赤月さん、名前を知る。
日記をコピーした紙の束を持って来てくれたおじいちゃんにお礼を告げてから、私はさっそく目を通すことにしました。
仏間に置かれている広い台の前に座ってから、もらった紙の束を捲っていきます。
「うーん……。やっぱり、くずし字の辞典がないと難しいなぁ……」
印刷されている文字に目を通していきますが、やはりくずし字を習い始めて数ヵ月程度では大学の教授のようにすらすらとは読めません。
それでも、講義で習ったことを思い出しつつ、文字の形から一文字ずつ、読み解こうと試すことにしました。
「えっと……。この字は……『候』、かな? うむむ……『候』の字は色々あるから判別が付きにくいなぁ……」
難しいです。やはり、くずし字初心者なので自力では上手く読めませんね。
実家にはくずし字辞典はありませんが、もしかすると町の図書館に行けば置いてあるかもしれません。
ですが、明日は図書館の休館日だったように記憶しています。
その次の日は、実家を出る予定の日なので図書館に行くとなると電車の時間に余裕がなくなってしまうかもしれません。
何せ、白ちゃんとことちゃんと一緒に電車に乗る予定ですからね。二人を待たせるわけにはいきません。
「残念だけれど、詳しく調べるのはやっぱり、向こうに戻ってからかなぁ」
今、大学に通学するために借りている部屋には買ったばかりのくずし字辞典を置いているので、このコピーしたものを詳しく調べるのは後日になりそうです。
自力で読めなくても中身が気になった私は印刷された紙をぱらぱらと捲ってみることにしました。
確か、この日記を書いたのは「赤月家」の初代だと聞いています。
数百年前の人ですが、その方はどのような想いでこの日記を綴っていたのでしょうか。そんなことを思いつつ、私は目と手を動かしました。
「……うーん、悪筆というほどじゃないけれど結構、癖がある字だなぁ。なんというか、勢いがあるように見えて繊細にも見えるというか……」
綴られている文字をどのように表現すればいいのか、私は悩んでしまいます。
先祖代々、我が家は今、住んでいる辺り一帯を管理する土地持ちだったようですが、その実質は農家です。
まだ武士がいた時代に農民だった者が文字を書ける方が珍しいので、代々農家である赤月家の日記が存在していることを資料館の学芸員さん達は驚いているようでした。
確かに数百年前と言えば、文字を書くことが出来るのは武士や商売をする者がほとんどだったでしょう。
そんな中、農民であったはずの我がご先祖様はここまですらすらと文字が書けたようなのです。
誰かに文字を習ったのか、それとも──元々は農民ではなかったのか。
真実は分からないままです。
「どうしてだろう……?」
唸るように悩みつつも、私は最後のページを捲りました。
「あ……」
日記の最後に綴られている文字。いえ、それは単なる文字ではありませんでした。
そこに刻まれているのは──名前です。
名前だとはっきりと分かります。たった二文字。
ですが、それはこの日記を書き綴り続けた者が刻んだ証だと私は覚りました。
「ええっと……。この字は……『子』? ううん、違う……これは……多分、『千』だ」
似ているようですが、何故か「千」だと分かりました。私はそのまま、「千」の字のあとに続くものに視線を向けます。
「『衣』に似ているけれど、違うだろうし……。あ、『士』っぽい? それでその下に続けて書かれているから、これは……」
私ははっと息を飲み込みました。
そして、綴られた名前がどのような名前なのかを認識します。
「……──『千吉』」
コピーしたものにはっきりと印刷されている文字を右の人差し指でなぞりつつ、私はぼそりと「名前」を呟きます。
この名を持つ人こそが、赤月家のはじまりの人、なのでしょう。
「この人が……」
恐らく、名前から見て男性です。
ですが、何故でしょうか。初めて聞いた名前なのに、妙に懐かしい感覚を覚えてしまう理由が分かりませんでした。
「千吉、さん……」
一瞬、胸の奥がざわめいたような気がしましたが、私は小さく首を傾げます。
名前を知ってしまえば、この日記を全て読み解きたいという感情が更に沸き上がってきます。強い感情を抱いているのに、それをどのように呼べばいいのかは分かりません。
名前のあとにはそれ以上、文字は綴られてはいませんでした。
恐らく、名前を書くことで「終わり」にしたのだろうと思います。
日記ならば、生きている間に何冊も書き綴るものだと思っていましたが、この方はこちらの一冊で「終わらせている」のだと分かりました。
「……千吉さん、かぁ……。あとでおじいちゃんに聞いてみようかな」
我が家のことと言えば、おじいちゃんに訊ねるのが一番でしょう。
もし家系図が残っているならば、見せてもらいたいところですが、そのような話は聞いたことがありませんし……。
「──千穂。次、お風呂入っちゃってー」
襖の向こう側から、お母さんが私へと声をかけてきます。どうやらお風呂の順番が回ってきたようですね。
「はーい」
私は返事を返してから、立ち上がります。そして、見やすいようにと広げていた紙をまとめることにしました。
その際に、最後のページに記されている「千吉」という名前が再び目に入ります。
「……」
私はもう一度、その名前を指でなぞりました。
「……千吉さん。あなたの日記、読み解かせて頂きますね」
静かに呟いても返事はもちろんありません。私は日記をコピーした紙を一つにまとめてから、それを脇に挟みつつ、仏間を出ました。