貴族の戦場 その3
「うーん……」
「ご休憩なされたらいかがですか? かなり長い時間、根を詰めていらっしゃいますが」
「私馬鹿だから。早いところ整理しないと、記憶飛んじゃうでしょ」
降り積もる新雪のように真っ白な紙に、エルシアはカリカリとペンを走らせる。
ブランカで使う藁紙とは明らかにペンの滑りが違った。山ほどある紙を全て好きに使える。これが王女というものかと、エルシアは妙なところで実感を抱いていた。
思い返すのは昨日の夜会の事。
何十人という貴族と挨拶をしたせいで、一人一人の記憶は曖昧だ。ヴァリーがどこからか持ってくれた”貴族年鑑”というぶ厚い本とにらめっこしながら、自分なりに整理する必要があった。
「教会派閥の貴族、というのが判断つかないわね。一体誰を信じたものか……。かといって騎士団は騎士団で危ないし。それじゃあこの人は……、ああやっぱり海沿いの領地。ダメだわ、龍神聖教会の息がかかってるかも。……へえ、あの人クシデンタの領主なんだ……」
ブツブツと独り言を繰り返すことしばし。積み上げられた紙の束がいつの間にか崩れ、机の周りを散らかしているのも構わず、エルシアはやがてびっしりと文字の書き込まれた一枚の紙をつまみ上げた。
「ヴァリー、ちょっと教えて欲しいんだけれど」
「如何なされました?」
「もし私がお願いしたら、護衛を用立ててもらうことってできる? できるだけ口の硬い人で」
「突然何おっしゃってるんですか?」
呆気にとられた侍女に、エルシアは口をひん曲げてみた。なんだろう、時折侍女から漏れる砕けた言葉遣いのお陰か、少なくとも王都の中では話しやすい部類だ。
「何変な顔しているのよ。私が帯剣するよりずっと穏やかでしょう?」
「何をされるおつもりかお聞きしたいのですが……」
「ここに名前を書いた人と話をしたいの。謁見? お茶会? 挨拶? なんて言うのか分からないけれど。相手の人となりを知らないから、自衛手段を持ってね」
ひらひらと紙を靡かせてやると、ヴァリーの目がスッと細まった。「どういうことですか?」と真面目な声で問う。
「正式にケトの後見になるにあたっての下準備。誰が手を貸してくれそうか、きちんと把握しておかなくてはいけないから」
「いけません。今下手に動けば国が揺れます。エルシア様のお立場も危うくしかねません」
予想通りの反応に、エルシアはため息を吐いた。ここ数日の寝不足がたたっていたのか、少しばかりイライラしていた。
「私は王女になりに来たんじゃない。ケトを守りに来たの。そこを履き違えないで」
「エルシア様のお考えを尊重したくはありますが、陛下の血を引いていることは事実なのです。そのあなたが動けば余計な危険を呼びかねません。迂闊な行動はエルシア様ご自身の寿命を縮めかねないのです」
「私がどうなろうと、言うべきことも言ってくれない貴女の知ったことじゃない。もし私が死んだって、それはそれで国も落ち着くでしょう?」
口に出してから言い過ぎたかとも思ったが、それが何だと言うのだ。別に誰かを傷つける発言じゃない。
そう思った王女だったが、次の瞬間「エルシア様!」という声に頭をはたかれた。
「……ヴァリー?」
「今のお言葉、二度と口になさらないでください」
侍女の目に怒りの炎が見える。だがエルシアとて、その程度で怯むような人間ではないのだ。
「何故? 事実でしょう」
「あなたはリリエラ様が命をかけて守り通した子です。その命を軽々しく捨てても良いなどと……!」
彼女の言い分は端的で正しい。全くもって反論の余地がない正論だ。
だが、当然の怒りを露わにした侍女を見ながらも、エルシアの心は凪いでいた。
「……ほら、やっぱりそうだ」
胸の奥がスッと冷えていく感覚。これまでの人生で何度も味わった、慣れ親しんだ諦観だ。
「貴女は私を見てなんかいない。私を通して母の影を見ているだけなんだ」
「……!」
「この城の人はみんなそう。私が母のように何かやらかさないか怯えて、味方につけるか、排除しようとしているだけ」
侍女の表情が揺れる。きっと自分は今酷い顔をしているんだろう。エルシアにだってその程度の自覚はあった。
ロザリーヌだけではない。昨日会った多くの貴族から、それとなく嫌味を言われた。それは笑って返せるくらいの小さな棘。それでも集まれば蜂の巣だ。
皮肉を込めてエルシアは微笑む。
「それでいい。皆そうして怖がっていればいい。私はそれを利用させてもらうだけ。私の大切な人達を、……私をただのエルシアとして見てくれる人たちを、そうして守ってみせる」
ブランカを発ってから、エルシアの口元は歪みっぱなしだ。
「邪魔をするなら私は容赦しない。ヴァリー、貴女が手伝う必要はないわ。これ以上止めるというのならこの部屋から出ていきなさい」
「エ、エルシア様」
「出ていけと言ったの。短い間だったけれど世話になったわ。後は一人で十分よ」
―――
