好をしているというのに、どこか視線を引き付けるのは天性のものだろう。
本人は全く相手にしていないが、現に若い冒険者達は彼女に首ったけだったりするのだ。
「……帰る家に誰かがいてくれるっていいものね」
「……ああ、そうだな」
しかし、そんな憂いを帯びた表情も長続きはしなかった。
とててて、と駆け戻ってきたケトが「イモムシつかまえた!」と自慢げに見せびらかしたせいで、エルシアは早く戻してきなさい、と酷く深刻な顔つきで諭していた。
「お前、未だに虫ダメなんだな」
「誰かさんが昔、私の背中にイモムシ入れたのが悪いんでしょうが」
ガルドスがエルシアをつついていると、イモムシにバイバイと声をかけていたケトが何かに気付いたように動きを止めた。じっと前方を眺めた後、エルシアの元に駆け戻ってくる。
「エルシア、あれなあに?」
「ん? ああ、水車小屋ね。昔はここで小麦を挽いたりしたのよ」
「こむぎ……、こむぎこ?」
「そう、パンの材料にするやつね」
時間はもうすぐお昼前。元々急ぐ旅ではないから、足取りはのんびりしたものだ。
「すいしゃ、まちにくるとき、おそらからみえたよ」
「なるほど。それなら方角は間違っていないようね」
「すいしゃはどうしてまわってるの?」
ケトのなぜなぜ攻撃に答えながら、エルシアはそろそろお昼にするのもいいかもしれない、などと考える。その横でポツリとガルドスが呟いた。
「本当に、手つかずなんだな……」
ガルドスの言葉につられ、エルシアも水車小屋に視線を戻した。
スタンピードの囮に使われた小屋は、以前見た時と何一つ変わりがない。水の流れに寄り添うように、ゆったりと穏やかに回っている。辺りには魔物の足跡一つなかった。
「魔物はこっちには見向きもしなかったのね」
ミーシャの報告を思い出しながら、受付嬢はぽつりと呟いた。
「原因が分からないのは、気味が悪いわ……」
「これからきちんと調べるんだろう? ギルドから依頼が出るはずだって、ミーシャから聞いたぞ」
「ええ。マスターが王都から帰ってきたら、具体的な計画を立てる予定にしているから。その頃には復旧も進んで、少しは余裕もできるだろうし」
ケトがキョトンとした顔でエルシアを見上げていた。呆気にとられた顔がおかしくて、エルシアは頭を撫でてやる。
「ケトにはちょっと難しかったかな?」
「うーん?」
「よし、ちょっと早いけどお昼ご飯にしましょうか」
「うん!」
とりあえず、首をひねるのは町に戻ってからでも遅くないと、エルシアは疑問を棚に上げる。家で作ってきたお弁当を取り出し、ケトに手渡した。
―――
薄々感づいていたことだが、ケトの体力は同年代の子よりもずば抜けて高いらしい。
夕刻。太陽が一日の最後の光を放つ時間、オレンジに染まる世界を少女が駆ける。
銀の髪に朱をなびかせ外套をはためかせる姿は、さながら妖精が戯れているようだと、エルシアは遠い目で思った。
「エルシア、大丈夫かよ?」
「な、なんのこれしき……」
ガルドスの心配半分、呆れ半分の視線を浴びながら、エルシアは重い足を動かす。
数年前、冒険者の端くれとして走り回っていたころはそれなりに体力に自信があったのに、もはや見る影もなかった。数年間の受付業務ですっかり体が鈍ってしまっている。
「……おかしいわよ、あの子。なんでそんなに元気なの? 丸一日、あんなに重たい荷物背負って歩いたのよ? なんで駆けまわっていられるの……?」
エルシアの亜麻色の癖っ毛には花が三本刺さっていた。いずれもケトが「みてみて、おはな」と喜び勇んで渡してくれたものだ。
嬉しかったのは分かるが、まだ蕾のラベンダーを刺すのはどうなんだろうと思うガルドスである。
「そろそろ野営の準備しなくちゃいけないだろ? バカみたいに張り合ってないで、ケトを呼んで来いよ」
「バカみたいって何よ。曲がりなりにも保護者としてのプライドが、……って聞きなさいよガルドス!」
薪を拾うため背を向けたガルドスにひとしきり喚いたあと、エルシアはケトを呼びに行った。正直もう歩かなくてすむのは嬉しいと思ってしまったので、彼女は複雑な表情をしていた。