ヴァリーの後ろで扉が閉まった。
扉の左右に控えた”近衛”から、何も持たず出てきた侍女に不審そうな視線を向けられていた。まさか無理やり部屋に戻る訳にもいかず、当てもなく歩き出す。
ふと、手に持った紙に目を落とした。エルシアから渡された書付を持ったまま出てきてしまった。今からでも返しに行くべきだろうか。
部屋から叩き出されて、ようやくヴァリーは気付いた。
エルシアは相当拗らせている。昨日の会話と言い、夜会での騒動と言い、今の彼女はまるで毛を逆立てた猫のようだ。何にでも爪を立てて、敵ばかり作ろうとしている。
意固地になったあの娘に、今更受け入れてもらえるとも思えない。ため息を一つ吐こうとした侍女だったが、紙切れに目を落とし、書き込まれた名前の羅列の一番上を見た瞬間、ぐっと息を飲んだ。
「メイヴィス・クレド・モーリス……!」
思わず口をついて出たその名は、彼女が気付いていないはずだと思い込んでいた者の名前。夜会で第二王女の暗殺を企てた令嬢。
昨日、王女とメイヴィスが直接やり取りしたと言う報告は入っていない。ロザリーヌからエレオノーラ経由という、回りくどい経路で侍女の耳に入った情報も、エルシア本人には一切伝えていないはずなのに。
「まさか、気付いて……!」
ようやく王女が口にした”護衛”の意味が分かり、侍女は心底肝を冷やした。そう言えば彼女は先程「言うべきことも言ってくれない」とも言っていた。なるほど、このことか。
思い違いをしていた。
上辺がしっかりしているから、ついリリエラと同じように接してしまったが、それこそ間違いだったのだ。
エルシアは、既に諦めきっている。
少し考えてみれば分かる話だ。実感はなくたって、幼少期から”忌み子”と呼ばれ、疎まれてきたという知識はある。漏れ聞こえる噂から、自分の存在が国に不利益を与えるのだと、本人が一番分かっていたはずだ。
だから、彼女が生きるためには反論する必要があった。
彼女が出した結論。それがあの”ケト・ハウゼン”という存在。
そして今、彼女は第二王女としての自分を受け入れた。それは彼女の言った通り、一人の少女の為に他ならない。そこから推測できる彼女の行動は。
「いけません、エルシア様……!」
エルシアは自分を囮にして、教会に与する貴族をおびき出すつもりだ。
このままでは迂闊な行動が、王城に蔓延る存在に筒抜けである。その前に何としても、彼女を止めなくてはいけない。
エルシアには貴族としての知識がない。付け入るならきっとそこだ。
「まったく、親子そろって侍女泣かせもいいところです……!」
こちらは一点の曇りもなく忠誠を誓っているのに。なんてはた迷惑な娘だろう。
優雅に見えるギリギリの速さで、ヴァリーは階段を下りて行った。
―――
「これしかない……」
朝食の時にちょろまかした小さなテーブルナイフを片手に、下着でクローゼットを探し回る。人に会いに行くのに適したドレスはどれだ? コルセットはつけるべきなのだろうか。髪型は?
「あーもう、私のバカ……」
あれ程親身になってくれた侍女に、苛立ちを全部ぶつけてしまった。確かにずっと後ろに控えられているのが気詰まりではあったのだが、あそこまで言うつもりはなかったのだ。
昔から直せない、自分の悪い癖だ。少し親しくなりはじめた相手には、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
「……使えるものは使うんでしょう。遠ざけてどうするのよ」
いくら首をひねったところで良案は思い浮かばず、エルシアはぺたりとしゃがみ込んだ。
ずっと考え続けていたからだろうか。一息ついた途端に、とてつもない喪失感がエルシアを襲いだす。
「ケト……」
最後に見た少女の泣き顔を思い出してしまった。ああ、こんなところで座り込んでいる場合ではないのに、その顔がエルシアにとって忘れられない。
「随分、遠い所まで来ちゃったなあ……」
どこか捩れた微笑みを浮かべて、エルシアは胸元で揺れる王印を見つめた。
これがあれば自分はまだ戦える。打つ手が残されている間、自分はまだ幸せでいられる。絶望するにはまだ早いのだ。
そう。為すすべなく死んでいった者を自分は良く知っている。
胸を貫かれた母。大寒波の冬、流行り病にかかった同い年の少年。不慮の事故で帰らなかった冒険者。皆さぞ怖かっただろう。さぞ苦しかっただろう。
死はいつもエルシアの身近にあって、だからこそ、エルシアという在ってはならない存在に、生への執着を生ませた。
まだ、自分には役目がある。それがエルシアの生きる理由だ。成し遂げるまで、エルシアには生き足掻く言い訳がある。
どれくらいそうしていただろうか。やがてエルシアはゆっくりと立ち上がった。両手でパシンと頬を叩いて気合を入れる。
「よし、行こう」
数あるドレスの中から少しでも動きやすそうな一着を選んで、エルシアは衣裳部屋から外に出た。




